「3・11とその後の経験が、この本につながった」と語る大村克巳氏

今年、松江市教育委員会による「閲覧制限問題」で、あらためて脚光を浴びることになった反戦マンガの金字塔『はだしのゲン』

『「はだしのゲン」創作の真実』では、カメラマンの大村克巳氏が『はだしのゲン』の作者である中沢啓治氏の夫人や、『週刊少年ジャンプ』の担当編集者など、中沢氏ゆかりの人物をインタビュー。彼らの話を通じ、『はだしのゲン』が生まれた時代や現場の空気をたどっていく。

巻末には中沢氏の病気で未発表となった幻の『はだしのゲン』第2部の貴重な草稿と、1968年に発表された原爆マンガの原点ともいうべき『黒い雨にうたれて』も収録されている。大村氏に聞いた。

―大村さんご自身もプロローグで触れられていますが、これは一種の「3・11本」だととらえてもいいのでしょうか?

「そうですね、少なくとも3・11とその後の経験が、この本につながったことは事実です。

あの震災と原発事故の後、巷には放射能の危険に関する情報が氾濫し、誰もが専門家のように語るようになっていきました。僕自身もそうで、ガイガーカウンターを手に入れようとしたりしました……。

でも、よく考えてみたら、自分は放射能や原発のことを何も知らないどころか、戦争中に広島・長崎に落とされた原爆のことすら、ほとんどわかっていないということに気づいたんです。

そんなとき、たまたま広島で撮影の仕事があり、中沢先生に直接お会いできるチャンスがあったのです。しかし当時、先生の体調がよくなかったこともあって、あまりお話をすることはできず、また別の機会にと思っていたら、その年の12月に亡くなってしまった……。そこで、『とりあえず手元に残った中沢先生の写真を奥さまに渡しに行こう』と思い立ったことが、すべての始まりでした」

―その後、アシスタントとしても中沢氏を支え続けた夫人の中澤ミサヨさんや、雑誌連載時の『はだしのゲン』の担当編集者だった山路則隆氏のインタビューを通じて、大村さんは、『はだしのゲン』創作の現場を追体験していきます。その前と後で作品や、作者の中沢啓治氏の印象は変わりましたか?

「そうですね、中沢先生が相当キツイ状況で仕事を続けていたことがわかりました。それは、自分がこれまで想像していたキツさとは明らかにレベルの違うものだったということを実感しました。人間ってどんなにつらいことがあっても、時間がたてばある程度は忘れるようにできていて、だからこそ、前を向いて生きていけるという面もあると思うんです。

しかし、中沢先生は6歳のときに被爆し、その後、マンガ家とし活躍しながら、14年間も『はだしのゲン』を描き続け、連載を終えてからも講演などで死ぬまで『原爆』と向かい続けてきた。

今回、こうして先生の周りにいた方々のお話を伺ったことで、中沢先生が自分にとって一番つらい経験と常に正面から向き合っていたのと同時に、その重さを背負いながら創作を続けていたのだということがわかりました。

同じモノを創る仕事に携わる人間として衝撃を受けたというか、僕にはとてもまねできないと思いましたね。

3・11も同じで、それに正面から向き合い続け、題材として残していくという作業の過酷さは想像を超えるものがあります。『はだしのゲン』はそうした『創り手の覚悟』を僕たちに教えてくれる作品でもあるんです」

(取材・文/川喜田 研 撮影/有高唯之)

●大村克巳(おおむら・かつみ)1965年生まれ、静岡県出身。86年、日本写真家協会展(JPS)で金賞を受賞。2002年、日韓文化交流年記念事業「済州島」作品展を日本と韓国で発表。2009年から12年、『ZERO写真展』を開催。東京で活動しながら、ニューヨークのエージェントとも契約

■『「はだしのゲン」創作の真実』 中央公論新社 1470円震災後に『はだしのゲン』の作者、中沢啓治氏を撮影し、あらためてこの作品に向き合った著者。中沢氏の死後、雑誌連載時の担当編集者、妻の中澤ミサヨさん、広島平和記念資料館の前館長にインタビューし、『はだしのゲン』誕生の足跡を探った一冊