懐かしのボンカレー自販機、最期の一台?が徳島に。仁鶴はんの顔も嬉しいが…

1969年に全国発売したレトルト食品「ボンカレー」の発案者であり、「ポカリスエット」や「カロリーメイト」といったヒット商品も手掛けた大塚ホールディングス(HD)会長・大塚明彦(おおつか・あきひこ)氏が28日に死去した。

徳島県出身で、父親が創業した大塚製薬を継ぎ事業を拡大、ボンカレーは傘下である大塚食品の大ヒット商品であり、日本初のレトルト食品としていまだ長く愛されている。

70年代には「ボンカレーライス」の名称で、ライス付きのボンカレーを販売する自動販売機も全国に展開されていた。コンビニの登場などにより、いつしか消えてしまったが、当時を知る世代や自販機マニアにとっては垂涎(すいぜん)のその最後の一台が、徳島に残っている?

それを知った本誌編集Kが、その懐かしい1台を追い求めて、徳島まで足を運んでいた!

■少年時代の甘辛い体験を求めて…

忘れもしない昭和51年の夏。当時、仙台に住む小学校5年生だった少年Kは、衝撃的な宣告を受ける。父親が転勤となり大阪に家族3人、引っ越すことになったのだ。

大阪!? 東北新幹線の開通もまだ先、地方の田舎者が関西の想像も及ばぬ大都市へ乗り込むことは、ブラジルに移民する!くらいの印象。しかも野球少年だったKはやっとチームで背番号とユニフォームをもらい、「さぁレギュラー獲るぞぉ」という大事なとき。転校もしたくない。

覚悟を決めて、Kは告げた。

「オレはひとりでここに残る。隣の酒屋のボンカレーを食って生きるから、心配しないで行ってくれ!」

アホか?……しかし超マジ! 酒屋の前に置かれたその革新的マシンーー。初めて小銭を入れ、温まったライスとカレーのレトルトが出てきたときの感動。「なんてウマいんだ! 毎日これを食ってもいい、いや食いたい!!」と思っていたほどだ。

が、父親は頑としてこうひと言。「気持ちはわかった。けど、家族は一緒じゃなきゃあな」……。

思い出の自販機となにかが違う?

それから37年。日本中でここにしか現存しないという噂を頼りに、あの消えた自販機を求め四国へーー。徳島県・阿波市の県道沿い、周りは田んぼばかりの「コインスナック御所24」にそれは実在した!

自販機が並ぶなか、あった、笑福亭仁鶴の顔だ!!

早速、コインを入れ……取り出すと、そこにはホカホカのライスのパックと、上にのったレトルトカレー。これこれ!と食してみるが……違う、あの懐かしの味じゃない?

オーナーの吉本さんを訪ねると「もう昔のボンカレーはないわな。今はハウスのを入れとるんよ」……ガ、ガーン。そりゃそうだ。あの頃とまんま同じなワケないか。最近まで毎日ご飯も自ら炊いて、ルーとのバランスにこだわったという味はウマいのだが…。

「もうわしも歳で体が保たんし、メンテも大変やから、いつまでここに置いとけるかわからんわな。けど、遠くから来て喜んでくれる人やバスツアーもあるから嬉しいねん。なんとか続けられたらと思ってるよ」(吉本さん)

最盛期は一日に70食以上、今でも15食は売れるとか。この自販機見たさに北海道など遠方から訪れるマニアもいるというから、世界自販機遺産にしてほしいほどだ。

しかし、記憶をたどると、家の隣にあったのは看板でもよくあった女優・松山容子さんの自販機。ライスとカレーも別々に出てきたはず……。結局、釈然としないまま、その場を後にした。

後日、大塚食品の広報に確認するも、もう一台の存在は「誰も知る者が残っていない」とのこと……。それこそが、ま、幻だったのか!?

まずは徳島の一台が、残り続けることを祈りつつ、合掌!

(取材・文/週プレNEWS編集部)