期待されながらケガで一軍登板のないまま引退した辻内氏だが、指導者として再起を期す

プロ野球ドラフト会議が今年も迫ってきた。数々の“伝説の瞬間”を生み出してきたその歴史のなかで、2005年、大阪桐蔭高から高校生ドラフト1巡目で巨人に入団した辻内崇伸(つじうち・たかのぶ)氏に、“運命の1日”を振り返ってもらった。

■「実は、なぜか巨人用とオリックス用のカンペが用意してあったんです」

―辻内さんは大阪桐蔭高時代の2005年に夏の甲子園4強。150キロを超える豪球左腕で話題になりました。

辻内 3年の夏は大阪大会では不調で、当時1年生だった中田翔(現日本ハム)が投打に活躍したおかげで甲子園に行けたようなものでした。その後、甲子園の2戦目から僕も調子が上がってきまして。今考えると、あの頃が一番楽しく投げられていました。

―その年の高校生ドラフトで巨人から1巡目で指名されてプロ入り。会議前から騒がれたのでは?

辻内 3年の夏までは寮だったのでわからなかったんですが、家から通うようになって近鉄電車で知らないオッチャンに「お、辻内くん!」と声をかけられたりはしました。あと、新聞に僕の名前が載ったときは父が喜んでくれたので、親孝行できたなと。でも、自分自身はそれまでと変わりませんでしたね。ドラフト前日もよく眠れましたし。

―当日は巨人とオリックスに指名されて抽選となり、オリックスが交渉権獲得……と思いきや、手違いで巨人になるハプニングがありました。

辻内 実は、会見で話す内容の紙が、なぜか事前に巨人用、オリックス用と用意されていたんです。最初オリックスになって、待機中に必死に覚えたカンペどおりに話し始めたんですが、モニターに「巨人」と出て、「こんなん出てますけど?」となりまして(笑)。

―最終的に巨人となり、「実は巨人ファンでした」と笑顔で告白していましたね?

辻内 言う機会がなかったんです。どの球団でも光栄と思っていましたから。ただ、一度ダメだった後で巨人になったので、思わず本音が。その後も撮影があったりして、とにかく長い一日でした。

契約金1億はどんどん減っていった…

―契約金は破格の1億円!

辻内 最初は実感がなかったですが、通帳を見たらゼロがたくさんあって「すげー!」って。でも、税金やお世話になった人にお礼をするうちに、どんどん減っていきましたけど(笑)。

―キャンプは一年目から一軍スタート。ただ、その年に早くも肩痛となるなど、ずっと故障続きでしたね。

辻内 ヒジを手術するまでは痛くてもある程度やっていましたけどね。巨人はピッチング練習の前に投内連係の守備練習をガッツリやるんです。あれが僕にはしんどかった。送球も全力なので、一日に2度投げ込む感じでした。

―巨人ということで大変だった点はありますか?

辻内 一軍はサードが小笠原さん、二遊間は仁志さん、二岡さんと有名人ばかりで、最初の投内連係は緊張しました。逆に高橋由伸さんなど外野は直接関係ないので、僕の中では“優しい方々”。慣れてからは、皆さんによくしていただきましたよ。

―引退後は悩んだ末に「わかさ生活」の社員として女子野球の指導者になりました。

辻内 教えるのは本当に大変です。選手のときはよく怒られましたけど、今は怒る立場になり自分自身も勉強の日々ですが、いずれは野球だけでなく人として育てていける指導者になりたいです。

(取材・文/キビタキビオ 谷上史朗 取材協力/寺崎 敦)

●辻内崇伸(つじうち・たかのぶ)1987年生まれ、奈良県出身。大阪桐蔭高から高校生ドラフト1巡目で巨人に入団。13年に引退後、女子プロ野球イースト・アストライアのコーチを務める

■週刊プレイボーイ44号(10月20日発売)「総力特集13P! プロ野球ドラフト会議 伝説の瞬間」より(本誌では、江川問題からKKコンビの明暗ほか一挙紹介!)