世界殿堂入りでさらに伝説となった具志堅さんだが、イメージ通りの柔和さは変わらず…もボクシングの話になると厳しく熱かった!

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

第6回のゲスト・板東英二さんからご紹介いただいたのは、元WBA世界ライトフライ級王者の具志堅用高さん。

取材直前には世界殿堂入りの式典でアメリカに渡航、日本が誇る元王者だけに超多忙な中、お時間をいただき会長を務める東京・西永福のジムに伺った。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

具志堅 週刊プレイボーイ、昔は燃えたね(笑)。誰いたかな、アイドルは。私は山口百恵さん好きだったけど。えー、なんだっけ。ハワイのあれかな、ハーフのコで…アグネス・ラムとかね。

―あー、アグネス・ラムはすごかったですね、ブームが。南沙織さんなんかも?

具志堅 南沙織は高校生くらいだからね、私が…中学3年か。あと天地真理さんね。

―天地さんも大人気でしたね~。それと浅田美代子さんとか。

具志堅 あー、浅田美代子さんねー! 一緒だから、30年生まれだから。そうそう。

―沖縄にいらした頃から結構そこらへんのアイドルは普通に興味を?

具志堅 いや、東京に来てからだから、ああいう雑誌見るのは。沖縄では一切、買ってみたこと1回もないのよ。あの時代はドルでしたからね。高校2年までドルだったの。

―は…はあ。じゃあ、向こうの洋物のエッチなものとかみんなで回し見したり?

具志堅 見たことない。僕はもうボクシングひと筋だったからエロい雑誌1回も見たことない。東京出てきてから週刊誌を書店でよく見て、先輩達も見てるからね、ジムの隅で。それ見せてもらったりして。

―刺激が強かったですか?(笑)

具志堅 うん、でももう世界戦がプロ2年後、世界タイトルマッチだから。それから一切見なかったですね。20歳、21歳ですか、世界挑戦した時は。

―自分はそういう雑念というか、欲を断ち切らなきゃみたいな感じでストイックに。

具志堅 そうね。それで7回防衛以降だから、はい、奥さんとお付き合いしてたのは。

―それでもう奥さんひと筋ですか?

具志堅 そうだね。遊びは本当に10代、20代の頃から全然遊べなかったよ。ディスコぐらいか、行ったのは。すっごい流行ってたのよ。半端じゃないんですよ、ソウルミュージック。だから土曜日の夜はちょこちょこ行ってたよ、夜中抜け出して。練習が日曜日休みだから、あれは楽しみだったね。

―それだけがリフレッシュというか発散できる感じで? でも踊ってる分にはある意味、トレーニングと一緒というか、体動かすしリズム感も養われたりしたんですかね。

具志堅 うん、ただワーワー騒いでるのが好きだったよね。ま、そん時だけはボクシングちょっと忘れるんだ。

日本で世界チャンプが集まってもテンション上がらない

―あー、余計なこと考えないで、プレッシャーとかストレスから解放される時間だったと。

具志堅 そうそう。あのねえ、何人かで行くんだね、2、3人は連れてたな。ひとつ、ふたつ下の人だったね、みんな。上の人とは行ったことない。ダンスクラブでしょ、上の先輩達は。クラブハイツとかクラブミカドとか、そういうところのね、キャバレーですよ。

―当時の大人の遊び方なんですね~。ディスコはもっと若者で、ちょっとワルが行く感じ?

具志堅 真ん中ぐらいでしょうね、ぎりぎり。昭和の時代のね…昭和40年くらいだったかな。

―…ところで、国際ボクシング博物館の世界殿堂入り式典でアメリカからお帰りになったばっかりで。まずはなんといっても、おめでとうございます!なんですが。戻られたばかりで、お疲れじゃないですか?

具志堅 いや、もう時差も取れて。一昨日くらいまでやっぱりしんどかったね。1週間いて、最後帰る日だけでね、ゆっくりできたのは。後は朝早くから夜もちょっと遅いから。寝るのはもう本当に早かったね。

―オールドタイマー部門で選出されて、世界的な名誉ですからセレモニーにパレードまで引っ張りだこで。また感慨深いというか、ぐっとくるものがありました?

具志堅 そうね、開催期間中はずっーとテンション上がりっ放しなんですよ、もう朝から。マニアがグローブを持ってさ、サインを求めて並んでたりしてね、すごいなーと。ずーっとサイン会ですよ。

その集まってくるボクシングファンっていうのは、期間中のスケジュールがわかってるんですよね、元チャンピオン達がどこにいるかっていうのが。だからメイン会場にいたり、高校の体育館でオークションとか街のイベントでゴルフ大会とかね、ゴルフ場にも来て並んでるわけですよね。

―改めてボクサーに対する価値が高いというか、リスペクトされてるのを実感しました?

具志堅 そう、私自身もね、(自分が)チャンピオンになる前の強烈な試合を見てる選手たちがいるわけなんですよ、会場に。昭和40年代の世界タイトルマッチのね、メキシコとかアメリカのミドル級チャンピオンが。それで、わーと思ったね。

―逆に自分が見てた伝説の人や憧れたチャンピオンがいっぱいいて、またテンション上がって…。

具志堅 だから本当に世界の集まりだなと思うわけですよ、うん。日本で世界チャンピオンが集まっても全然テンション上がらないもん。国内の世界チャンピオン集まっても。

―はははは(笑)。じゃあそこで自分も昔の興奮が甦って、子供心に返ったというか?

具志堅 うん。だから日本のボクサーが、現役の選手でもいいですよ、向こう行ってみると、自分はどれくらいの力なのか、これからどうしたいのかっていう、行って初めてわかるんだよね。ボクシングやってる限り、そこに1回でも行く楽しみっていうかさ、そこに生き甲斐を感じるかな。なかなか行きたいけど行けないっていうのもあるけどね。

2階級、3階級狙うとか昔はありえなかった

―この間のパッキャオvsメイウェザーみたいな頂点というか、ほんとお金も話題も世界中の注目が集まるトップの中のトップを目の当たりにしたらね、モチベーションとかも変わるでしょうし。

具志堅 そうなんですよ。俺らの時はロサンゼルスなんですよ、ラスベガスっていうのはなかったんでね。今見たら、やっぱりラスベガスに行きたいよね。あの、観衆が違うんだよね、日本での世界タイトルマッチと。会場の雰囲気が違うよ、うん。

―まあ時代もあるでしょうし、規模とかもですけど。ボクシング見てる人達の目が肥えてたりとか、いろいろあるんですかね?

具志堅 昔は日本もね、昭和30年代、40年代はすごかったみたいよ、応援の仕方は。会場の雰囲気でも今はなんか違うもんね。私の時でも、もう、わっしょい、わっしょいだったもん。選手のね、試合でのファイトの仕方も違うんですよ、昔と今の。

―それはどういう意味でしょう。具志堅さんから見て、一番の違いというのは?

具志堅 あのね、お互いの激しいファイトで勝負が決まるって感じだったんですよ、昔は。力が一緒ぐらいでもね。それはさ、やっぱりグローブも小さいし、あと当日計量だしね。体が絞り込まれて美しい体なんですよ、ボクサーが。

―なるほど、そこからして違うわけですね。自然と激しい打ち合いになる前提が変わってきて…。

具志堅 いやもう今、全然美しくないんだね。

―前日計量と当日とでそんなに違いますか? まあ、計量後にだいぶ食べちゃいますもんね。

具志堅 自分の階級から二階級くらい上げる。うちにいる(所属の)選手も7キロとかオーバーしてるもん、1日で。

―そこで体のキレもそうだし、置かれてる状況とか精神的な追い込まれ方もまた違うんでしょうかね。

具志堅 いやもう、スピード感とね、体のキレは全然違う。当日計量だったら、せいぜい2キロぐらいしか上がらないんじゃないかな。夜試合だから、腹一杯食べられないしね。ある程度、水分とってぐらいじゃない?

だから今すごいっていうか、そんなに体が変わらないのは内山(高志)クンぐらいかな? いつもキープしてるんじゃないかなと思うんだよね。

―確かにそれもあって今は2階級、3階級とクラスを変えての制覇も、より可能になってきたんでしょうか?

具志堅 だからみんな2階級、3階級狙うとかね。昔は普通ありえなかったのよ。やっぱりチャンピオンになったら防衛を続けるっていうのがまずはあったんだけど…今はほんとわからないんですよね。減量が苦しいって言って体重、階級を上げるよね。

ジムのオーナーって金がかかるんですよ

―違った階級で複数のベルト獲得するのが逆にステータスというか。どんだけ幅のあるクラスでチャンプなれるかみたいなのを競い合ってる面もありますよね。

具志堅 表向きはカッコイイんだけどね、それは。あとジムのオーナーっていうのは金がかかるんですよ。次の階級へ行くのに、またお金つぎ込むのが本当に大変なんですよ。

―なるほど。新たなルート作って、また新たに交渉して?

具志堅 もう大変なんだけどね。でも海外ではそういうこと一切ないんですよ、プロモーターがやるだけだからね。お金貰うだけなんです、選手は。日本はお金を出して、世界チャンピオンを呼んで試合組むと、そういうシステムだから。

で、今は確かに国内の世界チャンピオン多いんだけど、中身がやっぱりちゃんといい試合だったらいいんだけどね。やっぱり強烈な印象に残す試合をしないと。

―ご自分もジムの会長をされて、いろいろ難しさを実感されてるワケですね。現役だった時のほうがまだそういう余計なことを考えないで済んだ分、今がしんどいなっていう?

具志堅 うーん、楽じゃないですよね。だけど選手がいるから、また世界まで行くっていうか、そういう夢があってやってるっていうだけだし。

―チャンピオン作るって、こんなに大変だったんだ…とか思うことあります? 自分がやる方が楽だったっていう。

具志堅 そりゃそうですよ。ありますね、たくさん。マッチメイクとか興行とか自分でやらなくちゃいけないから、そのへんはやっぱり時間とお金がかかるよね。やっぱりお金の世界ですから、お金があればなんでもできるっていうのもあるし。

―リアルですね…。ちなみに、今と昔っていう話が先ほどもありましたが、ご自分の試合を見直すことは?

具志堅 うん、たまにビデオで流れるからね。今回も殿堂入りのパーティーの時に流れて、名前呼ばれたんですよ。やっぱり気持ちのいいもんだね(笑)。向こう着いて最終日まで夜は毎日パーティーだったの。一般チケットで売って、みんな入れるんですよ。

最後のパーティーなんかすごかったね、やっぱし。千人ぐらい入ってきたのかな。で、その時スクリーンに流れたんですよ、あれは10回めの防衛のかな。あと、TVで昔の試合を流したりするのもあるし、そういうのたまに観るよね。

―それでまた自分で惚れ惚れしたり? あの時代の俺のボクシングというか、それこそ体が美しいみたいな。

具志堅 グローブが小さいからね、速いのよ、打っていくのも引くのも。グローブ、今の8オンスは顔が隠れちゃうんですよ、ガードで腕上げたら。昔はやっぱり小ちゃいから、みんなスピードがあるわけなんですよ、速い!

―やっぱりスピーディーで緊張感も違うんでしょうね。

具志堅 うん。それでね、海外でもそうだけど、倒れてもレフェリーが起きるまでカウント数えてるわけですよ。そして相手が起きたらまたファイトさせる。今倒れたらね、カウント数えてすぐストップするからね、世界タイトルマッチは。

―健康面とかケアされてのことなんでしょうが…。体にダメージが残らないよう早く止めるみたいな。

具志堅 今はもうレフェリーの権限ですよ、うん。昔は、止めたらもうファンに何言われるかわからない。だからレフェリーもしっかり仕事やってたみたいですけど。しっかり10カウントまで数えてるよね。選手も、倒れても立ち上がってファイトしてるよ。

タレントの有名人っていうのは感じない

―確かに昔のファンのほうが気性荒くて、こんなところで止めたら暴動起こるんじゃないかぐらいの危機迫るものが(苦笑)。具志堅さんでよく思い出すんですけど、僕の祖母が当時ゴールデンタイムのメシ時に試合中継始まると「こんな野蛮なの見たくない、さっさとチャンネル変えて!」みたいな感じで興奮して。プロレスの流血もですけど大変だったんですよ。

具志堅 うん。あの時代にどうしても見る番組って、野球、相撲、ボクシング、あとプロレスでね。今はなんかいろいろ変わっちゃって、夕ご飯の時間帯に血を見せるのはやっぱりダメだっていう、あれができちゃって。そういうのでも、世界チャンピオン増えてはいるんだけど。落ちてますね。

―人気面でも魅力という意味でもいろいろ制約があって難しいですよね。また新たなブームみたいに言われてますが、熱が違うというか。具志堅さんが防衛続けてた頃はそれこそ国民栄誉的なスーパースターですし。

具志堅 まあそれがあって、楽しみっていうか、好きになるしな、ボクシング。世界チャンピオンになったら楽しくなりますよ。タイトルも何も持たないで、練習一生懸命して勝ったり負けたりしても面白くないんです。チャンピオンになって初めてボクサーは楽しみ、生き甲斐を感じるのよ。

―名誉もお金もでしょうし、それを得られて有名になっていろんな見方も変わると。

具志堅 そうです。練習も一生懸命やるよ。意外と変わっちゃうんだよ。

―でも不思議なんですけど、僕の知ってる周りの沖縄出身者って結構、男はシャイな人が多くて。内弁慶みたいなところもあるんですが、具志堅さんはそういうのとも違うんですかね。

具志堅 うん、そういうのはありますよ。普段はあんまり前に出ないもん。

―あはは(笑)。だけどチャンピオンになってスターの脚光を浴びるのはやっぱり気持ちいい?

具志堅 そうですね。結構浴びるのが好きだよ。

―じゃあ引退されて、その後タレント的にバラエティとか出るようになって。そこで目立って有名になるのも面倒くさいとか嫌だなって思うこともなかったですか?

具志堅 いや、タレントの有名人っていうのは感じないわけですよ、僕は。自分では全然思ってないですよ。やっぱりボクシングのチャンピオンだったっていうのでバラエティに持っていってるだけで。芸人じゃないし、そんなに笑わそうっていうのは考えてない。

―なるほど。無理して笑わせよう、ギャグ言おうなんてことはないわけですね。

具志堅 なかなか難しいですよね、そういうのね。ただ、みんなの空気呼んでるだけですよ、スタジオで。この人は素晴らしいな、面白いなって、一緒に出て見てるだけですよ、はい。

―今回、板東さんからお友達としてご紹介いただいてるわけですけど。そういう意味では板東さんなんかもさすがだな、勉強になるなあって感じで?

具志堅 そうそうそう。真似するんだね、陰でやっぱり見て。いいところ悪いところ盗んだりするの。今は蛭子(能収・えびすよしかず)さんだな、俺のライバルは。

―あははは、では蛭子さんのお話など、続きは後編でさせていただきます!

●この後編は次週、7月26日(日)12時に配信予定!

●具志堅用高1955年生まれ、沖縄県石垣島出身。元WBA世界ライトフライ級王者。高校を卒業と同時に上京し、協栄ジムに入門。74年5月28日にプロデビュー。76年10月10日、9戦目で世界初挑戦。“リトル・フォアマン”の異名を持つWBA世界ライトフライ級王者ファン・ホセ・グスマンに挑戦。7回、3度目のダウンを奪ったところでKO勝ちとなり、沖縄県出身者初の世界王者に。試合後、「カンムリワシになりたい」と話したことから「カンムリワシ」との異名がつく。9戦目での世界王座奪取は、当時の国内最短記録。79年にはアルフォンソ・ロペスを7回KOに降し、8度目の防衛に成功。世界王座6連続KO防衛となり、以降、日本人では他に誰も達成していない。81年に引退後は、日本人初のボクシング世界王者でもある白井義男氏と「白井・具志堅スポーツジム」を設立。同ジムの会長として後進育成に力を入れると共に、テレビ朝日『くりぃむクイズ!ミラクル9』はじめ、数多くのバラエティー番組で活躍中

(撮影/塔下智士)