現在は東京・飯田橋に「BIG DADDY酒場 かぶき うぃず ふぁみりぃ」を経営しながら、オファーがあれば時折リングに上がっている

日本の伝統芸能をモチーフにしたペイントを顔面に施し、赤や緑の「毒霧」を口から吹き上げる……日米のプロレス界で大ブームを巻き起こしたザ・グレート・カブキが、デビュー50周年を記念し、『“東洋の神秘”ザ・グレート・カブキ自伝』(辰巳出版)を出版した。

自伝ではプロレス界の秘話が赤裸々に明かされているが、カブキの仕事術、世渡り術はわれわれ一般人にも学ぶところが多いーー。現在、東京・飯田橋に「BIG DADDY酒場 かぶき うぃず ふぁみりぃ」を営むカブキを直撃した!

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―自伝を読んで最初に驚いたのは、あの鶴見事故(1963年11月9日、神奈川県・鶴見駅と新子安駅の間で発生した鉄道事故。161人が犠牲になった)の同日、同じ東海道本線に乗っていたんですね。

カブキ 俺は当時中学校3年生で愛知県に住んでいて、力道山に入門を直訴するために単身上京するところだった。俺が乗ってた夜行列車の前の電車が事故に遭ってね、結局、東京駅までたどり着かず、新橋で降ろされた。赤坂の道場まで道を聞きながら歩いて、着いたのは朝5時半くらいかな。まだ合宿所は開いてないから、脇の石段でお袋がつくってくれたオニギリをほお張りながら待ってね。でも、この日は力道山には会えなかったし、事故もあってお袋が心配しているだろうから出直すことにしたんだ。

-ところが翌月、暴漢に刺された傷が原因で力道山が死去。入門前から波乱万丈ですよね。

カブキ そう。年が明けて1月15日にもう一回上京してね、渋谷のリキスポーツパレス(ここに日本プロレスの事務所があった)を訪ねた。営業の人に「新弟子希望なんですけど」って言ったら、「先生(力道山)が亡くなったから、どうなるかわからないよ」って言われた。そこに豊登さんが来て、「おう坊や、年はいくつだ?」と聞かれて。「まだ15歳で在学中です」って答えたら、「じゃあ、卒業したらおいで」って。それで入門OK。

-ずいぶんあっさりOK出ましたね。

カブキ でも口約束じゃ頼りないんで、「入門を許可する」と一筆書いてもらって。卒業した後、3月に入門したんだ。

-当時、カブキさんのお父さんはすでに亡くなっていて、お兄さんも独立されていたそうで、家族は母ひとり子ひとり。15歳で職業選択したカブキさんもすごいけど、それを許したお母さんもすごいですね。

カブキ お袋は「好きなことをやんなさい」と言ってくれたよ。当時、団体は日プロしかなくて、プロレスラーは日本に30人くらいしかいなかったから、今よりももっと特殊な職業だよね。プロレスを観ていてもレスラーになろうという人は同級生にもいなかったし、「プロレスラーなんか、なれっこねえよ!」って言われてたもんね。

十代で目撃した戦後日本の大物たち

-入門後は、ほかに新弟子がいないから大変だったとか?

カブキ 普通、レスラーひとりに付き人がひとり付くんだけど、俺は豊登さん、吉村道明さん、芳の里さん…3人の付き人をやっていた。

-社長はじめ全員幹部ですよね?

カブキ そう、この3人についていろんなことを学んだのは財産だよ。地方に行けば現地の大会社の社長さんや有力者とメシ食うでしょ。俺は給仕をやりながら、いろんな話をきくわけ。神戸に行けば山口組三代目の田岡(一雄)さんが来てね、俺は隅のほうで聞かないふりして耳をダンボにしてたけど(笑)。

-十代にして世の中の仕組みを知ってしまうわけですね。自民党副総裁の川島正次郎氏がコミッショナーを務めていたし、日プロには政財界、裏社会の大物が集まっていた。

カブキ 相手が誰だかわからず大失敗したこともあったね。リキパレスの興行でチケットのモギリをやってたら、軍服みたいなのを着た知らないオジサンが来てね。「すいません、切符は?」って聞いたら、「オジサンはなくてもいいんだよ」とか言うから、「いやいや、ダメですよ」と押し問答してたら、奥から日プロの営業の人が走ってきて、「この人はいいんだよ!」って通してね。「あれ誰?」って聞いたら、「バカヤロウ! 児玉誉士夫先生だよ!」って。あぁ、あの人が児玉さんか~ってね(笑)。

-戦後史の大物がどんどん登場しますね。70年には念願のアメリカ修行に出ます。遠征中は日プロから給料は出るんですか?

カブキ 出ない。アメリカでは自分で稼いで食っていかないと。仕事に遅れたり休んだりして、ダメな烙印がつくとどこも雇ってくれないよ。骨折だって自分で治すし。

-病院に行かずに!?

カブキ 基本的にケガは自分で治す。テーピングをガッチリ巻いて試合に出ながらね。

-ロサンゼルスからデトロイトに転戦しましたが、現地のファンは過激だったとか?

カブキ ナイフを持ってるヤツもいたしね。あるとき、控え室まで押しかけてきた客がいたから、バーンとぶん殴ってやったら訴えられてね。それでロスに戻ったんだ。

-え? ロスに逃げれば大丈夫なんですか?

カブキ そう、州を越えればいいの。州越えて、スピード違反で捕まったりすると全米に照合されて捕まったりするけどね。

代名詞「毒霧」の仕掛けは!?

-そんなもんなんですね(笑)。その後、73年から約4年半、全日本プロレスに参戦して、78年から再びアメリカへ。フロリダ、カンザスシティを転戦し、80年暮れにテキサス州ダラスに。この地でいよいよザ・グレート・カブキが誕生します。

カブキ 最初は、マネジャーのゲイリー・ハートが歌舞伎の連獅子の写真を持ってきて、「おまえ、こういう格好できるか?」って。アメリカではハロウィーンで大人から子供までメイクするから、そういう感じで顔にペイントすればいいやって思ってね。でも、歌舞伎役者の細い隈(くま)取じゃ観客に見えにくいから、太い線をガッと入れて。女性用の口紅とかいろいろな塗料を試して完成させていったね。

-ヌンチャクは最初から使ってたんですか?

カブキ あれは後から。ペイントだけじゃ面白くないからね。ヌンチャク一本振り回すのは誰にでもできるから、俺は両手でダブルにしてね。

-イロモノ扱いされることに抵抗はなかった?

カブキ アメリカだからなかったね。日本だったら、伝統芸能の名前を借りてやるのは抵抗あっただろうけど。そもそも連獅子がヌンチャク振ってるっていうのはおかしいでしょ(笑)。それでも、もうひとつインパクトが欲しくて、「毒霧」を開発したんだ。

-カブキさんの代名詞ですね。あれはどうやって考えたんですか?

カブキ 最初は口から粉を吹くことを考えたんだけど、口の中の湿気で固まってうまくいかなかった。ある日の試合後、シャワーを浴びて口に入った水をフッと噴き上げたら、照明の前に虹がスーッとかかったんだ。「おおっ、これだよ!」と思って、白や黒、いろんな色をつくって試したけど赤と緑が一番綺麗だった。

カブキは全米で大人気になり、毒霧はその後、グレート・ムタやTAJIRI、大仁田厚らが使ってますよね。

カブキ 大仁田にはバカ負けしたよ! この前、後楽園ホールで会ったとき、あの野郎は「自分は色を濃くして吹いてるんですよ」なんて、俺に吹き方の講釈を垂れたからね(笑)。

-毒霧の吹き方は企業秘密ですか?

カブキ いや、吹き方は教えるよ。ライトと自分と相手が一直線になったときに吹けば、四方のお客さんに見える。やみくもに吹いてもダメなんだ。

-液体の製法とか口に仕込むタイミングとかは?

カブキ それは教えない(微笑)。

“東洋の神秘”50年の仕事術とは?

-それでは、ヒールレスラーとしての心得はありますか?

カブキ ヒールだからって、殴る蹴るだけじゃダメでね。試合の序盤はレスリングで強さを見せて、「こいつには敵わない」と思わせたところで、バーンとぶん殴る。そうすると、観客がブーイングするわけ。その後、相手が復活して攻撃に転じたらポンポン技を受けてやる。俺はどんな投げ方をされても、パーンと綺麗に受身をとるから見栄えもいい。でも最後に、反則のパンチ一発で相手を寝かせれば、お客はまた大ブーイング。それが本来のヒールなんだよ。

-アメリカと日本では、ヒール像が違うんですね。

カブキ 全然違う。だから、(アブドーラ・ザ・)ブッチャーとか(タイガー・ジェット・)シンというのは特殊なんだよね。

-さて、デビューして半世紀が経ちましたが、プロレスラーとして一番楽しかったときは?

カブキ やっぱり80年代、カブキに変身したアメリカ時代だね。楽しかったよ。最初は週200~300ドルだったギャラが、翌週には500、その翌週には1000、2000とどんどん上がっていったから。日本は年功序列だからそういうことはないでしょ。

-実際、その頃は年間何万ドル稼いでいたんですか?

カブキ 計算したことなかったな。チェックをもらったら自分の必要な分だけ取って、あとはカリフォルニアに住む家族に送ってたから。でも、試合はほとんど毎日やってたし、ビッグマッチでは1試合2万ドルもらってたよ。当時は1ドル210円くらいだからビッグマッチ1試合で400万円はいってたね。

-すごいですね! カブキさんは83年に帰国し、以降、全日本、SWS、WAR、新日本の平成維震軍、そしてインディーと様々な団体に上がった。まさに身ひとつで渡り歩いてきましたね。

カブキ そうだね、大事なのは自分がどこに行っても求められた仕事をキチッとやることだよ。

-デビュー何年目くらいで、自分は一人前のレスラーになったと実感しました?

カブキ あのね、俺はプロレスをもう50年やってきたけど、「達成した」っていうのはないんだよ。その土地柄や民族性とかいろいろあるから。たとえば東京でやった試合をそのまま大阪に持っていってもダメ。東京のファンは技術的なセンスを見るけど、大阪では泥臭い試合が求められる。その土地土地のお客さんをどう喜ばそうか、いまだにそればっかり考えてるね。

答えはないけど、とにかく仕事はひとつだよ

-なるほど。50年経っても……

カブキ 答えは見つからないね。昔、日プロのとき、芳の里さんに「なんの商売でもバカじゃできない。利口でもできない。中途半端じゃ、尚できない」とよく言われたよ。利口だったらバカになることも必要だし、中途半端になってもいいけど、とにかく仕事はひとつだよ、ということ。

―では最後にもうひとつ、自伝を読んで感心したのが、カブキさんは客観的に自分の価値を見極めて、より高く自分を買ってくれる場所を求めていく……その行動力がすごいなと。

カブキ 一生懸命やってるのに認められていないと思えば、当然もっと評価してくれる新しいところを探すでしょ。昔は今より義理人情に絡まれていたから、自分の道は自分で探していったほうがいいなと、アメリカと日本を往復するうちに気づいたよね。しっかり仕事をして結果を出していれば、プロモーターはそれをちゃんと見てくれる。とにかく、自分の仕事を誠実にやるっていうことだね!

(取材・文・写真/週プレNEWS編集部)

経営する店で、カブキは厨房の手を休めると自ら客の横について楽しいプロレス話を披露してくれる

■ザ・グレート・カブキ本名・米良明久。1948年生まれ、宮崎県出身。64年10月、日本プロレスでデビュー。81年にアメリカでザ・グレート・カブキに変身し大ブレイクし、83年の日本逆上陸でも社会的ブームとなった。98年に引退したが、2002年に復帰。現在は「BIG DADDY酒場 かぶき うぃず ふぁみりぃ」(東京都文京区後楽2-3-17 電話03-5800-5801)を経営しながら、時折リングに上がっている

『“東洋の神秘”ザ・グレート・カブキ自伝』辰巳出版 定価1350円+税 好評発売中!