アトランティス人がアンデスの前に定住したと推測される南米モホスの高度3000mから見た農耕地跡。主に豆類、芋類、果樹、繊維用の植物などを栽培していた

遺骨の頭に皿をかぶせる風習、その皿に残る4つの渦巻き文様、そして巨人伝説、多くの符合が意味するものとは? 古代史の謎に迫るシリーズ第5回!

■南米、中米に残る白い顔の先祖の伝説

8000年前頃の地中海には今よりも広い陸地があり、そこに最古の巨石文明が誕生した。しかし、4000年前頃に激しい地殻変動による地震と大津波に襲われ、その陸地は現在のマルタ島とゴゾ島を残して海に沈んだ。

最新の地球科学で突き止められたこの事実が「アトランティス伝説」のモデルになった……という仮説のもとに本誌は独自取材を進めてきた。そして、巨大災害を生き延びた「マルタ=アトランティス人」の子孫が、大西洋を越えて「南米大陸」へ渡った痕跡が見えてきた。

そのひとつが、前回紹介した“4つの渦巻き文様”を彫ったマルタ巨石文明の「大型石板」だ。これと姿形も信仰上の意味も共通した遺物が、3700年前頃の南米アンデス高地に生まれた「チリパ文化」の神殿跡にも残されていたのだ。

さらに前回まで、海抜4000m以上のアンデスの村々に伝わる次のような伝説を紹介した。

《…大昔に大洪水で滅びた世界の果ての国から、白い顔の先祖たちが二度と水に沈まない高い土地を求めて今の場所(アンデス高地へ)へ来た…》

この伝説を2003年にペルーのクスコ市に住むケンコ・ハラウィという高名なシャーマン(呪術師)から聞かされた、考古ジャーナリストの有賀訓(あるが・さとし)氏は言う。

「ただし、このアトランティス人の生き残りかもしれない人々は、アンデス高地だけではなく南米各地に住みついた可能性もあります。なぜなら欧米の探検家たちが19世紀末頃に、ペルーとボリビアの東側に広がるアマゾン川源流域などで不思議な“肌の色が白いインディオ部族”に出会ったという報告があるからです」

アトランティス人が、アンデスの前に定住した場所

あらためて調べると、白い顔の先祖の話は南米だけでなく中米地域の先住民伝説にも登場することがわかった。そして、アトランティス伝説をはじめ世界各地の古代神話をよく知るケンコ師も、有賀氏の取材にこうつけ加えたという。

「大昔に世界の果てから南米大陸へ来た白い顔の先祖の中には、アンデスへたどりつく前に、どこかの土地に住みついた人々もいたのではないでしょうか……」

確かに、地中海を4000年前頃に旅立った「マルタ=アトランティス人」が、3700年前頃にアンデス高地に誕生したチリパ文化に関係していたなら、約300年の時間差が生じる。その10世代にも及ぶ歳月のなかで、アンデス高地へたどりつく前に別の土地に定住した集団がいたと考えたほうがむしろ自然だろう。

実は、4000年前の“地中海脱出組”アトランティス人が、アンデスにつく前に定住した可能性を示す遺跡地帯が近年、発見されている。それはアマゾン川の源流地帯にあたる、ボリビア・ベニ州のモホス平原だ。

この標高200~300mのモホス平原は、12月から5月の雨期には7割の面積が水浸しになり、農業には不向きな土地だ。現在は一部の地域で肉牛飼育が行なわれているが、大平原の移動は馬と小型ボートがなければ難しい。

そんな秘境地帯に、実は数千年前から12世紀頃にかけて大規模な農耕社会が存在したのだ。この発見について、ベニ州都のトリニダート市にある州立ベニ大学の人類学研究室の調査担当者は、こう説明してくれた。

「モホス平原のほぼ全域に謎の遺跡地帯が広がっている事実は、1960年代前半から始まった石油・天然ガス資源の航空機探査がきっかけでわかりました。主な遺跡と遺物は、農耕地、人造湖、平原に土砂を盛った居住地、その居住地の間を直線的に結ぶ土手状の道路と水路、無数の土器片などですが、遺跡地帯の空間スケールが大きすぎるので、1960年代以前の地上調査では全体像が理解できなかったのです」

本州と同じ広さの平地を開拓した謎の文明がアマゾンに

■本州と同じ広さの平地を開拓した謎の文明がアマゾンに

例えばモホス平原の農耕地跡は、幅数百m、長さ1~2kmの巨大な「畝」が数多く密集し、地面を2mほど掘り下げた平行四辺形や三角形の人造湖は一辺が最大20kmにも及ぶ。マウンド状の居住地(ロマ)は森か林にしか見えず、これをつなぐ数kmから20kmの土手道と水路跡も、高度2000m以上の空から眺めないと確かに全体像はさっぱりわからない。

この「アマゾン源流域文明」の遺跡地帯を3回にわたって取材した有賀氏によると、

「モホス平原は日本の本州とほぼ同じ広さ(約500km四方)。これほどの広さの平地を全面的に農地と居住地に大改造した場所は、今も昔も地球上でここだけしか見当たりません。

1000年近い年月がたっても農耕地の輪郭が巨大なモザイク模様のように見えるのは、深さ数mまで周囲の土とは成分が違う人工土壌に入れ替えてあるからです。細長い土手状の構造物は雨期用、水路は乾期用の交通網らしく、平原全体にあるロマを総延長5000km以上のネットワークで結んでいます。

確認されているだけで200ヵ所以上ある人造湖は最小でも一辺数百mの広さで、ロマの土砂はこれを掘って盛ったのでしょう。湖は農業用水の調節、淡水魚・食用巻き貝の養殖など多目的に使っていたようです」

モホス平原で高度2000mから見た小規模の人工湖

高度3000mから見たロマと、それをつなぐ土手道路。ほとんどの土手脇には水路も掘られている

最盛期には100万単位の人々が暮らしていた

つまり、このアマゾン源流域文明は、完成度の高い測量・土木技術で氾濫する平原を計画的に改造したのだ。その大規模な事業を、いつ誰が、どれほどの時間をかけて成し遂げたのか、まだよくわかっていない。しかし、最大20mの高さまで土砂と大量の土器片を突き固めて造ったロマは2万ヵ所以上あると推定され、最盛期には100万単位の人々が暮らしていたようだ。

1980年代から欧米の研究機関や日本の大学などがモホス平原の現地調査に取り組み、主にロマの発掘が行なわれてきた。そして、ロマが造られ始めた初期の地層から出土した、たき火の炭、食料遺物、動物骨、人骨などの年代測定で、この文明が3000年以上前からスタートし、12世紀頃に途絶えたことがわかった。

ロマの土には全体量の10%前後ともいわれる大量の土器片が混じり、かつては土器を焼くための木材がいくらでも手に入る環境だったと想像できる。有賀氏は、これらの土器遺物がモホス平原の巨大農耕文明の正体を探る上で最も重要な手がかりになるという。

「まず奇妙なのは古い年代の土器も新しい年代の土器も、種類・形・装飾模様の形式に大きな変化がないこと。モホス平原の大改造工事が始まった頃から、ほとんど改良の必要がない土器製作技術を持っていたのです。つまり、この古代文明は、どこからか入ってきた完成度の高い技術をベースに大発展を遂げたとしか考えられません」

道路工事で側面が削られたモホス平原のマウンド状住居地・ロマ

盛り土の断面には、タニシに似た食用巻き貝の殻、土器片、石器などが大量に露出していた。その量は土全体の10%にも達していた

*この続きは明日、配信予定!

(写真/有賀 訓 『MALTA before HISTORY(』MIRANDA PUBLISHERS)から一部写真転載)

■週刊プレイボーイ48号「短期集中連載・古代史最大の謎を追う! 第5回 謎の古代『アマゾン源流域』文明もアトランティス人が作った?」より