『東京スポーツ青春物語』を出版した時は、翌月に退社する気などなかったというが…

東京スポーツの名物記者であり、『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)などの解説者としても活躍する柴田惣一(そういち)氏が『東京スポーツ青春物語 大事なことはプロレスから学んだ』(飛鳥新社)を刊行した。

この本はいろんな意味で話題を呼んでいる…というのも、プロレスラーたちとの豪快エピソードもさることながら、刊行直後、柴田氏が東京スポーツを退社したからだ。柴田氏に“東スポイズム”と、退社の真相を聞いた――。

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―柴田さんが最初に東スポを見たのはいつなんですか?

柴田 中学生くらいですね。僕は地元が愛知県なので、中京スポーツ(東京スポーツの中京版)なんですけど。当時からプロレスが好きで専門誌は読んでました。ある日、駅の売店で中京スポーツを見つけて「あれ? 新聞にプロレスがどーんと出ているぞ」と。

当時はコンビニなんてないから、国鉄(現JR)の岡崎駅か名鉄の東岡崎駅に行かないと手に入らない。僕は比較的優等生だったので、親に頼んで宅配で購読するようにしました。たぶん、親は中日スポーツと区別できてなかったと思いますけど(笑)。

―普通のスポーツ紙だと思っていたと(笑)。当時の中京スポーツにもエッチ面はあった?

柴田 ありましたよ。僕はマジメな学生だったので見ないようにしてました。

―ホントですか?

柴田 いや、見てたかもしれない(笑)。でも奥手だったし、あまり…。中京スポーツは、プロレスは載っているし、野球は載っているし、芸能はある、エロはある。写真は大きいし、見出しは派手だし、今まで知っていたスポーツ紙とは全然概念が違うというか、こんな面白い新聞があるのか!と衝撃でしたね。僕は子供の頃から新聞記者に憧れていたんです。

―そして大学入学のために上京し、1982年に憧れの東スポに入社しました。

柴田 当時は第一運動部が野球、第二運動部が野球以外を扱っていて、僕は第二運動部に配属され、運よく最初からプロレス担当になりました。第一と第二、どちらが一面を取るんだという競合があって、活気がありましたね。プロレス担当の中でも、新日本と全日本、どっちが面白いかとかね。

とにかく一面を取ること。海外出張に行ったら一面を作るまで帰ってくるなという空気があった。海外で僕はアントニオ猪木と天龍源一郎を引き合わせたりもした。会わせるにしても、どっちを先に待たせておくかとか、お互いの格を尊重しなきゃいけない。そういう意味で、汗かき恥かき走り回って、それが一面を飾った時の喜びは大きかったですね。

―柴田さんの最初の一面はどんな記事だったんですか?

柴田 それがよく覚えていない(笑)。一面を狙っている時は、他社の記者から「おまえ、今日顔つきが違うな、一面か?」と言われてました。試合以外にもネタがないと一面は狙えない。誰よりも先に会場に入って選手に話を聞いたりとか、試合が始まる前に仕込みが終わってないとダメだというのがありましたね。

そして一面を取る時は、どんな試合になろうが「この書き出しで行く」と決めておいてから原稿を書く。「戦慄が走った!」とか「虹が見えた!」とか。いろいろ工夫はしました。

スクープ報道は裏方の人たちから

“千のネクタイを持つ男”の異名を持つ柴田さん。夏らしいスイカ柄が爽やかだ

―そのためには日頃からレスラーたちと人間関係を作っておくことが大事?

柴田 レスラーもそうだし、裏方さんたちとも。彼らは選手たちと仲がいいじゃないですか。そういう人たちともできるだけ会話をして「なんか面白いことない?」と聞いたり。たとえば、故・三沢光晴さんの結婚スクープとか、裏方の人たちから耳にすることが多い。選手たちは自分からは記者に直接言いにくいことを彼らに伝えて、漏らしてくれたりするんです。

そういう関係は大事ですね。よく選手に近づき過ぎると書けなくなると言う人もいるけど、僕は相手の懐(ふところ)に踏み込んでいって、でも書く時は書く。

―巡業にも全部ついていくんですか?

柴田 全部ではないですけど途中で交代しながら、長い時は一ヵ月間くらいずっと出張してましたね。多い時は年間200~250日くらい。オフの時も道場に行って選手と話したり。ほとんど会社にはいなかったですね。かつて、東スポは『ザ・プロレス』という週刊のタブロイド版を出していて、売りのひとつが海外事情だったんです。僕は第一号の特派員に選ばれて、アメリカ各地を回りました。

マサ斎藤さんの“出所”にも立ち会いましたよ。マサさんは酒場での暴行事件に巻き込まれて収監されていたんです。面白かったのは、写真を現地のAP通信から日本に電送する時、APの人が「この写真がいい」と選んでくれたのが、でっかいキャデラックのハンドルを握るマサさんの姿。「車っていうのは自由の象徴だ」というわけ。

海外ではいろんなカルチャーショックを受けましたね。90年のイタリアW杯、92年のバルセロナ五輪に行ったり、猪木さんと一緒にイラクや北朝鮮にも行けた。東スポには貴重な経験をさせてもらいました。

―東スポならではの、デスクからのムチャぶりとかありましたか?

柴田 ジャガー横田がメキシコ遠征に行ってた時に、連絡がつかなくなったことがあったんです。デスクが「じゃあ、お前、“失踪”だろう」と。そういう原稿を書いて、その後たまたまメキシコ出張があって横田に会ったら「私、失踪してません!」って怒られた(笑)。先に見出しがあって、それに合わせた原稿を書くということはありましたね。

―心苦しい仕事ですね(笑)。

柴田 小橋建太が独身だった時に、女性タレントと紙上お見合いをさせろとかね。これは流れちゃったんですけど、当時すでに今の奥さんと付き合っていたらしいです。あと、小橋といえば「特訓シリーズ」がありましたね。

―ゲームセンターでパンチングマシンをラリアットでぶっ壊したりとか、よくやってましたね(笑)。

柴田 「あわや乳首切断」というのもありました。札幌の市場で、小橋が上半身裸になり巨大なタラバガニをダンベル代わりにトレーニングしてたら、怒ったカニにハサミで胸を挟まれたんです。あの時は僕はデスクで、写真を見て「乳首切断」の見出しを考えた。現場にいないからこそトンデモナイ発想が出てくるということもありますね。

前田日明に喰らわされ「ホントに死ぬと思った」

―レスラーの結婚スクープは東スポの専売特許みたいな部分もありますよね?

柴田 他紙に抜かれたらバカだ、それこそ他部署に飛ばされてもしょうがないという意識でやってました。高田延彦と向井亜紀さんが交際していることはみんな知っていたんですよ、公表するのは時間の問題で。僕はずっと前から高田に「その時は頼むよ」と言っていて、高田が約束を守ってくれたんです。

今はレスラーの結婚も、相手の顔も名前も出さないっていうのが増えちゃいましたけど、レスラーは公人で、公人の奥様になる人なんだから一回は出てほしいなと僕は思いますけど…個人情報保護とか時代の流れもありますからね。中邑真輔なんかも東スポが結婚スクープ記事出しましたけど、似顔絵しか出せなかった。それだと一面にはならないんです。

―『東京スポーツ青春物語』を読んで驚いたのは、旧UWF時代の前田日明から受けた暴行事件です。

柴田 あれは恐かったですよ。前田が記事に激怒して僕に向かってきたんですけど、誤解なんです。しかも僕が書いた記事ではないし、悪い記事ではない。「前田のスープレックスはすごい」と書いてあるのを「前田はスープレックスしかできない」と勘違いしたらしい。

プレスルームに前田がわめきながら来て、僕も若かったんで向かっていっちゃったんです。蹴りを食らって、気づいたら前歯が二本飛んでいました。

―「前田、本紙記者暴行!」と記事にはしなかったんですか?

柴田 今思えば記事にしてもよかったですが、前田は将来のプロレス界を背負う選手で、大事に育てたいというのがあったし。僕は同い年で仲良くしてたつもりだったんですけど(苦笑)。この話には後日談があって、UWFは治療費を払い、僕とカメラマンをグアムキャンプに招待してくれたんです。

プールサイドにいたら、また前田が叫びながら突進してくる。もちろんジョークなんですけど。じゃれあっていて、僕をプールの中に投げようと抱きかかえて、足を滑らせてそのままドーンと床の上に落ちた時はホントに「死ぬ」と。両親の顔とかこれまでの人生が走馬灯のように回りました。周りで見ていた人たちもみんな「ヤバイ」と思ったらしいです。

―ケガはなかったんですか?

柴田 頭も打ったんですけど、幸いにもケガはなかった。前田が言うには「落ちる瞬間に俺がとっさに腕を入れて守ってやったから助かったんだ」と。その後、またプールに投げられました(笑)。前田とは学生時代からの友人みたいな感じですね。今も会えばポンポンと腹にパンチを入れてきますよ。

昔はもっとギラギラした記者が多かった

―他に暴行事件といえば、タイガー・ジェット・シンですか。

柴田 入社して初めての社外取材がシンだったんです。会場以外で手を出してくるわけはないだろうと思ってましたが、彼の本当の恐ろしさを知らなかったんですね。来日したシンに成田空港で「How do you do?」と手を出した瞬間に蹴られた。くるくるとロビーを転がりました(笑)。シンに痛い目に遭わされるのは、当時のプロレス記者みんなが受ける洗礼ですよ。

それから仲良くなって、よくカナダから電話をもらいました。インドなまりの英語とこちらの下手な英語で何を話しているかよくわからないんだけど(笑)。シンは地元の名士で「●●市の名誉市民になったから書いてくれ」とか「今度日本に行くから(筑波で営業している)カレー屋に来い」とか。シンもすっかりいい人になったとはいえ、「写真を撮るから首を絞めてくれ」と頼むと目の色が変わっちゃうんですよ。

―“インドの狂虎”は健在! 柴田さんがそんなバリバリの現場記者だった頃と比べ、今の東スポはどう変わりました?

柴田 昔はもっとギラギラしている人が多かったと思います。もちろん今もいますけど、時代の流れもありますよね。だって今は「8時間労働」とか「公休を消化しなきゃいけない」とか…僕らが入った頃は、休みはなくて当たり前、タイムカードもなかったし。

―プロレスの巡業に同行してたら、労働基準を守るなんて無理ですよね?

柴田 無理ですね。デスク時代は習志野に住んでいたんですが、毎晩一時間かけて深夜帰宅するのがイヤになって、会社の近くに引っ越したんですよ。生活は楽になったけど、ますます体はおかしくなっちゃった。歩かないから。

―なるほど…ご自宅、東スポの近くなんですか。

柴田 退社したからって引っ越せないので、どこ行くにも会社の前を通って行かないといけない。元同僚に会っちゃったりとか、ツライ時もあります(苦笑)。

―切ないですね…。そもそも退社の理由は?

柴田 時代の流れもあって、東スポの中でプロレスの扱いが小さくなっているのは事実なので、新たなステージに上がってプロレスにもっとどっぷり浸かりたいと思ったんです。

―本当にそれが理由なんですか? 本を出したのが5月で、翌月に退社されてますけど…。

柴田 本を出した時点では、辞めるなんて毛頭思ってませんでしたけど(苦笑)。まあ、組織なのでいろいろあって…今後はプロレス解説者として、プロレスの奥深さ、レスラーの魅力を喋って書いて、皆さんにお届けしていきたいですね!

■柴田惣一(しばた・そういち)1958年生まれ、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、82年に東京スポーツ入社。第二運動部長、web編集長などを歴任し、今年6月に退社。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』やサムライTVでプロレス解説者としても活躍中。

(取材・文・写真/中込勇気)

■『東京スポーツ青春物語 大事なことはプロレスから学んだ』柴田惣一著 飛鳥新社本体1500円+税