フランスの新聞社襲撃テロ事件から約1ヵ月がたちました。

日本では「表現の自由を守るべき」とか、「他人の宗教を批判することは許されない」という“原理原則”だけを振りかざす人も多かったけれど、事件の背景はとても複雑。それを度外視してインスタントに正義を語るのは、事件を対岸の火事としか思わない人の“言いっ放し”でしかない。

欧米の西側資本主義社会では、多文化共生というのが半世紀に及ぶテーマでした。移民も積極的に受け入れ、肌の色や宗教が違っても、同じ国の人間として共存しようという理想を追ったわけです。

実際、移民でもその国のルールを受け入れ、大成功した人たちがいた。今も昔も、才能があって美しい超エリートたちは出自も何も関係なく、競争に勝ち抜いて輝けたんです。彼らのサクセスストーリーは多くの人を感動させ、社会の一体感を保ち、多様性という価値観を育てた。「共存のために対話をしよう」という欧米の美徳を支えてきた。

しかし、今になって思えば、その美徳は“豊かさの幻想”があってこそ成り立つものだった。経済成長に裏打ちされた「頑張って働けば、今よりいい暮らしができる」という共通の欲求が、平等な社会という理想を支えていたんです。

それが崩れ始めたのは1980年代から90年代。アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権が大規模な金融規制緩和など、新自由主義と呼ばれる政策を進めた結果、富が一部に集中し、中産階級が地盤沈下し、経済格差が広がった。移民コミュニティの中でも、富の恩恵にあずかれない人が増えた。フランスやドイツなどでも同じことが起きた。

現実を無視し、短絡的な正義に走るのは逃げ

2010年頃には、こうした格差が固定的なものと認識されるようになった。「絶望の確定」です。みんな口では平等な社会と言うけれど、いざ経済が悪化して全員に分け前が渡らなくなると、やっぱり出自で雇用や出世が差別される。そこで絶望や憎悪が生まれる。どうせ俺は生まれつきダメだ、あいつは出自がいいから上まで行ける……と。

先進国生まれのムスリムの若者が、アルカイダのような過激思想に共鳴している―そんなニュースを聞くようになったのも、2010年頃からです。それ以前にも「共存の美意識」なんて無視してテロリストになるというケースはあったけど、あくまでもイレギュラーなことだった。しかし、今ではある意味、必然性を帯びてしまっている。

ただ、忘れちゃいけないのは、欧米社会では常に「対話」があったということ。何十年間も、複雑な状況の中で互いに共存しようと努力してきた。それでも今回の事件が起きてしまったわけだけど、ガラパゴスな日本から、彼らの数十年の積み重ねを無視して“簡単な正義”を振りかざすべきじゃない。謙虚にならないといけない。

人口減少期に入った日本では、「移民を受け入れない」というオプションは消えていく。「日本に来るんだから、向こうが日本社会に順応するんだろ」としか考えられない人は、ヨーロッパから何十年も遅れている。順応と共存はまったく違うんです。現実を無視した原理原則や、短絡的な正義に走るのは逃げでしかない。もう人ごとじゃないんだよ。

●モーリー・ロバートソン1963年生まれ、米ニューヨーク出身。父はアメリカ人、母は日本人。東京大学理科一類に日本語受験で現役合格するも、3ヵ月で中退し、米ハーバード大学で電子音楽を学ぶ。卒業後はミュージシャン、国際ジャーナリスト、ラジオDJとして活動。現在は『NEWSザップ!』(BSスカパー!)、『モーリー・ロバートソン チャンネル』(ニコ生)、『MorleyRobertson Show』(Block.FM)などにレギュラー出演中