恋人とのデート直前、たまたま職場に忘れた財布を取りに行こうと路線バスに乗った際、痴漢と勘違いされ逮捕。女性側の証言以外に証拠がなく、常識的に考えて多くの状況が無罪を示していても、検察は起訴し第一審は有罪判決。「推定無罪」の原則などまるで意味のない、理不尽すぎるえん罪の現実にジャーナリスト・江川紹子が迫る。

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東京都三鷹(みたか)市の中学校教諭・津山正義(まさよし)さん(現在30歳、当時27歳)が、痴漢の疑いをかけられ、逮捕されたのは2011年12月22日の夜。警察は津山さんに自白をさせようと、車載カメラに犯行が映っているという嘘で精神的な揺さぶりをかけ、さらに調書は検察の思惑でねじ曲げられていく――。(前編 http://wpb.shueisha.co.jp/2014/11/24/39391/)。

■面会室の板越しに、恋人を両親に紹介した

検察官には、「痴漢したと認めないなら出さない」とも告げられた。

検察の取り調べや裁判所での手続きがあるときには、朝8時に警察署を出発するバスに乗せられ、9時頃に地検の地下の待合室に入る。鉄格子(てつごうし)の中に、硬い椅子が2列に置かれ、そこに手錠をしたまま座って、呼び出しを待つ。本を読んでも、しゃべってもいけない。

昼になると、食パン4枚とジャムが2種類、マーガリン、スティックチーズ1本に紙パックの牛乳かジュースを渡される。これが昼食。食べる間だけ、手錠を片方だけ外してもらう。取り調べが済むと、また待合室に戻され夕方5時くらいのバスを待つ。

警察の留置場でも、昼食は同じ。年末の御用納めの後は、買い置きのパンが出されるのか日に日にパサパサなものになっていった。朝夕は、おかゆのように水っぽい冷え切ったご飯。食べなければ参ってしまうと、お湯をもらって無理やり流し込んだ。

なんでこんなことになったのかと、毎日涙にくれた。高校受験を控えた生徒たちのことも心配だった。尊敬している学年主任の先生が面会に来て、「あなたのクラスは私が受け持つから、心配せずに自分のことを考えなさい」と言ってくれた。脳梗塞(のうこうそく)の後遺症で15分歩くのもやっとの母が、病院にアレルギーの薬を取りに行き、電車に乗って警察に届けてくれた。留置場で薬を受け取って、津山さんは号泣した。

両親と恋人がそろって面会に来たこともあった。このメンバーで会うのは初めて。津山さんは面会室のアクリル板越しに、恋人を両親に紹介した。彼女からは毎日励ましの手紙が来た。それで、28日間の勾留を乗り越えることができた。

証拠は女子高生の証言だけだったが…

■失われた時間が戻るわけではない

250万円の保釈金でやっと保釈された。乗り物に乗るのが怖く、警察から家に帰る電車の中では、両親の手にずっとつかまっていた。外に出るのも怖い。そんな津山さんを、恋人が「裁判が始まるんだから戦わなきゃ。できることをやらなきゃしょうがないでしょ」と叱咤(しった)した。

携帯電話会社に何度も通い、メールなどの履歴を出してくれるよう頼んだ。ようやく彼女が使っていた携帯会社が応じてくれた。これで、痴漢があったという時間帯に津山さんがメールをやりとりしていたことが証明される。

弁護士が検察と粘り強く交渉し、車載カメラの映像を開示させて分析した。運転席の横に据えつけられていたカメラは、バスの後部にいた津山さんの動作のすべてを記録しているわけではないが、問題の時間帯には左手でつり革を持ちながら、右手で携帯電話を操作していたことがわかった。結局、痴漢の証拠は女子高生の証言以外にはまったくなかった。

ところが……。

13年5月に下った一審の東京地裁立川支部(倉澤千巖[くらさわ・ちいわ]裁判官)の判決は、罰金40万円の有罪だった。つり革をつかんでいた津山さんの手がバスの揺れでカメラの死角に入った瞬間、女子高生に触った可能性がある、というのだ。揺れるバスの車内で、右手でメールを打ちながら、左手で痴漢行為をすることは「容易ではないけれども、不可能とか著しく困難とまでは言えない」と判決は認定した。

津山さんは、裁判官の“くじ運”が悪かったと思い、さほど落ち込まなかった。ただ、両親や恋人の母親の落胆ぶりは激しかった。

「生徒たちの大事なときに助けてあげられなかった僕には、最後まで戦う姿を見せることしかできることはないと思っていました。でも、親の姿を見て、やっぱり勝たなきゃいけないと……」

控訴審で無罪が確定

この年、控訴審の最中に結婚した。入籍日は逮捕されたのと同じ12月22日。

「今後、裁判がどういう結論になっても、この日は一年で最もいやな日になってしまう。彼女に『この日を、君と一緒に生きていくと決めた日にしたい。これから毎年、君に感謝できる日になれば、最悪の日が最良の日になる』と頼んだら、『仕方ないわね』と受け入れてくれた」

そして、今年7月15日。東京高裁(河合健司[かわい・けんじ]裁判長)での控訴審判決があった。判決は、一審判決の認定を「不合理」「論理の飛躍がある」「証拠評価を誤った」「明らかな事実の誤認がある」と全面的に批判して破棄。女の子は、津山さんのリュックサックが接触したのを、痴漢と勘違いした疑いがあると指摘して、無罪とした。

「ざわ~って全身に鳥肌が立ちました。『やった。よかったなぁ。よかったぁ』という気持ちしかありません。でも、無罪になったところで、マイナス1万くらいだったものが、マイナス50くらいに戻るだけなんですよね。失われた時間が戻るわけではないので」

検察は上告せず、無罪が確定。津山さんは復職し、この2学期から教壇に立っている。

「先生方や保護者、そして子供たちも僕のことを信じてくれていた。傍聴に来たり、署名を集めてくれた生徒もいました。戻った後も、先生方も今の生徒たちも普通に受け入れてくれました。今、一番の悩みは指導力が未熟なこと。そういう悩みは、苦しいけど、やっぱりうれしいんですよ。どうしたら裁判官にわかってもらえるか、などと悩まずにいられるのは幸せです」

今でも、乗り物に乗って、近くに女性がいると不安でドキドキする。えん罪の後遺症はなかなか解消しない。

「こういうえん罪は、実はすぐ身近にある、ということを知ってほしい。本当に多くの人が、理不尽さのなかで苦しんでいる。駅前で署名活動をしているとき、涙ながらに話しかけてきたおじいさんがいました。30年前に僕と同じような目に遭ったけれど、大事な会議があって、釈放してもらうために仕方なく認めてしまったと言うんですね。そのときの悔しい思いが今でもある、と。そんなふうに声を上げられなかった人もいる。

痴漢えん罪に苦しむのは男性だけではない

乗り物の中では手を上げていれば大丈夫、という人がいるけれど、そうじゃない。僕は、車載カメラに映っていたけど、ほんの数秒、見えにくい時間帯があるだけで、一度は有罪になった。もし片手にカバン、片手に携帯を持っていても、『ちょっとカバンを置いたんじゃないか』と言われかねない。女性から離れて立っていたのに、犯人にされた人もいます」

痴漢えん罪に苦しむのは男性だけではない。津山さんの母親や恋人のように、罪を着せられた男性の周りの女性たちもつらい思いをする。

「それに、自分が被害者だと思い込んでしまったために、他人の人生をむちゃくちゃにしてしまったという重荷を背負うことになった女子高生も気の毒です。こういうことがあると、本当に痴漢の被害に遭った人が、声を上げにくくなるかもしれない。だからこそ、警察、検察、裁判所にはちゃんと正しい判断をしてもらいたいんです」

●取材・文 ジャーナリスト 江川紹子早稲田大学政治経済学部卒業。神奈川新聞社会部記者を経てフリージャーナリストに。新宗教、司法・えん罪の問題などに取り組む。最新刊は聞き手・構成を務めた『私は負けない 「郵便不正事件」はこうして作られた』(村木厚子著・中央公論新社)