2006年5月に掲載した本誌インタビュー記事で意気揚々とビジョンを語ってくれた若き岩田聡社長だが…合掌

7月13日、任天堂の岩田聡社長が11日午前4時47分に胆管腫瘍のため京都市内の病院で死去したと発表された。

その一報が流れると早速Twitterで情報拡散され、多くの開発者やファンからも悲しみの声が上がり、ライバル機・プレイステーションの公式アカウントでも「Thank you for everything, Mr. Iwata.」とツイートされた。

筆者が初めて岩田社長にインタビューしたのは2006年5月のこと。ニンテンドーDSの大ヒット後、新ハードWiiを米・ロサンゼルスで行なわれた世界最大のゲーム見本市“E3”会場で発表し、年末の発売に向け社長自らがその目新しさや面白さを発信していた時だった。

当然、取材が殺到する中、20分という短い時間だったがどんな質問にも言い淀むことなく真摯に話してくれたのが印象的だった。

昨年6月には胆管腫瘍の切除手術を受け、一時療養中であることは報じられていたものの、今年6月26日には「第75期 定時株主総会」にも出席。今後の任天堂について1時間以上も壇上に立って説明をし、手厳しい質疑にも以前と変わらぬスタンスで言葉を尽くし応答していたという。

この株主総会に出席したジャーナリストが当日の様子についてこう語る。

「岩田さんは株主からの質問にもいつものように溌剌(さっそう)とお答えしていました。やはりスゴいなと感じたのは、ゲームを遊ばない人間にもわかりやすい説明ができること、面白さを伝える力に長(た)けたところです。“ニンテンドー3DSやWiiUの立ち上がりに失敗したのでは?”という、やや厳しい質問が飛び、それには反省点もあることを触れた上で、現在開発中の新しいゲーム専用機『NX』について、現時点で話せる最大限の話を丁寧にされていました。それから1ヵ月も経たないうちに訃報を受け取るとは…」

誰よりも任天堂を愛し、亡くなる直前まで第一線で率先したという岩田社長。ネットを少しググって見ただけでも、その天才ぶりや逸話は次々出てくるが、任天堂の代表取締役社長になる以前の伝説から『僕たちのゲーム史』(星海社新書)の著作もある作家、さやわか氏に聞いた。

「岩田さんは東京工業大学在学中に“マイコン”に夢中になり、当時マイコン用のソフトや周辺機器を開発する株式会社HAL研究所という会社でアルバイトを始めるんです。そして大学卒業後はそのまま正社員として入社しました」

老弱男女の誰もが楽しめるゲーム作り

そもそも高校時代からプログラム電卓にハマり、大学1年でマイコンを購入した愛すべき電気ヲタだった岩田氏だが、HAL研究所では天才プログラマーとして活躍する。

「ファミコンの初期ソフト『ピンボール』や『ゴルフ』、『バルーンファイト』のプログラミングを担当したのは有名な話ですが、1992年、岩田さんが32歳の時に会社が多額の負債で潰れかけるんです。この時、当時の任天堂の代表取締役社長だった山内溥氏が再建支援をするわけで、その条件として代表取締役に岩田さんを指名したと言われています」

天才プログラマーではあったものの経営とは疎遠の立場であった岩田氏。だが、そこでHAL研究所の社長となってから山内氏に様々な指導を受けたという。

「当時の山内さんがどこまで考えていたかはわかりませんが、HAL研究所の経営再建を図るため様々な教えを授かったそうです。そして2000年に任天堂に入社するまでの間、『星のカービィ』や『大乱闘スマッシュブラザーズ』などをヒットさせ経営再建を成し遂げたんです」

その後、2000年に任天堂の取締役経営企画室長に就任。そして2002年には山内氏からトップの座を譲られ、任天堂・代表取締役社長に就任する。

「それまで任天堂は長らく同族経営で次期社長候補も別の方がいましたが、入社2年目の岩田さんが抜擢されたのは異例でした。山内さんとしては、ちょうどゲームのビジュアルがどんどん豪華になってソニーやマイクロソフトがゲームを“オシャレなもの”“カッコイイもの”に変えようとしていた時代に、老弱男女の誰もが楽しめるゲーム作りをモットーとしてきた岩田社長こそが任天堂の長としてふさわしい、と考えたのではないでしょうか」

その期待に応え、2004年にはニンテンドーDS、2006年にはWiiを発売。DSは日本で最も普及したゲーム機となり、Wii専用ソフト『Wii Sports』は世界一販売本数の多いソフトとなった。

「岩田さんの任天堂の社長時代のピークは2009年。この年に過去最高の業績を記録。これ以降は欧米ではPS4は売れていましたが日本ではゲーム機が売れなくなってスマホが伸びるんです。やはり任天堂ももっと早くスマホ市場に取り組むべきだったと僕は思いますね」

任天堂にしか作れない新しい感動を!

任天堂らしさにこだわった岩田氏は当初、スマホゲームへの参入に慎重な姿勢を見せた。だが方針を転換、今年3月に株式会社ディー・エヌ・エー(DeNA)と年内にもスマホゲームの共同開発する方針を発表したばかりだった。

「今の段階ではモバゲーにマリオのキャラクターを登場させたりするライセンスビジネスであったり、『パズドラ』とかのニンテンドー3DS用のゲームを出したりといったカタチの展開に留まっていますが、僕としてはスマホのタッチ機能を生かしたまったく新しいゲームを作ってほしいなと思ってました。

いま最も売れてて全世界で累計100万本以上のWiiU『スプラトゥーン』のような…。これは“地面を塗ってナワバリの面積を広げる”のが目的で、海外で主流となっているFPS系のゲーム(自分視点でゲーム世界を移動したり撃ち合うアクションゲーム。特に戦争系のゲームが多い)を日本人でも楽しく遊べるようにまったく新しいカタチにローカライズしたようなゲームなんです。任天堂にはこういう新しい感動を今後も提供してほしい!」

だが、DeNAとの提携時に発表した次世代ゲーム機“NX”について「次に情報を発信するのは2016年になってから」と明かしたのみで岩田社長は逝ってしまった。一体、このNXはもちろん、スマホ向けゲームについてどんなビジョンを持ち、残された任天堂スタッフはそれをどう継いでいくのか?

最後に、さやわか氏はこう期待する。

「任天堂にはあくまでもハードメーカーだという自負がある。ゲームファンであり任天堂ファンでもある僕としては、ぜひスマホを作ってほしい。今回の岩田社長の死により、改めて世界中から惜しむ声が寄せられ、任天堂の世界的な人気も感じたわけです。もう任天堂やソニーが起こしてきたハード戦争は終焉を迎えていくでしょうし、いま世界的に最も普及しているのがスマホだからこそ、任天堂にしか作れないものを目指してほしいと思いますね」

岩田氏の、任天堂のスピリットが生き残るのか、今まさに問われている。

(取材・文/河合桃子)