「古代エトルリア文明」が3000年近く前に誕生したときに造られたイタリア中部の山上都市チヴィタ

1回目では伝説の“アトランティス大陸”がどこにあったのか、2回目ではその失われたアトランティス文明とはどんなものだったのかを読み解いてきたこの連載。

3回目の今回は、この“失われた人々”がどこへ行ってしまったのかを解明していく。古代アトランティス人たちは、イタリア半島に渡りギリシャ・ローマ文明につながる人たちと、大西洋に出て、南米大陸にまで移り住む人たちに分かれていた!

■イタリアに突如現れた謎のエトルリア文明

これまでのレポートで、「アトランティス伝説」の真相が浮かび上がってきた。ギリシャの哲学者プラトンが伝説に記した“失われた陸地”とは、どうやら地中海中央部に浮かぶ「マルタ島周辺」だったようだ。

今から8000年前頃、この海域には広い面積の「マルタ古陸」が存在し、大きな石造神殿を築く古代文明が生まれた。しかし、その「マルタ巨石文明」は4000年前頃、急激な地殻変動による水没、大地震、大津波で壊滅状態に陥り、二度と復活しなかった。

ところが、その巨大天変地異を生き延びた人々が、マルタ島を脱出して「サルディニア島」へ渡った形跡がある。イタリア半島から西へ約400km離れたサルディニア島では、4000年前を境に、マルタ巨石文明の石造神殿とよく似た「ヌラーゲ」と呼ばれる謎の大型建築物が次々に造られたからだ。

ただし、このヌラーゲ文化も2500年前頃に北アフリカの強国カルタゴに侵略され、約1500年間の歴史に幕を閉じた。

そして、重要なのはここから先だ。ヌラーゲ文化が滅び、ギリシャとローマの文明が栄えるまでの数百年間、地中海地域ではもうひとつ注目すべき古代民族の活躍があった。それは、イタリア半島の北部・中部地方に突如として現れた「エトルリア文明」である。

200年足らずで大発展を遂げたエトルリア文明

その主人公であるエトルリア人たちは12の都市国家(ポリス)を建設し、200年足らずのうちに歴史上でもまれな大発展を遂げた。同じ時期のイタリア中部には、ローマ帝国の前身となったポリスもあったが、都市の規模も生活レベルもエトルリア文明のほうがはるかに勝っていた。

現代のイタリア経済にとっても生命線である北部・中部地域の豊かな農業地帯を開発したのも、エトルリア人の功績だった。彼らはイタリア半島内の鉱物資源を本格的に採掘・精錬し、青銅器時代から鉄器時代への道筋をつけた。美しく精巧な細工を施したエトルリアの金銀製品は、もうひとつの新興勢力ギリシャにも盛んに輸出された。

金地金に金微粒を溶接して図柄を描く超絶技法を2700年前に確立

さらに、壮大なドーム型の石造建築、写実的な彫刻や絵画技法など、後のヨーロッパ美術の基本形も、すべてエトルリア文明から生まれた。その一方で、今もエトルリア人には多くの謎がつきまとっている。例えば、いち早くアルファベット文字を使っていたが、エトルリア語の主要単語と文法は、ギリシャ、ローマ時代のラテン語とは大きく異なり、言語系統は解明されていない。

2500年以上前の墓に埋納された墓碑銘らしきエトルリア語をアルファベットで刻んだ青銅板

前述のようにヌラーゲ文化と入れ替わってエトルリア文明が現れたので、カルタゴに追われてイタリアへ逃げたサルディニア島民がエトルリア人になったという仮説もある。しかし、すでにその前からイタリア各地にエトルリア人集団が住み着いていた痕跡もあり、民族のルーツがさっぱりわからないのだ。

4000年から2500年前頃の地中海地域には、中近東、アフリカ、未開地のヨーロッパ内陸部などから、さまざまな異民族が移住していた。その頃の宗教の主流は「多神教」で、エトルリア人も複数の神々にいけにえの動物をささげてお告げを聞く儀式を行なっていた。

しかしエトルリア人の社会には、ほかの周辺民族と決定的に違う特徴があった。それは女性の地位が高く、政治的にも男性と変わらない発言力を持っていたことだ。

徹底したエトルリア文明の女性尊重思想

その当時、男性優位が当たり前だった他民族から見ると、エトルリア人の女性尊重社会は極めて異様に感じられたようだ。考古ジャーナリストの有賀訓(あるが・さとし)氏によると、

「例えば古代ギリシャの宴会では、居合わせる女性といえば音楽や踊りのプロ、娼婦などに限られていたのに、エトルリアでは一般家庭の主婦が当たり前に同席したため、ギリシャから来た客人たちがエトルリア女性をふしだらだと非難したという記録があります。

エトルリア文明が“女系社会”だったかどうかは不明ですが、ポリスの指導者を選ぶときにも女性の意見が大きな影響力を発揮したようです。また女性も男性と同じく名字(氏族名)と名前のふたつを持っていました。これも男女の立場に差がなかったことを想像させます」

イタリア各地の博物館では、エトルリア文明が残した生活道具や美術品をじっくりと鑑賞できる。特にローマ市内にあるエトルリア考古学の専門研究施設「ヴィラ・ジュリア国立博物館」の展示物は膨大で、なかでも目を引くのが石製または陶製の立派なエトルリア人の「棺」だ。それらの棺のふたには、夫婦らしき男女が上半身を起こして寄り添う彫像がのっている。博物館の学芸員は、こう解説してくれた。

「古代エトルリア人は貴族も庶民も皆、男女でひとつの棺に葬られるのを好んだようです。おそらく一夫一婦制の社会で、死亡時期は違っても永遠に結ばれ続けることを願ったのでしょう。ローマ時代の墓でも夫婦一緒の埋葬は多いのですが、エトルリア人ほどの強いこだわりは古今東西に例がありません」

生前の夫婦らしき像を彫ったエトルリアの石棺蓋

この徹底したエトルリア文明の女性尊重思想には、どんな歴史的背景があったのか? ここで思い浮かぶのが、やはり「アトランティス=マルタ巨石文明」との関連性だ。

プラトンが記した伝説によると、アトランティス王国を初めて統治したのは神々の血を引く女王だったという。そしてマルタ島とゴゾ島の神殿でも、熱心に女神像を崇拝していた。そうした女性に対する特別な思いが、エトルリア文明にも受け継がれたのではないか? 実際、エトルリアの宗教遺跡からも女神像が数多く見つかっている。

エトルリア文明はアトランティスの流れ?

マルタ島の神殿から出土した推定5000年前の「眠る女神像」

2500年前以後に造られたエトルリア人の石棺蓋の多くにも女性像(巫女?)が横たわり、共通した宗教思想が感じられる

また、エトルリアの石造神殿と王墓は、マルタ巨石文明と同じく、夏至・冬至・春分・秋分の太陽光線が内部に差し込むように設計されている。さらにもうひとつ、興味深いエトルリア文明の考古遺物がある。それは“横たわったひとりだけの女性像”がのった棺蓋、または単体の彫刻品だ。

有賀氏の説明では、「このエトルリアの遺物は独身で死亡した一般女性ではなく、神に仕える巫女や女性神官、あるいは女神そのものを彫刻したという見方が有力です。そして驚くことに、まったく同じタイプの石造遺物が、いくつもマルタ島とゴゾ島の神殿内部から出土しているのです。それらはすべて太った女性像で、休息する女神を表現した奉納品でしょう」

マルタ巨石文明時代の「墓地」は水没した低地にあったのか、巨大天災で大量死して「地下神殿」に埋葬された7000体の遺骨以外に、普通の墓は10ヵ所ほどしか見つかっていない。だが、それらの墓でも男女の遺骨が仲良く寄り添っていた。

つまり、2800年前から2500年前頃にかけて隆盛を極めたエトルリア文明は4000年前に本拠地を失ったアトランティス=マルタ巨石文明の流れをくんでいた可能性が高いのだ。

最初、このエトルリア文明はローマを支配していたが、やがて立場が逆転してローマ帝国に吸収された。しかしイタリア北部・中部地域の古い都市に先祖代々暮らしてきた人々は、今もエトルリア人の血筋と文化を色濃く受け継いでいる。また、ギリシャ文明についても、エトルリア人が精錬した高品質の貴重金属「錫(すず)」を仕入れ、地中海各地に転売した富で繁栄を支えた。マルタ巨石文明、すなわち“アトランティス文明”は、後世のヨーロッパを発展へ導く原動力になったのだ。それは4000年前にマルタ古陸から脱出した人々と、その子孫たちの苦難と努力のたまものだった。

*明日、配信予定の後編に続く!

(写真/有賀 訓 『ETRUSCAN PLACES』(SCALA)より一部画像転載)

■週刊プレイボーイ46号「短期集中連載・古代史最大の謎を追う! 第3回 脱出したアトランティス人は南米アンデスに渡っていた!」より