真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナルという激戦地を転戦した原田さん

書類を偽装してまで、なりたかった戦闘機乗り。とある事件がきっかけで内地勤務となった原田さんは、新米搭乗員たちを訓練しつつ、終戦までの愛機となるゼロ戦に出会う。それは、真珠湾攻撃の少し前だったーー。第5回後編!(前編はこちら http://wpb.shueisha.co.jp/2015/01/03/41562/

―ゼロ戦を初めて見たのはいつですか?

原田 昭和16(1941)年の9月に航空母艦・蒼龍(そうりゅう)へ着任しました。航空隊は大分県の佐伯に基地があって、ここで初めてゼロ戦に搭乗しました。

―初めて乗った感想は?

原田 基地には20機くらい並んでいて、見た目だけでもいい飛行機だなと思いましたよ。乗ったら、それまで乗っていた九六式艦上戦闘機とは別物。スピードは出るし、視界はいいし、しかも10時間以上飛べる。そして何より攻撃力がすごい。20mmの機関砲を2門も装備しているから、どの国の戦闘機にも負けないと思いましたよ。

―蒼龍に配属ということは、真珠湾攻撃のあった昭和16年の12月8日は現地に?

原田 それ以前の11月22日、択捉(えとろふ)島の単冠湾(ひとかっぷわん)に蒼龍をはじめとする航空母艦6隻が集結しました。「これは大きなケンカが始まる」と士気が高まりましたね。

―真珠湾ではどんな任務に?

原田 艦隊の直掩(ちょくえん)でした。飛行隊長から「おまえは蒼龍で一番のベテランだから、艦隊を守ってくれ!」と。せっかくここまで来たのに、華々しい戦闘に参加できなくて悔しかったですよ。

作戦が終わると「戦艦を沈めた!!」「飛行場を壊したぞ!!」といって帰還した搭乗員たちが盛り上がっていた。もう、うらやましくてしょうがなかった。

―真珠湾では敵空母がいませんでしたが、それについては?

原田 航空母艦勤務で、その打撃力をよく理解していましたから「まずいな」と思いましたね。

母親の輪郭に似ている雲が…

―では、初めて戦闘機同士の空戦を経験したのは?

原田 昭和17(1942)年の4月5日から始まったセイロン沖海戦ですね。こっちは64機、対するイギリス軍は約100機という大空中戦が展開されました。この時期の敵はゼロ戦の性能を知っていて、一撃離脱する戦法なんです。それを追って撃墜する。7.7mm機銃で威嚇しつつ接近して、20mm機関砲で仕留める。20mm機関砲は強力なので、一発当たれば撃墜できましたよ。

―戦闘中。敵機にはどれぐらいまで接近するんですか?

原田 最も近くて5mぐらい。だから、火を噴いた機体で苦しそうにしている相手の表情が見えるんですよ。敵だけどね、これを見るのはつらかった。

―何機撃墜したんですか?

原田 敵のホーカーハリケーン戦闘機を5機撃墜しました。そして空戦が落ち着いて集合地点に行こうとしたら、敵を1機発見した。「ついでだから、これも落とすか!」と攻撃したら、なかなか落ちない。そうこうしているうちに敵機は田んぼへ墜落した。

―これで帰還できますね。

原田 集合地点に行ったら、誰もいないんだよ(笑)。遅れたから帰っちゃった。燃料も少なくなって「もう敵の基地に突っ込むか!!」と思ったけど、田んぼしかない。

―そんな状況でどうやって帰還したんですか?

原田 海に出たら、水平線しか見えない。でも、飛んでるうちに母親の輪郭に似ている雲が見えた。その雲に近づくと、目や鼻まで見えてきて母親の顔になったんです。そうしたら、その下に艦隊がいました。不思議な体験でしたね。

戦えない兵隊は後。これが戦争なんだ

―その後はどんな作戦に?

原田 昭和17年の6月5日からミッドウェー海戦に参加しました。ここでも艦隊の直掩任務でしたが、5機を撃墜しました。しかし、蒼龍が撃沈されたんです。母艦が沈んだので、飛龍に着艦しました。

乗っていたゼロ戦は消耗が激しく戦闘中に海へ投棄され、飛龍では管制の手伝いを行なっていました。しばらくして、使えるゼロ戦があるというんで再び出撃することになったんです。

―ミッドウェーでは飛龍も沈没してますよね?

原田 ゼロ戦で発艦した直後に、飛龍へ爆弾が落ちました。ほんとに数秒のタイミングでしたよ。その後、戦闘を続けましたが、着艦する母艦がないので海面に不時着しました。4、5時間漂流して駆逐艦に救助されました。

―駆逐艦内の様子は?

原田 手のない人、足のない人。みんな苦しんでいる。でも軍医は苦しんでいる兵士を診てあげず、俺を治療するんです。「俺よりあっちの人を先に!」と言ったら「君のように少しの手当てで治る人が優先。戦えない兵隊は後。これが戦争なんだ」と。今でも忘れられない言葉ですよ。

―その後、内地へ帰還した原田さん。休暇はあったのですか?

原田 休暇というか、生き残った兵士たちは情報漏洩(ろうえい)を防ぐために鹿児島の山奥に1ヵ月以上も軟禁ですよ。当時、国内の報道ではミッドウェーで「勝った! 勝った!」とやっていて、「どうなったんだ!?」と思いましたよ。

その後、群馬県の太田市にある中島飛行機の工場へゼロ戦を受け取りに行って、貨客船を改修して完成したばかりの航空母艦・飛鷹(ひよう)へ配属されました。

―中国戦線→真珠湾→セイロン→ミッドウェーと代表的な戦地を経験し、新造艦に乗って次に派遣されたのは?

原田 陸軍と米軍が取り合いをしていたガダルカナル島です。

「制服は復員のときに飛行機や書類と一緒に燃やしちゃいましたよ」(原田)

朝になって太陽を見ると、なぜか元気になる

―超激戦といわれたガダルカナル島での戦闘は?

原田 攻撃隊の護衛をしました。そのとき、敵のグラマン(F4F戦闘機)と空戦になり、敵は白煙を噴いてジャングルへ消えていきましたが、こっちも機銃を受けた。

―負傷したのですか?

原田 左腕に衝撃を受けたと思ったら、機体の破片で腕に卵ぐらいの穴があいてる。そこからはよく覚えてなくて、ものすごいガソリンのにおいで気づいたら墜落していました。すぐ機体から出ようと思ったけど、機体が反転して風防がぺちゃんこになってる。

―どのように脱出を?

原田 爪がはがれるまで穴を掘って脱出しましたよ。外に出ると急激に体中が痛くなった。負傷した左腕、頭は破片で血まみれでしたから。そして痛みの後はのどが渇く。近くにボウフラまみれの水があった。「これは無理だ」と思ったけど、飲み干しましたよ。これで元気になった。

―その後の行動は?

原田 近くに3人乗りの艦上攻撃機が墜落しているのを発見しました。しかも、操縦員は知り合いの佐藤君。彼も生きていました。機長の中尉はすでに戦死。電信員は生存していましたが、機体と木に体を挟まれ重傷。彼は「もうダメですから」と。俺と佐藤君は「頑張れ!」と励ましたけど、しばらくしてガクっと逝っちゃった。

その夜は寝られなくて「俺らもこれで終わりだな」と話していた。でも、朝になって太陽を見ると、なぜか元気になるんですよ。

―元気を取り戻した原田さんたちは、あるものを発見したという。

原田 遠くに機関銃陣地が見えた。「よし、ここは殴り込みして自爆するか!」。拳銃を持って弾を装填したら、“バーン!”って暴発した。「発見された!」と思ったら、「おまえら何やってんだ!!」と。友軍だったんだよ(笑)。

そこは人間魚雷の基地を設営している部隊で、飯も薬ももらえました。

戦後に米軍パイロットと遭遇、その心境は…?

―ここから再び艦隊へ合流したのですか?

原田 船が迎えに来ることになって、その合流地点へ徒歩で向かいました。しかし、途中で攻撃に遭って意識を失った。気づいたときは白いシーツのベッドの上。

―まさか捕虜に!?

原田 そう思って、まず考えたのが脱走です。脱走すれば監視兵に射殺される。拷問されるよりマシですから。

いざ起き上がったら、負傷だけでなくマラリアやデング熱で体力がなくてベッドからドンっと落ちた。「兵隊さん、何やってるの!!」という声で振り返ったら、日本の看護婦さんがいた。トラック島の海軍病院だったんですね。「また助かったのか」と思いましたよ。

―その後、原田さんは当時、病院船として使用されていた氷川丸に乗って内地へ帰還した。内地ではどのような任務に?

原田 体が回復してから茨城県の霞ヶ浦航空隊へ教官として配属されました。

―特攻隊員たちの教官ですか?

原田 そうです。彼ら学徒は空戦ができるような技量じゃなかった。戦争では戦いをいっぱい経験した兵士が圧倒的に優秀なんです。戦闘どころか、訓練期間も短い学徒たちは、ただかわいそうでしたよ。

―原田さんに特攻命令は?

原田 ありません。ベテランは最後の最後。本土決戦のために温存されていたみたいですから。

―戦後に米軍のパイロットだった方と交流があるそうですが?

原田 ガタルカナル島の空戦で白煙を噴いてジャングルに消えたグラマンに乗っていたジョー・フォス少佐と会いました。

―どんな感情で当時の敵だった方と会うんですか?

原田 子供の頃のケンカと一緒ですよ。お互い「おまえ強いな!」って、すぐに打ち解けました。国が違うし敵同士だったけど、彼もある意味、戦友なんですよ。

でもね、戦争の最前戦には勝ち負けはないんですよ。撃墜したほうだって一生、罪の意識を背負う。そして、撃墜した敵の顔が忘れられない。何が正しいのかわからなくなる。そんな私の経験を聞いて、若い人たちが平和を維持してくれればと思います。

左がガダルカナル上空で空戦を行なったグラマンのパイロット、ジョー・フォス少佐。撃墜数26機を誇る米海軍のエースである

原田要1916(大正5)年8月11日生まれ。98歳。長野県出身。昭和8年に海軍へ入団後、昭和11 年に第35期操縦練習生として訓練を受ける。その後、中国、真珠湾、ミッドウェーなどを転戦。復員後は幼稚園を立ち上げ、長らく園長を務めた

(取材・文/直井裕太 構成/篠塚雅也 撮影/村上庄吾)