トレーニングジムのCMで、一変した肉体を披露し話題を呼んだ赤井英和

トレーニングジムのCMで、一変した肉体を披露し話題を呼んだ赤井英和。

ドラマ『半沢直樹』で町工場の社長役を好演したことも記憶に新しいが、役者やバラエティ番組で活躍する一方で、赤井はもうひとつの顔を持つーー近畿大学ボクシング部総監督。

かつての“浪速のロッキー”が、今もボクシングに携わる理由とはーー。

 * * *

その時、赤井英和は人目をはばからず大粒の涙をこぼした。

それは、総監督を務める近畿大学ボクシング部ーー過去に関西学生リーグ36連覇を成し遂げ、全日本学生王座を10度獲得した名門ーーが7年ぶりとなる関西学生リーグ1部復帰を決めた瞬間だった。

「学生たちが頑張ってくれました。汗も涙も流してきた。ボクシング経験のない学生もよくやってくれた。褒(ほ)めてあげたい」

近大ボクシング部を、赤井は「私が育った場所」と呼ぶ。

2012年10月、赤井がその総監督となったのは、ある事件が発端となっている。09年6月、部員が強盗致傷事件を起こし、ボクシング部は廃部に。元部員たちは近隣の清掃活動などのボランティアを続けながら部の復活を信じた。

3年後、赤井をはじめ多くのOBたちが中心となり4万を超す署名が集まる。その署名を持った赤井たちが世耕弘成総長を訪ね、ボクシング部復活を願い出ると、総長は赤井に言った。

「あなたが総監督として指導してくれるならば、ボクシング部の再開を認めましょう」

赤井は即答する。

「わかりました」

不祥事があった部の総監督の座に就くことは、タレントとしてかなりリスクが高いことに思える。しかし、躊躇(ちゅうちょ)はなかった。

「私が育った場所です。ボクシング部からいっぱいの愛情をいただきました。お世話になった先生、先輩も大勢いる。その中には、お亡くなりになった方もいます。直接、恩を返すことは叶いません。私ができることは後輩たちを強くしてあげること。ボクシングの技術のみならず、心や気持ちも強い学生にしてあげること。私が受けた愛情を後輩たちに注いであげることが、わずかばかりの恩返しだと思っています」

学生たちを見るのは楽しい

元名門ボクシング部は赤井を総監督とし、ほぼ初心者の部員4人で再出発した。翌春、赤井自らキャンパスで勧誘活動を行ない部員は9人となった。13年に3部リーグから復帰し、14年には2部昇格。そして今年、最速で1部へ駆け上がった。

現在、東京に住む赤井だが、大阪の番組にレギュラー出演しているため週に1度は大阪に赴く。そして少なくとも週に1度、部の練習を指導している。

「楽しいですね。やり甲斐があります。指導をし、翌週来たらちょっとだけ強うなってる。その翌週も、もうちょっとだけ。本当にちょっとずつ、ちょっとずつ。『ああ、俺がいてない間も一生懸命やってるんやな』ってのが、パンチを受けると伝わってきます。そんな学生たちを見るのは楽しいですね。みんな、マジメで一生懸命ですから」

赤井の指導者としての礎(いしずえ)となっているのが、ふたりの恩師の面影だ。高校2年生の時、近大の監督だった吉川昊允(よしかわこういん/故人)から初めて声をかけられたことを、赤井は忘れることができない。

「『一度、近大に遊びに来なさい』と先生に言われまして。近大ボクシング部はアマチュアボクサーの憧れでしたから嬉しかったですね」

そして入部した赤井に、ごんたくれとして大阪中にその名を轟(とどろ)かせた少年の姿はもはやなかった。

「吉川先生に喜んでもらいたいが為だけに必死でしたね。先生が『よし、いいぞ!』と言ってくれるだけで、くたくたな体にビシッと力が入るようでした。もちろん先生の練習は厳しかった。でも、その中に優しさがありました。今の私の指導の根っこにあるのは、間違いなく吉川先生の姿です」

赤井には吉川氏に「人生を変えてもらった瞬間がある」という。

80年、モスクワ五輪で日本代表の補欠に選出された赤井だったが、日本代表はボイコットを決めた。「ボクシングで入学させてもらったのだからアマチュア最高峰の五輪に出られない以上、もはや大学を退学すべき」と赤井は思い詰め、吉川氏に退学届を手渡す。すると、氏は赤井の目の前でビリビリと退学届を破ってしまった。

「おまえの両親はボクシングをするためだけに大学に進学させてくれたんじゃないだろう。大学で仲間を作って、勉強をしなさい」

ボクシングは個人戦だが、大学リーグは9対9の団体戦が行なわれる。赤井はこう語る。

「仲間と一緒に戦う。選手にとって仲間の声援ほど力になるもんはない。実力以上のものが出せることがあるのなら、それは仲間たちの応援があるから。苦楽を共にしてきた仲間の声が背中を押してくれるんです。仲間の大切さを教えてくれたのも吉川先生です」

そして、今なおチームワークの大切さを感じているという。

「私が言うのはおこがましいですが、演技には努力も技術も必要です。でもドラマや舞台は、たくさんの人でひとつの作品を作るという共同作業でもあるわけです。だからチームワークが必要なんです。みんなで一緒にいいものを作っていこうという姿勢が大切だと思うんですね。俺が俺がと言うもんじゃない。そういった姿勢も、私は大学時代に吉川先生から教わった」

異色だったエディの指導法

もうひとりの恩師が、ガッツ石松、井岡弘樹など6人もの世界チャンピオンを育て上げた名トレーナー、エディ・タウンゼントだ。

エディの指導法は、当時からすると異色だった。指導者が竹刀で選手を殴りつけるのが当たり前だった時代、エディは決して選手を殴ることをしなかった。

「ガードが下がると、『ガードを上げろ!』と竹刀で両腕をバコバコ叩かれる時代。私はいつもガードが低かった。でもエディさんだけは一度も叩かないどころか、そのクセを無理に矯正しようともしませんでした。『オッケー、赤井は低くても大丈夫!』と」

赤井が、腹の前でピストルを構えるポーズをとった。

「赤井の鉄砲の弾、ここから出るの。この状態から『手を上げろ!』と言うから相手は怖いね」

赤井が、懐かしむように恩師の口調を真似る。

「でも赤井、ワンポイントアドバイス。相手がきた時は、危ない、危ない、危ない。避けなさいね」

「エディさんに教わった井岡(弘樹)は、ガードが高かったですよね。エディさんは、決してひとつの型にはめようとはしなかった。選手それぞれに合ったスタイルを尊重し、長所が消えないよう個々のスタイルを大事にしてくれたんです。私も学生のいいとこを伸ばすよう心がけています。そうすれば、自ずと悪いところが隠れる。

エディさんのように『この選手の良さはどこにあるだろう?』と、選手をじっと見つめるのが大切だなと。人それぞれだから。みんな、それぞれ顔が違うようにスタイルも違うから。もちろん、10教えても3しかわからんヤツもいたら、20も30もわかってしまうヤツもいてる。でも、みんな違うから面白い」

ただ、赤井は、どんな技術や指導法よりもエディさんから受け継いだのは「選手に愛情を持って接すること」だと言う。

選手想いで、勝てないと察すれば誰よりもタオルを投げ込むのが早かったと言われる名トレーナーは「勝った時は友達大勢、イッパイできるから私いなくてもいいの。誰が負けたボクサー励ますの? 私、負けたボクサーの味方ね」と言うのが口癖だった。

85年2月5日、赤井が大和田正春戦でKO負けの後、意識不明に陥り、急性硬膜下血腫、脳挫傷と診断され、生存率50%の手術を受ける最中、ずっと付き添ったのはエディだった。

そのエディは88年に亡くなっている。

「奥さまが東京の中野でスナックをやってらっしゃって。教え子が月命日に集まるようにしていたんです。ガッツ石松先輩、カシアス内藤先輩、田辺清先輩、柴田国明先輩…そうそうたるメンバーが集まりました。すると、いつも必ず『エディさんが一番愛してくれてたのは俺だ』と、みんなが競い始める。私が一番後輩でしたから、黙って静かに聞いてるんですけど、胸の中では『ホンマに愛してくださったのは俺やで』と思ってましたね(笑)。みんながそうやって言い合うほど、選手に深い愛情を注いでくださった方なんです」

エディがよく言った言葉

エディがよく言った言葉がある。

「ボクシングの虫に一度でも刺されたら、死ぬまで体にはボクシングの血が流れている」

その言葉をなぞるかのように、現役を退き30年の歳月が流れた今も赤井はボクシングの世界にその身を置いている。

「ただただ、感謝です。今なおボクシングに携わらせていただけることが幸せです」

そして、一時は自身の命を奪いかけたボクシングの魅力をこう語る。

「なんのスポーツもそうでしょうけど、ボクシングは真剣勝負であり、練習はウソをつかない。やった分だけ身に付くこと」

現在、トレーニングジムのCMでの豹変振りも話題を呼んだ赤井だが、実は6年前の2009年にもダイエットを行なっている。トレーニングに加え、禁酒、禁煙し1ヵ月で5.2kgの減量に成功、TV番組で当時世界チャンピオンの長谷川穂積と3ラウンドの公開スパーリングを行なった。

当時、50歳だった赤井は、減量と再びリングに立ったことについて、こんなことを言っていた。

「自分が真剣に戦うことで、部員の不祥事で廃部に追い込まれた近畿大学ボクシング部の後輩たちに『ボクシングは素晴らしいんだよ』というメッセージを送りたかった」

そして、今回のダイエットも赤井には伝えたいことがあった。

「理想と夢を瞼(まぶた)の裏に描き、本気になれば夢は叶う」

夢を叶えるのに「年齢も才能も関係ない」と赤井は続ける。

「もちろんです。そこに何も関係ない。何が大切かというと、『よし、やろう!』と思った瞬間、その瞬間、足を前に一歩踏み出すこと。トライすることが大切なんだと学生にもいつも伝えています」

つまり今回のダイエットも、1部リーグ復帰をかけた試合を目前に控えた、学生たちへのメッセージだったのか? 赤井は少し照れくさそうに言った。

「いやいや、まあ仕事です。ホンマ、体重が減ってよかったんですよ。体調が良うなって、大便と小便の量が増えたから(笑)」

赤井が伝えたかったこと

噂されるリバウンドについて尋ねると、赤井は首を横に振った。

「去年の10月上旬にビフォーを撮影して77kgでした。12月の上旬にアフターを撮影した時が70kg。その後、ドラマや舞台がいろいろあって、行きたいんですけど、なかなかトレーニングに行けない日々が続いて。今、半年ちょっと経って72kg。少なくとも今の体重はキープしたいね」

2012年、近大ボクシング部の総監督となった赤井は、真っ先に吉川先生の墓を訪ね報告している。それから3年、最速で一部リーグ復帰した報告も当然済ましてあるものかと思われた。しかしーー。

「まだしておりませんですね。こんなこと公言しないですけども、一部復帰はして当然と思ってました。来年は関西一部リーグで優勝し、全日本学生王座で日本一を取りにいく腹でおりますんで。それが果たせた時、先生のお墓にご報告できればと」

今、赤井の背中を押すものとは何なのか?

「吉川先生であり、エディさんであり、多くの大学の先生、先輩方からもらった愛情でしょう」

55歳、赤井英和。かつての“浪速のロッキー”は、まだ夢の途中だ。

(取材・文/水野光博 撮影/村上庄吾)

●赤井英和(あかい・ひでかず)昭和34年8月17日生まれ。大阪府大阪市西成区出身。ボクサーとして、当時の日本記録であるデビュー以来12試合連続ノックアウト勝ちという快挙を成し遂げ、“浪速のロッキー”の異名を取る。後に俳優に転身。8月22日、日本テレビ系24時間テレビドラマスペシャル『母さん、俺は大丈夫』に出演。9月17日から舞台『もののふ白き虎』に出演詳細はオフィシャルサイトへ!http://www.shirokitora.com