今年も終戦記念日の暑い夏がやってきた。来年にはあの苦難の記憶から70年ーー。
ゼロ戦、そしてカミカゼ。現在では神格化されたキーワードだけど、その真っ只中にいた若者たちはちょっとリア充で、ユーモアもあり、いまの若者と変わらない男たちだった。元特攻隊員の生き残りの男たちがリアルな人生を語る、好評シリーズ第二弾!
***
「小さい頃から海軍が好きだった」。そう語る江副隆愛(たかよし)さん(90歳)は、上智大学の1年生だった昭和18(1943)年10月、学徒出陣で土砂降りの東京・明治神宮外苑競技場にいた。祖父はたばこの輸入で財を成し、父親はアメリカへ留学。自宅は現在も高級住宅地である東京・白金三光町。当時、超ド級のセレブだった江副さんの少年時代とは?
江副 セレブじゃないよ。僕が生まれたのは動物病院ですから(笑)。
―は!?
江副 僕が生まれたのは大正12(1923)年9月10日なんです。関東大震災の9日後ですよ。臨月の母が避暑で鎌倉まで来ていて。そこの動物病院で生まれたんです。
―関東大震災のほかに歴史的大事件とのニアミスは?
江副 昭和11(1936)年の2月26日。二・二六事件ですね。あの日は戒厳令なのを知らなくて、市電に乗って普通に高橋是清さんの家の前を通学してた(笑)。
―それ、クーデターでプチ内戦状態だから、いつもより兵隊が多いとかなかったんですか?
江副 当時はそこらじゅうに陸軍の兵隊がいて、軍歌を歌いながら歩いていたから兵隊慣れしていてまったく知らなかった。高橋是清さんが亡くなったのを知ったのも少したってからですよ。
―お父さんは留学やたばこの貿易で海外生活が長かったと聞いています。小さい頃から欧米文化に触れる機会は多かったのですか?
江副 物心ついたときには、東京の家にはアメリカのレコードや雑誌がいっぱいありましたね。
―小さい頃に衝撃的だった海外の文化は?
江副 文化というか、おやじが僕に言ってたことが衝撃的だった。うちのおやじはね、16歳からアメリカに行って、ニューヨークにあった私立の陸軍幼年学校(軍人を養成する全寮制の学校)へ7年間も通ってた。そんなおやじが小学生の僕に言ったの。「日本とアメリカが戦争になったら、僕はアメリカの兵隊になって戦う」って。
―映画とかだと憲兵さんにボコボコにされそうな発言かも!?
江副 僕も小学4、5年生のときにこれを言われたもんだから、おやじが何を言ってるのか意味がわからなかった。でも、おやじはニューヨークの高層ビルを見て、幼年学校でアメリカの兵器にも触れてたから、日本が負けるのはわかりきっていたんだろうね。
―そんな話を聞かされていた江副さんが、昭和16(1941)年の12月8日の開戦を知ったときは?
江副 自宅のラジオで開戦を聞いて「やったー!!」って(笑)。すごく興奮した。もし、今の若い人たちがあの瞬間にいたとしても、同じように興奮してたと思う。それぐらい大事件だった。
映画以上の大迫力!! 海軍の鉄拳制裁
■映画以上の大迫力!! 海軍の鉄拳制裁
―開戦直後から海軍に入りたいと思ったんですか?
江副 僕の場合はね。親戚や同級生に海軍将官の子たちがいたから、海軍好きだった。よく軍艦の絵も描いてたね。観艦式も行った。軍艦・由良(ゆら)に乗りましたよ。だからずっと海軍には憧れてた。
―当時、海軍は女のコにも人気があったんですか?
江副 カッコいいもん。階級が下の水兵でも、吊り床なのに寝押ししてズボンにビシッとラインが入ってたり、飛行機乗りは白いマフラーをしてる。あのマフラーは私物なの。僕、操縦員になったときマフラーを持ってなくて、代わりに腹巻きを首に巻いて写真撮ってもらったよ(笑)。
―江副さんが学徒動員で召集されたのは、昭和18年の10月。明治神宮外苑競技場で行なわれた出陣学徒壮行会にも参加したとか?
江副 土砂降りのなか行進してましたね。
―当時のニュース映像では軍楽隊が盛大に演奏していますが、実際にあんな感じだったんですか?
江副 陸軍の分列行進曲が演奏されてた。小さい頃から慣れ親しんだ軍歌ですよ。僕、今でも軍歌を聴くよ。なんか暗い気持ちになって寝てても「起きなきゃ!」って元気が出る。やっぱり軍艦マーチが好きですね。これは、日本の登録商標みたいなもんだから(笑)。
―やはり学生さんは海軍に志願する方が多かったんですか?
江副 よく特攻で生き残った連中が「俺は陸軍の訓練が嫌いだから海軍へ行った」なんてのがいるけど、あれは大ぼら(笑)。上から「海軍は人員がいっぱいだから、おまえは陸軍だ!」と言われれば、それで陸軍入りなんだから。
―実際に憧れだった海軍へ入隊してみてどうでしたか?
江副 横須賀の武山海兵団で訓練が始まったんですよ。分隊で対決するカッター(ボート)訓練とか棒倒しが大変だったなぁ。負けると晩ご飯が食べられないからね。
―現在、全国的に有名な横須賀の海軍カレーはどうでした?
江副 横須賀のは肉が入ってなかった気がする! お肉はみんな調理係が食べちゃったみたい(笑)。肉はないけど、なぜか小さい梅干しはいっぱいあって、ひとりに20とか30粒出てきたり。おもしろいところだよ、海軍って。
―外出とかはできたんですか?
江副 外出で油壺(あぶらつぼ)に行ったとき、久々の娑婆(しゃば)だったから料理屋に入って注文しまくったの。でも、それを訓練教官に見つかって全員呼び戻されたんです。外食するのは規則でダメだったから。急いで呼び出されたもんだから、みんなお店に帽子や靴を片方忘れちゃったりで大騒ぎ。飯を食えないどころか帰隊後、怒られて腕立て伏せ50回ですよ(笑)。
―横須賀の後はどちらへ?
江副 茨城県の土浦海軍航空隊へ行ったの。基地に到着してみんな格納庫へ集合した。初めて入った格納庫は薄暗くて、こもったオイルのにおいがね、なんとも緊張感を高めるんですよ。そこで点呼があったんだけど、これが大変。声が小さいと上官にブン殴られるの。
―は!? いきなり体罰!?
江副 上官が「足を開け!! 歯を食いしばれ!! いいかーッ! イクぞー!!」ってアゴにボカン!って殴られてた。平手だと鼓膜が破れるからグーで殴るの。いやー、おっかないとこ来たなと(笑)。これが初日ですよ。
―訓練も厳しかったんですか?
江副 訓練がきついから、薬が支給されてた。
―ヒロポンとか?
江副 まさか! 海軍の“居眠り防止薬”ですよ。でも、まったく効かなかったなー(笑)。みんな薬を飲んだくせに寝ちゃってるんだよ。これはおもしろかったよ。
映画化確定! 戦場のラブレター
■映画化確定! 戦場のラブレター
―では、基地での日常生活についてお聞きします。手紙は基地外の郵便局から出せば検閲がスルーだったそうですが、軍事郵便を使うとどうなるんですか?
江副 ある日、上官がね、「おまえらのなかにこんな手紙を出したヤツがいる! 今から、それを読み上げるぞ!!」って。
―これは鉄拳制裁確定!!
江副 その内容が「鳥も通わぬ百里原で恋しい貴女(あなた)の手紙を待ってます」って、ラブレターを読み上げられた。実はこれ、僕が書いたやつなんだよ(笑)。
―ちょっと、恥ずかしいですよね。
江副 いやいや。これは、みんな盛り上がったよ(笑)。
―彼女さんいたのですか?
江副 いた。訓練で鳥取県の米子(よなご)に行ったときに、駅のホームで女子挺身隊のかわいい女のコを見つけた。しばらくたって九州の航空隊へ移動する日、たまたま米子の書店に彼女がいたんですよ。そこで僕は彼女に、こんなこともあろうかと、いつも持っていた白い手袋を渡したの。
―え!? どうしてそれで彼女ができるんですか?
江副 また米子を通ったときにね、駅にいた女学生に手紙を渡したの。「こういう出会いがあって、白い手袋を渡した人がいて探しています」って内容の。そうしたら、その白い手袋を渡した女のコから基地に手紙が届いたんだ。それから文通が始まったの(笑)。
―これは映画化確定!
江副 でも、その後は会ってないんだよ(笑)。結局、手紙だけ。基地ではそんなことを戦友たちとお酒を飲みながら話してたね。
―では、飛行機についてのお話も聞かせてください。
江副 初めて乗った飛行機は赤とんぼという練習機。初めは怖いですよ。ちょっと機体が浮いただけで怖かった。でも、慣れると、こんな楽しいものはないね!! 「俺はタダで飛行機の操縦させてもらってる!」と楽しんでた。
―その後はどんな飛行機に?
江副 ゼロ戦とかの戦闘機も選べたけど、僕は九九式艦上爆撃機の操縦員を選択した。
―どうして艦上爆撃機に?
江副 “艦爆乗りは男の中の男”だもん! 高度3000mから800mまで急降下して、爆弾を落とす。そして一気に機体を引き上げる。
―ちょ、それはキケンすぎ!
江副 だから艦爆は男の中の男の乗り物なの。これを操縦したときはうれしかった。「これで戦える!俺も一人前の兵隊になった」って。
―飛行機の操縦がうまい人とかいましたか?
江副 アメリカのパイロットのほうがうまかった(笑)。戦闘機の性能も上だし、小学生のとき、おやじが「アメリカの兵士になって戦う」と言ってた意味がわかりましたよ。
―空戦を経験されたことは?
江副 ないですよ。爆撃機だから。でも基地にいてアメリカの戦闘機に機銃掃射されたことはあった。
―怖かったですか?
江副 怖いね。でも、ピストル一挺持ってるだけで怖くないんだよ。そのピストルで反撃なんかできないけど。不思議だね。
―機銃掃射にはどのように対応したんですか?
江副 小屋でむしろをかぶって震えてた。それを見た戦友が「おい、江副。それじゃ敵の弾丸は防げないぞ!」って。こんなときなのに冗談言ってる。でも、その戦友も念仏を唱えてるの(笑)。笑い話だけど、そのときはお互い必死だった。
―江副さんの特攻はどのように決定したんですか?
江副 上官から「特攻隊に志願するものは、一歩前へ!」ってあるでしょ。あれですよ。
―映画で見たことあります。
江副 映画だと躊躇(ちゅうちょ)したり震えたりするけど、そうじゃない。「一歩前へ!」と言われたら、みんな一斉に前へ出た。まだ、戦争も景気が良かったんだろうね(笑)。
特攻を見送る者の心境とは?
■特攻を見送る者の心境とは?
―江副さんが特攻出撃をしたのはいつですか?
江副 僕ね、出撃してないの。順番が回ってこなかった。
―では、出撃前の隊員たちはどのようなことをしてたんですか?
江副 酒飲んで歌ってた。沖縄民謡の替え歌があってね。例えば遠藤ってヤツだったら、「遠藤も死んだら、かむしゃま(神様)よー」って歌ってた。
―出撃前日でもお酒って飲めたんですか?
江副 飲んでも構わない。だいたい3日前に特攻出撃の通達がある。行く連中だけ黒板に張り出されるの。「3日前 飲んで泣くやつ 笑うやつ」。そういう川柳もあった。前の晩に飲みすぎてフラフラで飛行してくのもいたよ。
―先に出撃する戦友の言葉で印象的だったのは?
江副 「ちょっくら行ってきやす!」って、冗談交じりに出撃したのがいた。そんなの普通は言えないよね。そんな彼らを、『海行かば』を歌って見送る。『君が代』じゃなくて、ほとんど『海行かば』だよ。
―出撃する戦友たちを見送るときの気持ちは?
江副 寂しいし、恥ずかしかった。今でもそれは思ってる。
―出撃後にやることは?
江副 遺書や遺髪とか、出撃した戦友たちの私物の整理をするけど、事務的にやってた。泣くこともないですよ。「次は自分だ」と覚悟してたから、特に自分の家族のことも思い出さなかったな。考えるのは戦友のことだけ。前日までバカ話してたヤツが次の日にいなくなる。それが日常だったんだよ。すごい時代だったな。
―江副さんにとって戦友とは?
江副 あのとき一緒に死ねばよかった。今でも、そう思える仲間が戦友。
―ちなみに、江副さんは遺書とか書いたんですか?
江副 書いたけど、うまく書けなくて、やめちゃったよ(笑)。
―その後、江副さんは茨城県の百里原へ移動することとなった。
江副 東京大空襲の直後の上野を通ったら“ひぃー、ひぃー”って音が聞こえる。風の音なのか人の声なのかわからない音。ただ焼け野原の暗闇から、その音が聞こえてくる。“ひぃー、ひぃー”って音だけは今でも鮮明に覚えてる。
―百里原から爆撃されている東京って見えるんですか?
江副 東京方面の地平線が真っ赤になってる。B29の爆音も聞こえる。でも迎撃する戦闘機もない。誰も何もできない。「戦争は負けちゃいけない!!」と思ったよ。
―玉音放送はどこで?
江副 百里原だったけど、何言ってるかよく聞き取れなくて、わからなかった(笑)。でも、とりあえず戦争終わったみたいだなと。
―それを聞いた感想は?
江副 神妙な顔してたと思うけど、内心は「やったー!!」だった。ホッとしましたよ、緊張感がなくなって飯がうまかったから、1週間で5kgも太った(笑)。
―戦前と戦後で最も変わったことは?
江副 僕の場合は、戦後は戦前に戻っただけ。そんな感じ。
―最後に、もし再び戦争になったら?
江副 敗戦を経験してるとね、“戦争は勝たなきゃいけない!!”となるんですよ。今後、日本から攻めることはないでしょう。でも、相手が攻めてきたらね、老体にムチ打って、また出かけますよ(笑)。
江副隆愛(えぞえ たかよし) 1923 (大正12 )年9月10 日生まれ、東京都出身。復員後は上智大学へ復学。その後、外国人向けの日本語学校「学校法人江副学園新宿日本語学校」を開校する。「復員するときにもらったのは、このライフジャケットだけでしたよ(笑)」(江副)
(取材・文/直井裕太 構成/篠塚雅也 撮影/村上庄吾)