手に持つのはアルバム『リボルバー』を模した、自身のデビュー30周年記念興行のパンフレットと愛読書。イラストは下北沢で買ったというジョン・レノンの自画像(複製)

“ド演歌ファイター”越中詩郎の源流はビートルズにあった! 出会いから40数年、ビートルズサウンドは今もサムライの魂に響き続ける。

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昨年(2013年)末、ポール・マッカートニーの東京ドーム公演に行ってきました。実は、ポールの大麻不法所持で中止になった1980年の来日公演もいい席を持っていたんですよ。あのときはガッカリしたなぁ。

でも、2002年の公演は15列目で観たよ。昨年のポールは71歳というのに凄い。2時間40分、水も飲まずに歌ってたからね!

俺がビートルズにハマったのは中学生の頃。野球やりたかったんだけど野球部がなかったんだよ。ある日の放課後、靴屋の息子のヨシダっていう友達が「越ちゃん、やることないからレコード屋でも行かないか」って言うから、成城だったか登戸だったか……レコード屋に一緒に行ったんだよ。

それで「この人たちが凄く人気らしいよ」って彼が熱弁を振るいながら一枚のLPを俺に差し出した。それが『Let it be』だったんだ。俺はビートルズの「ビ」の字も知らなかったし、家にレコードプレーヤーもないのに買ったんだよ。当時、小遣いで1800円といったら大金ですよ。

その少し後、またヨシダと今度は電気屋へ行ってプレーヤーを買ったんだ。それで初めて『Let it be』を聴いて「世の中にこんなものがあるのか!」っていうほど感動したね。ちょうどビートルズが解散する頃で、彼らが活動していたオンタイムの最後の時期にぎりぎり間に合ったんだ。そこから遡(さかのぼ)ってビートルズナンバーを追って聴いていった感じかな。

中学では、有志でコピーバンドをつくって学園祭に出たんだよ。グループ名は天地真理が人気あった頃だから「マリーズ」(笑)。俺は最初、リンゴ・スターに憧れていたからドラム担当だった。

でも、練習場に誰かが、ビートルズもやっていたというモノポリー(ボードゲーム)を持ち込んでね。これに熱中しちゃって、学園祭本番で大失敗したんだ。体育館にいっぱいの人の前でいきなり演奏しようなんて、やっぱり無謀だったよ。それでプレーヤーはあきらめて聴く専門になった(笑)。

ひとりぼっちのメキシコで癒してくれたビートルズサウンド

ビートルズにまつわる一番の思い出は、84年にメキシコに修行に行ったとき。一緒に行った三沢(光晴)が(2代目タイガーマスクになるために)帰国して、ひとりぼっちになったとき、自分の住んでいたアパートから地下鉄で2駅先にバーがあってね。そこでビートルズのコピーバンドが演奏していたんだよ。

そいつらが上手くてさ、時間が許す限り毎日行っていたよ。日本語を耳にすることもないし、日本の活字を読むこともないし、言葉の通じない国に長くいて気持ちが滅入っていたとき、唯一癒してくれたのが彼らのビートルズサウンドだったんだ。

コピーバンドでこれだけ良かったんだから、それを最初に作詞作曲して演奏したビートルズは本当に凄いと思うよ。プロレスだってフリッツ・フォン・エリックやフレッド・ブラッシーみたいに最初に独自のスタイルを創造した人っていうのは凄い。

俺はビートルズが身体に染みついていて、それはプロレスにも活きていると思う。自分なりのリズムを奏でながら試合をしているんだよ。逆に言えば、そういう感性のない奴の試合ってどんくさいね。

やっぱりビートルズの偉大なところは、時間を置いてまた聴いても決して色褪(あ)せないところ。好きなメンバーはそのときそのときによって変わるけど、最近はジョージ・ハリスンがいいな。この歳になって聴いても新しい発見がありますよ。

ケガからの復帰を果たし、56歳となった今も現役バリバリの越中詩郎

■越中詩郎(こしなか・しろう)1958年生まれ、東京都出身。全日本でデビュー後、85年に新日本に移籍。IWGPジュニア、IWGPタッグ王座を獲得し、自身が率いる平成維震軍は一大勢力を築いた。現在はフリー

(取材・文/清水勉 撮影/保高幸子)

■『燃えろ!新日本プロレス』vol.61(2014年2月13日号)に掲載http://weekly.shueisha.co.jp/moero/main.html

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