第1回トライアウトに参加した佐野慈紀氏が当時を振り返る!

いよいよキャンプイン! ですが、意気揚々と新たなシーズンに突入する今だからこそ、懐かしのこの方にプロ野球界のシビアさを伺い、だからこそプレイできる喜びを感じて、選手諸君にはハゲんでもらおうではないか!

今や野球ファン以外からも注目を集める「12球団合同トライアウト」が始まったのが2001年10月30日のナゴヤ球場。記念すべき第1回トライアウトに参加した佐野慈紀(さの・しげき)氏に、トレードから戦力外、入団テスト、トライアウト…と流転の選手生活を振り返ってもらった。

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―佐野さんは近鉄で主にリリーフとして長く活躍し、96年には1億円プレーヤーにもなりました。その後、99年オフにトレードで中日に移籍します。

佐野 近鉄ではいいことも悪いこともいろいろありました。99年は手術から復帰したばかりでしたけど、先発に挑戦してある程度手応えがあったので、トレードはチャンスと思いましたね。

―ただ、残念ながら中日では11試合の登板にとどまり、オフに戦力外通告を受けました。その後はどう動いたのですか?

佐野 当時、中日のコーチだった島野育夫さんの紹介で日本ハムのテストを受けました。「オレが大島(康徳[やすのり]・日本ハム監督)に言っておくから」と聞いていたんですが落ちました。「あれ~?」って(笑)。

後で島野さんに「悪かった」と言われましたけどね。続いて、仰木(彬)[おおぎ・あきら]さんが監督をしていたオリックス、さらに横浜のテストも受けましたが、どちらもダメ。

その頃、野茂(英雄)が王さんに会う機会があって僕の話をしたところ、「だったら、ウチに来いよ」とおっしゃってくれたそうで、ダイエーにもテストを受けに行きました。

すると、中日で僕と同じくクビになった日笠雅人(ひがさ・まさひと)と巨人の橋本清も来ていて、僕だけ不合格。さすがに人間不信になりましたね(笑)。少し考えて、「どうせなら野茂もいるアメリカへ行くか」と、渡米を決意しました。

―米独立リーグのパイオニアーズでは、まずまずの成績でしたよね?

佐野 渡米当初は日本国内のテストで落ち続けたショックを引きずっていましたが、試合で投げるようになってモチベーションも上がりました。先発で6勝。防御率はリーグ3位でした。

ロッテのテストにも落ち「なんなんコレ?」

―自信をつけた形で01年10月のトライアウトを受けました。

佐野 これがね、初めて言いますが、ちゃんと連絡したのに当日会場に行ったら、なぜか僕の名前がないんですよ! リストに名前がない選手なんて誰も見ないでしょ? そんな失礼なことってないですよね!?

―結局、どこからも声はかからず、再び渡米します。

佐野 このときは引退するかどうかで揺れましたが、その矢先に野茂のドジャース復帰が決まりまして、エージェントの団野村さんのおかげで僕もドジャースと契約できたんです。結局、リリースされましたが、メキシコのリーグで1ヵ月プレーした後、再びパイオニアーズに入団しました。

―そして、オフに2年連続となるトライアウトを受けます。

佐野 前年のことがあったので、トライアウト自体は期待していませんでした。まだ投げられることをアピールして、別のオファーにつながればいいかと。

―03年にオリックスのキャンプに呼ばれて入団できました。

佐野 実は、その前にロッテのテストも受けたんですよ。当時の山本功児監督も「期待しているから頼むぞ!」と声をかけてくれましたが、なぜかまた落ちて…。さすがに「なんなんコレ?」ってなりましたよ(笑)。

―もう、お気の毒としか…。4年間、激動のオフでしたね。

●佐野慈紀(さの・しげき)1968年生まれ、愛媛県出身。元近鉄、中日、オリックス。近鉄1年目から中継ぎで活躍。髪が薄いことを自虐ネタに帽子を飛ばす「ピッカリ投法」を披露するなど、明るいキャラで人気者に

(取材・文/キビタキビオ)