本誌連載中のコラム「衆愚レアリズム宣言!!」より、ジャーナリストの川喜田研氏が“シューグ”な現実と向き合い世の中を見つめなおす!

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大阪都構想が住民投票で否決され、橋下徹大阪市長がキッパリと「政界引退」を表明したことに世間では様々な評価があるようだ。

「実に彼らしい潔い引き際だ」と言う人もいれば、「アレは単なるポーズで、将来、政界に復帰するつもりに違いない」と、うがった見方をしている人も少なくない。

橋下徹という人が厄介なのは、これで周囲が「そうかよ、じゃあ辞めろ、辞めろ!」と言いすぎると、カチンときて引退を撤回しかねない気がするし、逆に「引退はもったいない」という声が高まれば高まったで、ムキになって辞めるのか? あるいは、「そんなに言うなら…」と、戻ってくるのか? まったく予想がつかないことだ。

それを「いかにもあの人らしい」で片づけてしまう人もいるのだろうが、結局、普段の彼の言葉や行動にまるで「重み」や「責任」が感じられないために、こうしていろいろな見方が出るのだと思う。

そう、「政界引退」という、政治家としては極めてシンプルで大きな決断も、橋下徹の口から発せられると、それ本来の「意味」や「重み」を持たない。まるで芝居の「セリフ」のようで、どうにも現実感が乏しいのだ。

その意味で、2008年の大阪府知事選に立候補して以来、7年余りにわたった政治家としての歩みは、文字どおり「橋下徹劇場」と呼ぶにふさわしいモノだったと思う。

威勢のいいセリフ回しで人々の気持ちをつかみ、観客の反応を敏感に感じ取りながら、臨機応変に柔軟なアドリブを利かせて、グイグイと舞台を引っ張る。

超攻撃的なアクションで一気に緊張感を高めたかと思えば、笑いと涙を巧みに操り、「わかりやすい言葉」で幅広い層の観客にアピールするその姿は、確かに近年の政界でもまれに見る「名役者」だったといえるかもしれない。

でも、本当の政治はあくまでも「現実」であって「お芝居」じゃない。「橋下徹劇場」が持つ、その徹底した演劇性が、結果的に彼の行動や言葉から重みを奪っていったという気がしてならない。

すべては橋下氏の「個人マター」だった?

人々が「お芝居」としては面白いけど、コレはどこまでいっても「お芝居」なんだと感じ始めた時点で、政治家・橋下徹の「賞味期限」は切れたのだろう。人は目の前の「現実」からは逃れられないが、「芝居」に飽きたら席を立ち、劇場の外に出るだけでいい…。

ただし、そこは天下の名役者、そんな観客席の雰囲気を今回も敏感に感じ取り、皆が一気に席を立つ前に、大見えを切って花道から堂々と退場。今頃は舞台の袖に隠れながら、この先「第二幕」を開けるべきか、観客の反応に耳をそば立てている気がする。

もちろん、引退が「本気」だという可能性も否定はできない。しかし、そうだとすれば「日本維新の会」という国政政党まで立ち上げ、その代表を務める橋下氏が、さんざん政局をかき回しておきながら「都構想否決」でアッサリと政治を投げ出すというのは、一体どういうコトなのか? 都構想に「政治生命」をかけるのは勝手だが、彼にとって「国政への進出」とはなんだったのか?

単なる「大阪マター」で国政をかき回しただけなのか? それともモノゴトが思いどおりにならないからいやになったのか? もっと多くの人たちがこの点に突っ込まないのが不思議でならない。

で、結局すべては「橋下徹」という個人の「自己実現」の場でしかなかったのではないかというのが、考えた末の僕の結論。

「国政マター」どころか「大阪マター」ですらなくて、「個人マター」でしかなかったのだとすれば、それに踊らされてきた「衆愚」のミナサマにも、大いに反省していただきたいと願うばかりである。

●川喜田 研(かわきた・けん)1965年生まれ。モータースポーツ、特にF1関連の記事をはじめ、原発問題、TPP、憲法改正、集団的自衛権、沖縄基地問題を本誌で執筆。著書に『さらば、ホンダF1』(集英社)がある