もともとはお笑い芸人ではなく、演歌歌手を目指していたテツ(左)と役者志望だったというトモ(右)

日本中の子供たちが「なんでだろ~」と合唱を奏で、大ブレイクを果たした芸人・テツandトモ。今では一発屋芸人としてたびたびメディアに出る彼らに、大ブレイクまでを振り返ってもらった。

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―テツさんとトモさんの出会いは大学時代ですよね?

テツ そうです。ふたりとも日本大学藝術学部の演劇学科です。実は僕、もともとは演歌歌手になりたかったんです。小さい頃から五木ひろしさんに憧れていたので。五木さんのステージの中でお芝居と歌のショーがあるんです。だから、歌だけでなくお芝居もできるようにしようと思って。

トモ 僕はもともと役者志望だったので。でも、僕も同じように五木ひろしさんが大好きで、小さい頃に『追憶』とか『長良川艶歌(ながらがわえんか)』などのレコードを買ってました。

テツ その時代の大学生で、五木ひろしさんが好きな人って珍しいじゃないですか。それで気が合って、よくカラオケに行って五木さんの曲を歌ってましたね。

トモ でも大学卒業後は別々の劇団で活動していたので、その頃はあまり交流はありませんでした。その後、27歳くらいの時に大学の同級生の結婚披露宴に呼ばれて、ふたりで何か余興をやることになって、『サライ』の替え歌を歌ったんです。

テツ そこで、たまたま披露宴に来ていた今の事務所の関係者から声をかけられたんです。僕は歌を歌って声をかけられたので、てっきり歌手になれるんだと思っていたら。

トモ 「お笑い芸人をやってみないか」って。

テツ 演歌歌手が夢だったけどダメかもしれない。お芝居も「どうなんだろう」って悩んでいた時だったので、「じゃあ、やってみようかな」と。

トモ 事務所の方から「お笑いで売れたら歌も出せるし、役者としてドラマに出られるかもしれないよ」って言われて、「チャレンジしてもいいかな」って思ったんです。

成功には諦めが大事?

―「なんでだろ~」は、どうやってできたんですか?

テツ お笑いといえば、漫才かコントじゃないですか。それで漫才のネタを1本、コントを1本作ってみたんですけど、なんかしっくりこなかったんですよね。それで、お互い歌が好きだったということもあって「歌ネタでダメだったら、お笑いやめよう」っていうことになったんです。

トモ 最初は僕が質問をして、テツが答えていたんです。「仮面ライダー、いつ免許を取ったんだろ~?」

テツ 「無免だろう~」って。

トモ でも、答えを出さないで「なんでだろ~?」って言ってるほうが面白いと思ったんです。

テツ 漫才を歌でやってるわけではないので、ボケもツッコミもないんです。

トモ もし、僕らが初めからお笑い芸人を目指していたなら、漫才のネタを1本作ってダメでもやめなかったと思うんですよ。その後、10本でも20本でも作っていく作業をしてたはずです。でも、目指してなかったから諦めが早かった。自分たちが好きなものでネタを作ったのがよかったのかもしれません。

テツ それで「なんでだろ~」のネタをライブでやったらすごくウケたんですよ。同じ芸人仲間からも「おまえら、いいもの見つけたなあ」って言われました。

トモ お笑いで成功するとは思っていなかったけど、歌もお芝居もお笑いもステージで表現するものだから、それまでやってきた役者の経験も役に立ってると思うんですよね。これは見せ方の問題なんですけど、ただギターを弾いて歌ってるよりも、ステージなので動きがあったほうがいいと思ったんですよ。でも、動きながら歌うのは大変だから、僕が歌って…。

テツ 僕は動くだけ。

トモ 動く人が目立つように、歌う人はどこに立てばいいとか、テツが動いてる時は僕はできるだけ動かないとか。そういうのは芝居で学んだかもしれないですね。

ブレイク終焉の現在は…

―それで大ブレイクしたんですか?

テツ いや、まだです。「なんでだろ~」ができたのはデビューして半年くらいでしたけど、皆さんに知ってもらうまでにはその後、5年くらいかかってるんです。

トモ 初めてオーディション形式のお笑いライブに行った時、審査員の人に覚えてもらおうと思って、僕らは赤と青のジャージを着ていったんです。他の芸人さんはみんなトレーナーにジーンズみたいな格好でした。

テツ すると、ライブが終わった後、外に出たらお客さんから「あ、赤と青の人だ」って声をかけられました。本当は3回くらいジャージを着て、審査員の人に顔を覚えられたら脱ごうと思っていたんです。だけど、そんなに印象に残るなら着続けてみようかなと思いました。

トモ それから、僕らは極力下ネタをやらないようにしています。頭を叩くツッコミもしない。

テツ とにかく「わかりやすくする」ことと「子供から年配の方まで楽しんでいただけること」を心がけました。

トモ それで「毒がない」と言われたこともありましたけど、これが僕たちのスタイルだと思っています。

テツ そんなふうに地道にライブや営業を続けていたら、2002年に『メチャ×2イケてるッ!』と『M-1』の決勝大会に出られました。

トモ そして、翌年『こち亀』のエンディングテーマにも起用していただけました。それが僕らの転機ですね。

テツ あの頃はTVの仕事がたくさん入っていました。

トモ でも、そのうち呼ばれなくなるだろうなとも思ってたんです。僕らは番組のゲスト枠で入っているだけなので、新しい人が出てきたら入れ替わるのは当たり前ですから。

テツ 今は、全国各地でのイベントなどにたくさん呼んでもらってます。

トモ それに最近は、自分たちの持ち歌を歌わせていただくことも多くなりました。

テツ そういう意味でいうと、今のほうが夢が叶(かな)っているのかもしれません。

(取材・文/村上隆保 撮影/本田雄士)

■週刊プレイボーイ24号(6月1日発売)「一発屋芸人に学ぶ大ヒットの作り方!」より(本誌では13ページ大特集で、ダンディ坂野から波田陽区、コウメ太夫らあの芸人たちが一世風靡した時代を振り返るインタビュー一挙掲載!)