ドラクエ、FFシリーズのレジェンド、堀井雄二氏(左)と坂口博信氏(右)

スーファミの頃、RPGは黄金期を迎えていた。『ドラクエ』(以下、ドラクエ)『FF』(以下、FF)の二大巨頭がライバルとして並び立っていた時代であるーー。

そんな『ドラクエ』の生みの親、堀井雄二氏と『FF』の生みの親、坂口博信氏による、実に十数年ぶりという対談が実現!

ライバル関係でもあった両者が、RPG黄金期ともいえるスーファミ時代にお互いをどう思っていたのか…ぶっちゃけていただきます!

―おふたりがこうして対面するのはいつぶりですか?

堀井 ゲームショーとかでチラッと顔を合わせたりはしてたけど…随分、久しぶりじゃない?

坂口 そうですね。こうやってきちんとお話しするのは10年以上ぶりじゃないかな。でも、最初にお会いした時のことは今でも覚えてますよ。まだファミコンの『FF』を作ってた頃、鳥嶋さん(鳥嶋和彦。鳥山明氏のマンガ『Dr.スランプ』にてDr. マシリトのモデルとなった『週刊少年ジャンプ』の元名物編集者。現集英社専務取締役)に堀井さんを紹介してもらって。それがきっかけで飲みに行きましょうって誘ったんですよね。

堀井 そうだった、そうだった。でもあんまりゲーム論みたいな話にはならず、くだらない話ばっかりしたよね(笑)。そういえば、そもそも僕が『ドラクエ』を作ることになったのも、絵を鳥山さんに描いてもらうことになったのもトリちゃん(鳥嶋氏)がきっかけだったんだよな。トリちゃんとはまだ会ってる?

坂口 はい、今でも年に3、4回くらいは飲み会で顔を合わせますよ。

―おふたりを結びつけた張本人が、あのマシリトだったとは(笑)。ところで、今のお話ですと、ライバル関係絶頂期だったファミコン、スーファミ時代もいがみ合っていたわけではなさそうで…。

坂口 いがみ合うなんて畏(おそ)れ多い(笑)。最初に『ドラクエ』が先駆者として出てますから。『ドラクエ』を初めてプレイした時に「あ、ファミコンでもRPGが作れるんだ!」と驚いて、それで作ったのが『FF』。まぁ、『ドラクエ』人気が初めにあり、それに追いつけ追い越せって気持ちだったかな。

堀井 でも、お互い意識はし合ってたよね。僕はすごく気にしてましたよ(笑)。ほほう、『FF』はこうきたか、って。『ドラクエ』は体験型ゲームだから主人公に喋らせないけど、『FF』みたいに主人公が喋ると映画を見ている感覚に近づくから、こういう手法もあるのか、とかね。

ライバル作を語る。ここがスゴい!

坂口 ファミコン時代の『ドラクエ』である「III」は、終盤で「I」と「II」と同じ世界観の物語だってことがわかるじゃないですか。あれを見せられた時は、もう一生勝てないと思いましたよ(笑)。でもそこで刺激を受けたからこそ、自分たちは自分たちの独自路線でいこうと思って映像や演出面に力を入れていったんですよね。

堀井 それにしても、『FF』は一作一作の発売するまでのスピードが速かったね(笑)。

坂口 堀井さんはおひとりで手がける部分が圧倒的に多かったからでしょう。うちはチームで作っていたから、とりあえず毎年作ろうと。ナンバリングだけでも『ドラクエ』を追い越して、勝ったつもりになろうと(笑)。

堀井 ちょうどスーファミ時代の「VI」で追い抜かれたっけね。でも『FFVI』は印象深かったなぁ。オープニングでロボット(魔導アーマー)に乗って雪原を歩くシーン、あそこの雪の表現にはとにかく驚いた。こんな演出できちゃうんだって。

冒頭からいきなりすごいドラマ性を感じさせる展開だなと。あと『FFV』も結構やり込んだんですけど、最強のジョブが一周回って“すっぴん”(主人公たちの最初のジョブ)だっていうのも驚いたし、面白いなって思ってましたね。

坂口 それを言うなら、僕なんて『DQV』の結婚イベントをプレイした時、「うわー、やられた! ズルい!!」って心底思いましたよ(笑)。『ドラクエ』が先にやった手法と同じことをやっぱり『FF』ではできませんから。

当たり前っちゃ当たり前ですけど、結婚相手を選択するイベントは禁じ手になりましたので。そんなこんなで『ドラクエ』の新作が出る時は本当に僕らもドキドキしてました。ファンとしてもライバルとしても。

ビアンカかフローラ、結婚相手を選ぶ…RPG史上空前絶後の決断を迫られる『ドラゴンクエストⅤ 天空の花嫁』(1992年)の名シーン。ニンテンドーDS版では、なんとさらに嫁候補が加わり3択に!

最強ジョブが、すっぴん!

―本当にお互いの作品を意識してらっしゃったんですね。そんなこんなで、ファミコンからスーファミに移行した時代の、ゲームクリエイターとしての率直なお気持ちは?

坂口 本当に25年前みたいなインタビューだ(笑)。

堀井 記憶を掘り起こさなければいけない(笑)。

坂口 やっぱり楽しみでしたよ。技術革新もしたし、使える容量も倍々になっていったからマップの広さも街の数も増やせるし、やれることがどんどん広がっていって。今度はあれやろう、これやろうってアイデアの思いつきが止まらなかったですね。

堀井 スーファミではマップを2層にすることもできたんだよね。あと僕は初のスーファミタイトルとなった『DQV』の冒頭で、主人公が乗った大きな船が出航するシーンを入れたんだけど、ああいう大きいものを動かせたのもスーファミならでは。開発中に船が動くシーンができた時は、スタッフの間で「お~!」って歓声が上がったこと、覚えてますね。

坂口 僕はスーファミから画面を奥に向かって斜めに倒せるようになったんで、それを飛空艇のシーンで使いましたよ。あとファミコン時代の『FFIII』からフィールド上のドット絵のキャラに、例えばバンザイした姿とか、人形芝居みたいな動きのバリエーションを作っていたんですけど、スーファミから格段にパターン数を増やせたのも「やった、表現の幅が広がる!」って思って嬉しかった。

―そのドット絵を追求した喜びというのは、技術や容量がさらに格段に上がった『プレイステーション』(以下、プレステ)時代以降でゲームクリエイターになった方には、体感したくても体感できない感動でしょうね(笑)。

坂口 今の『プレステ3』や『プレステ4』のゲームを開発するのって、スタッフが何百人体制というのが当たり前ですしね。全員の顔を覚えられない規模ですよ。

堀井 スーファミの頃は30人ぐらいで作ってたっけ。当時はまだ手作り感があった。

坂口 ですね。うちは30人から40人ぐらいだったかな。ひとりひとりの性格から癖までばっちり把握してましたよ。

【画像左】『ドラクエⅤ』(1992年)は主人公とその父パパスのふたり旅から物語の幕が上がる。主人公の少年期から描き、時が流れ結婚をし、父となる大河ドラマ顔負けの壮大なストーリーは衝撃的だった【画像右】堀井氏が度肝を抜かれたという『ファイナルファンタジーⅥ』(1994年)の雪原を進むオープニングシーン。映像美もさることながら謎の少女ティナなど各キャラに深みを持たせた群像劇が圧巻!

スーファミ時代の開発は学校ノリ!

―ちょうど学校のひとクラス分くらいの人数だったと。

坂口 もちろんプロの仕事としてやってましたけど、確かに学校ノリみたいな感覚はありました。当時の『FF』はテスターさんも10名ぐらい雇ってはいましたけど、基本的に開発終了後のデバッグ(実際にプレイをしてバグや欠陥がないかチェックする作業)はスタッフ全員で徹夜してやってましたから(笑)。

最後、ひとつの部屋に全員集合して、一番うまいやつがラスボス倒してエンディングを迎えた瞬間にカンパイってのがお約束だったんですよね。でも『FFV』の時、もうみんなビール持ってソワソワしながら見てたら、そのスタッフがラスボス戦で全滅しやがって(笑)。

堀井 『ドラクエ』もデバッグはみんなでやってたな~。どこも一緒だね。でも僕はひそかにバグが出るのを少し待ってたところがあったかな。

坂口 え、どうして?

堀井 だってバグが出たら修正するでしょ。そのタイミングで「あそこのパラメーター、もうちょっと調整したかったな」ってところをついでに修正できたりするから。僕、特にボスのHPやMPのバランスとかを最後の最後までイジりたくなっちゃうから。

坂口 あ~、わかります。僕も結構粘って調整してたタイプなんで。発売した後にはもう直せないっていう一発勝負の世界でしたからね。最近のスマホゲームとかって、リリースした後でもいくらでも調整できるから、よくも悪くもそのヒリヒリした緊張感みたいのは味わえないんですよ(笑)。

●この続き、後編は明日配信予定! 鳥山明氏が加わった伝説的作品『クロノ・トリガー』のお話を中心にお届けします!

堀井雄二フリーライターとして活躍後、PCゲームにハマり、開発した『ドラゴンクエスト』が大ヒット。シリーズ最新作『ドラゴンクエストヒーローズ 闇竜と世界樹の城』が好評発売中。61歳

坂口博信スクウェアで『ファイナルファンタジー』シリーズを立ち上げ、「XI」まで携わる。2004年、ミストウォーカーを設立。現在手がけているスマホゲーム『テラバトル』は好評配信中。52歳

(取材/昌谷大介 牛嶋 健 武松佑季 千葉雄樹 東 賢志(A4studio)撮影/下城英悟)