4000年前以降のアンデス文明遺跡が数多く残るチチカカ湖の南端地域。チリパ文化が誕生した3700年前頃は、今よりも湖面の水位が高かったようだ。

アトランティス候補地”として本誌がたどり着いた、地中海の中央に浮かぶ「マルタ島」と「ゴゾ島」。そのマルタ島で見つかった“渦巻き”模様の「大型石板」とよく似た石板が、南米アンデス高原でも発掘された。これらの意味することとはーー?■南米アンデスで4000年前頃、突如、先進文明が!

マルタ巨石文明独自のものと推定される「渦巻き文様」と「宇宙観」。その象徴と思われる「四隅渦巻き石板」が、なぜ地中海から遠く離れた海抜4000mの南米アンデス高原地帯に姿を現したのか? 南米の古代文明といえば「インカ」が有名だが、インカ帝国がアンデス高地を統一したのは15世紀の前半で、それまでには数多くの地域文化が現れては消えていった。

日本人と同じアジア人種が、氷河期に凍ったベーリング海峡を渡って南米大陸へ入ったのは、2万年前頃と推定されている。その年代のアンデス山脈は広大な氷河地帯だったが、赤道に近いペルーとボリビア・アンデスでは1万年前頃には大量の氷雪が解け、現在の琵琶湖12個分よりもさらに広い面積のチチカカ湖ができた。

そのチチカカ湖周辺に9000年前頃から少数の人々が暮らし始め、湖の魚と水鳥を獲り、芋類などを栽培する生活が5000年近く続いた。その後半には野生動物のリャマを家畜化したが、同じ頃の地中海に栄えたマルタ巨石文明とは比べようのない質素な生活だった。

だが、4000年前を過ぎた頃から、チチカカ湖畔の人間社会は大きく変化した。その頃にチチカカ湖の南岸地域に現れたのが「チリパ文化」だ。

それまでこの地域の文化には、土器や織物柄などでもそれぞれ違った特色が見られた。しかし、ある頃から一斉に、そして突然に、高水準の石材加工技術を駆使した立派な宗教施設が造られ始める。チリパ文化では、すべて平らに磨いた石材を使い、16棟の神殿が一辺約23mの四角い半地下式の儀式場を取り囲むという大規模な施設が建造された。

そして、このチリパ神殿の床から1基、儀式場近くから1基、合計2基の「渦巻き文様石板」が1970年代に発掘されたのだ。

異なる模様の2基のチリパ石板

ご覧のように2基のチリパ石板の模様は、かなり異なっている。先に作られたと推定されるほうは、渦巻きの回転方向を強調するために矢印マークが彫ってある。中心の円内は「オバQ」のような顔だが、これは太陽を擬人化したモチーフのひとつで、インカ時代まで多くの土器・土偶などに描かれた。

擬人化された太陽の顔を彫ったチリパ石板。渦巻き文様は簡略化され矢印に。その点がマルタ渦巻き石板とは違うが、四隅が巻いているのは共通。

そして太陽の両側には家畜のリャマが4頭、太陽から手か足らしきものが伸び出た上下には、これも矢印つきのうねった線が彫られている。これらの文様と絵には、どんな意味があるのか?

「この石板はボリビア国立考古学博物館に収蔵され、大切なリャマを育てる牧草が順調に育つように願いを込めた祭り道具ではないかと南米考古学者たちは推測しています。たとえチチカカ湖の近くでも“干ばつ”が続けば牧草は枯れ、雨が降りすぎると水害が発生します。だから、太陽が程よく雨雲をコントロールしてくれるように祈ったのです。その太陽から発する見えないエネルギーの渦巻きは、マルタ巨石文明とまったく同じ発想で彫られたのでしょう」(有賀氏)

■なぜアンデスの人はあんな高地に住むのか?

もう片方、チリパから約30km東に離れた遺跡地帯ティワナコの、現地博物館にあるチリパ石板には、どんな意味があるのか?

少し細身のこちらの石板のほうが、マルタ巨石文明の石板にイメージがよく似ている。しかし中心は円ではなく、何か奇妙なものが浮き彫りされている。これはなんなのか? 答えは「カエル」だ。古代アンデス文明では、カエルは雨を降らせる霊力を秘めた“聖獣”のひとつだと信じられていた。

こちらの石板の上部には稲妻が彫られ、中央には雨を降らす“聖獣”としてのカエルが。これは月の象徴とみられる。

その証拠に、ペルー・クスコ市のインカ遺跡などにもカエル形の雨乞い巨石が残っている。さらに、カエルの彫刻には重要な意味があったと有賀氏は説明する。

「古代中国と共通して、アンデス文明でも古くから“月にカエルが住む”という話が伝わってきました。よってカエルを彫った石板は、単なる雨乞いだけでなく月の神秘的な力も表現したものでしょう。つまり、チリパ文化が残した2基の四隅渦巻き石板もマルタ巨石文明と同じく太陽と月のセットになっているのです」

現在のアンデス高地に暮らす大部分のインディオたちはアイマラ族とケチュア族に二分されるが、どちらも遠い祖先はアジア大陸からやって来たので古代中国と同じ「月のカエル」の伝承を受け継いだとしても不思議はない。さらに古代人が「太陽」と「月」の象徴を別々の石板に描いたとしても、特に驚くことはない。

しかし、宇宙のエネルギーを表す石板の四隅に彫られた渦巻きのシンボルは話が別だ。これは、偶然の一致で片づけられるだろうか!?

マルタ文明の直系子孫がアンデス高地へ集団移動?

前述のように4000年前を過ぎた頃から、チリパだけでなくほかのアンデス高地や中南米地域で大規模な石造建築が続々と造られ始めた。もうひとつ、この頃から南米と中南米各地では、天文観測をベースにした暦作りと占星術の研究も一気に加速化したふしがある。その突然すぎる文明の発達原因は、いまだに古代史上の大きな謎になっている。

太古の5大陸の間で、数千年の長い歳月をかけて同じ内容の神話や伝説、石器・土器製作技術などが人伝え・地域伝えに広がったことは、民俗学や文化人類学でも証明されてきた。だが、たった300年足らずで地中海から南米・中南米まで、先進文明の技術と知識が同じような形で広がったとは考えられない。

カラササヤの内部にある祭祀広場。夏至の朝日が昇る方角にある神殿の東門の外に、渦巻きなど不思議な文様を全身に彫りつけた石像(下・高さ約3m)が立っている

となると、やはりマルタ巨石文明の直系子孫が何世代かにわたってアンデス高地へ集団で移動してきたと考えるのが妥当だろう。そして、その証拠のひとつとして有賀氏はこう証言する。

「10年前、私はペルー・アンデスで最もよく知られたケンコ・ハラウィというシャーマン(呪術師)を取材したことがあります。このケンコ師はヨーロッパにも10年以上暮らした経験のある大変な知識人で、中南米の伝説と神話の生き字引のような人物です。

そのケンコ師にかつて冗談半分で“どうしてあなたたち南米先住民は、こんな空気の薄い4000mもの高地に好きこのんで住み続けているのか?”と質問したところ、彼はしばらく沈黙した後、実にまじめな表情でこう答えました。

『古代アンデスの部族の多くは、先祖がほかの土地から来た神の一族や神聖な動物だったという伝説を持っています。その旅をしてきた理由はさまざまですが、“大昔に大洪水で滅びた世界の果ての国から、二度と絶対に水に沈まない高い土地を探し求めて白い顔の先祖たちがアンデスへたどり着いた”という古い言い伝えを、いくつかの村で聞いたことがあります。私もアトランティス伝説の内容を知っていますが、アンデスの言い伝えと深い関係があるような気がします』」

ペルー・クスコ市に住むアンデスの偉大なシャーマン、ケンコ・ハラウィ師(2003年当時69 歳)。南米インディオの起源について多くの貴重な話をしてくれた

このような話は、15世紀以降にキリスト教宣教師が広めた旧約聖書の「ノアの箱船神話」が変形したものだという説もある。しかし、有賀氏がケンコ師から聞いた話には、まだ続きがある。

それについては次回リポートで詳しく解説していこう。

*続編「第5回 謎の古代『アマゾン源流域』文明もアトランティス人が作った?」は週刊プレイボーイ48号(11月17日発売)に掲載!

(写真/有賀 訓)