「沈没した船から私は助かり、従妹は暗い海に飲み込まれた。今でも自分だけが生き残ったという罪の意識が私を苦しめています」と語る、平良啓子さん(80歳)

戦後70年の沖縄の夏、名護市辺野古の米軍基地建設現場には不自由な体を押して座り込む「おじい」「おばあ」の姿があったーー。

なぜ、彼らはそこまでして抗議を続けるのか。その中にいる多くの戦争体験者が抱く強い思い、エネルギーの源泉となる沖縄戦とはなんだったのか?

1945年3月に始まり、米軍が凄まじい戦力で進攻する中、3ヵ月以上続いた無謀な戦いで県民の4人にひとり、12万人以上が亡くなった。

そこで起こったことに戦後70年の今、体験者の証言から思いを馳せてほしい。

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毎週月曜日、「大宜味村(おおぎみそん)憲法九条を守る会」が、オスプレイも使えるヘリパッド6基を建設中の東村高江へ座り込みに来る。この会のメンバーに「対馬丸」の生き残り、平良(たいら)啓子さんがいる。

日本政府は1944年7月、沖縄戦の足手まといになると考え、沖縄の高齢者や子供計10万人を船で疎開させる計画を決定。しかし、すでに制海権は米軍に奪われ、この時期に海に出ることは米潜水艦の魚雷の餌食になる危険が高かった。

国民学校(小学校)の児童800人以上が乗った対馬丸は、那覇港を44年8月21日に出港した。啓子さん(当時9歳)は家族と、従妹(いとこ)で同級生のトキコさんの6人で乗り込んだ。翌22日午後10時過ぎ、米潜水艦の魚雷が命中し、対馬丸は沈没。1800人近くの乗船者のうち約1500人が亡くなった。正確な犠牲者数は今もわからないが、児童の生存率は7%といわれている。

啓子さんは国頭村安波(くにがみそんあは)に生まれた。

「陸の孤島のような寒村で、薪を集めたり炭焼きをしたり、あとは漁業。ほとんど自給自足の村でした。父は私が4歳の時に東京に出稼ぎに行き、長男も父を追って東京に働きに行っていました。家には祖母と母、8歳上の姉と小学校6年生の次兄、2歳下の妹、5歳下の弟がいました。

小学校の時は勉強より家の手伝いのほうが大事でした。母が豆腐を作って売っていて、毎朝3時に起きて浜に海水を汲みに行くのが私の仕事でした。海水を豆腐を固めるための『にがり』として使うんです。冬もはだしで、冷たくてとても大変でした。ヤギや鶏の世話も私の仕事でした」

当然、家で勉強する時間はない。その分、「学校では一生懸命、勉強しまたよ」。小学4年生の頃、兄が『教育勅語』を声に出して読んでいるのを横で聞きながら、先に覚えてしまったこともあるという。そんな啓子さんを戦争は巻き込んでいく。

村で本土疎開の話し合いが行なわれたのは1944年7月だった。「沖縄玉砕」の可能性があるので、小さな子供たちは本土へ避難させようというのだ。

「疎開は強制的で、国から何人出しなさいと命令があったっていいます。まず、本土に親類のある家庭から行かせることになりました。私は本土への強い憧れもあって、正直、行きたかった。学校で『ちらちらこゆき』という歌は歌っていても、実際に雪を見たことはなかったから、雪が降るのを見てみたかったんです。

わが家からは祖母、長兄の許嫁(いいなずけ)、姉、6年生の次兄と私が行くことになりました。それを知った同級生で従妹のトキコが『一緒に行きたい』と言い出して、トキコの親を困らせていました。『おまえは啓子と同じ家族ではない』とさんざんしかっても聞かない。最後は『勝手にせえっ』と親のほうが根負けしました。

でも、私たちについてきたばっかりに、トキコはもう帰ってくることはないんです

「怖いよ、怖いよ、兵隊さん助けて…」

疎開に行く時は母親が村の外れまで見送ってくれた。4歳の弟をおんぶし、7歳の妹の手を引いて。

「別れる時、『来年3月にはきっと会えるからね。辛抱するんだよ。我慢するんだよ』って母が大きな声で言っていました。那覇に着いたのは1944年8月20日。次の日の午後6時過ぎに対馬丸は出港しました。ほかにも2隻の疎開船と、護衛のために軍艦が2隻ついていました。

対馬丸は貨物船ですから、みんな荷物のように押し込められてギュウギュウ詰め。それでも那覇市の学童たちはワイワイ、ワイワイしてましたよ。その日は眠ったかどうかも覚えてないですね。ただ、とにかく臭いし狭い。その船は北京から繭を載せて運んでいる途中だったんですよ。落下傘なんかを作る材料です。それを日本に持っていくついでに、私たちを乗せたって聞きました。

22日になると台風15号が発生して、あんまり暑いから甲板に出てみたら、護衛艦がいなくなっていたんです。全部で5隻の船団だったのに対馬丸だけなんです。後ろを眺めても沖縄の島はもう見えなくなっていて、トキコと『寂しくなったねぇ』って言い合いました。『お母さんに会いたくなったさ』って。ふたりとも4年生だから、まだ母親が恋しくなって、『来なければよかったねぇ』と、ふたりでこんな話をコソコソ言っていました」

船底に戻った啓子さんは、様子が変わっていることに気づく。

「みんなが浮き袋をつけて集まってるんですよ。ほかの4隻はアメリカの潜水艦が後ろからついてきているのを知って、慌てて逃げたって。だけど対馬丸はボロで遅いから、狙われてるって。ボーフィン号というアメリカの潜水艦に。もう初めからレーダーに映っていたみたいで。それから船底で私の家族と、安波の人みんなと一緒にまとまってジッとしていました。私とトキコは、おばあちゃんの腿を枕にして寝てしまいました。すごく疲れていたので、そんな状況でも熟睡でした。

で、夜の10時12分かな、魚雷が当たってボーン!ボーン!と大きな音がして目が覚めました。もう船はふたつに割れていて、爆発で人々はみんな飛び散って、燃えて、ワーワーワーワー大騒ぎで、夢なのか幻なのかわかりませんでした。『おばあちゃん、おねえちゃん』って必死に呼んでも、私のそばにいた家族が誰ひとりいないんです。

那覇市内の子供たちは船首のほうで『怖いよ、怖いよ、おばちゃん助けて。兵隊さん助けて。先生はどこにいるの!?』って、ワァーワァーワァーワァー泣いていました。

真っ暗なんですよ、真っ暗。10時12分ですから。空は曇っていて、月も出てません。星の明かりもまったくない。ただ、船が燃えているから、火の周りだけは見えるんです。火の中を『怖いよ、怖いよ』って逃げ回ってる子供がいっぱいいました。それを、兵隊さんがみんなつかまえて海に投げているんです。海のほうに、どんどん。投げられた子供たちが生き延びたかどうかはわかりません。あの深い、波の荒いところに投げられたんですから」

半年ぶりに帰郷。「あんただけ帰ってきたの?」

その時、遠くから「啓子、トキコ、早く飛び込め、危ないよ」と、次兄の声が聞こえてきた。

「でも、早く飛び込めどころじゃないんですよ。船はもう沈んでるんです。私は重油がポコポコ浮いている、その中にいるんです。油が鼻やのどに詰まって死んだ人も多かったようです。私は口を閉じてアップアップしていたら、醤油(しょうゆ)樽が流れてきて、それを引き寄せて、しがみつきました。浮かんで、少し楽になりました。

でも、どっちへ逃げれば助かるのかもわからないんです。そこに大波がバァーっとやって来て、女の子が波から飛び出してきたんです。私にぶつかって、びっくりしてつかまえ、よく見たらトキコなんです。『トキコじゃないの!』って言ったら、トキコが『怖いよ、怖いよ、どうすればいいの、どうしたらいいの!? 怖い、怖い』って。

ふたりで醤油樽を抱えて浮いていると、また大波がボォーンとぶつかってきて…。その時にトキコは手を放してしまったようなんです。そして、海の中に引きずり込まれてしまいました。やっと見つけたトキコが、波にさらわれて行ってしまった。

暗い海のそこいら中で、助けを求める叫び声や泣き声が響いていました。私はひとりで必死に泳ぎ、対馬丸に積まれていた救助の筏(いかだ)に乗ることができました。それから6日間漂流して、奄美大島の無人島・枝手久島(えだてくじま)に漂着したんです。わが家で亡くなったのは祖母と次兄。兄の許嫁と姉は救助船に助けられ鹿児島に上陸し、父と兄のいる東京に行きました」

啓子さんが国頭村安波に戻ったのは、半年後の1945年2月末のことだった。

「トキコのお母さんにこう言われました。『あんたは帰ってきたの?』『うちのトキコは太平洋に置いてきたの?

私が殺したように聞こえるんですよね。トキコの兄弟は対馬丸に乗らなかったから、みんな健在です。だから、すごく心が痛いんです。だけど、トキコのお姉さんが『啓子、あんたのせいじゃないよ。これは運だから、うちのお母さんがあんなこと言っても気にしないでいいから』と言って慰めてくれたから、少しは気が楽にはなりました。

戦争って、生き残った者にもこんな思いをさせるんです。

私も犯人です。戦争を起こしたのは国だから自分は被害者だと思っていたけど、加害者でもあったのか? そういうふうに思うことがあるんです。

3月下旬になると、村でも空襲が始まりました。それで母と私、7歳の妹と4歳の弟の4人は、村から5㎞くらい離れた山奥の避難小屋に、食べ物を持って逃げました。塩も味噌も油もみんな陶器の壺に入れてあるから重いんですよ。

それをカゴに入れて、暗い山道を転びながら歩いて避難しました。途中、敵の飛行機が飛んでくると、陰に隠れながら歩いていくんです。そのとき思わず口から出たのが、『お母さん、海で流されるより苦しい』って。後ろからは、上陸してきた米軍がパンパン撃ってくるし。早く逃げないと、やられるし。海よりも怖いって。

その後、母がマラリアにかかって、熱が出てブルブル震えだしました。それを治さないといけないし、食料確保も私にかかってきて、朝の暗いうちから村に降りてイモを探したりしました。もう空襲で私の家は全焼でした。豚もヤギも、みんな機銃で殺されていて、畑にも爆弾が落ちていて。幸い、父と母が前の年の秋に椎の実をいっぱい拾って保存してあったんです。それを食べました。たぶん煮たんだと思います」

戦争の後遺症は、消えてくれない…

ある日、避難小屋にいた啓子さんたちは村人から、上陸してきた米兵が「皆さん出てこい、出てこい。捕虜にする」と言っていると聞かされた。捕虜になれば、アメリカの上陸用舟艇に乗せられて、どこかの村に運ばれるらしかった。

「でも母は『啓子は船に乗せない』って。『船(対馬丸)に乗ってやられながらも生きて帰ってきたのに、また船に乗せれば、太平洋にこぼされる』って。それで私たち家族は捕虜になることを拒否して、さらに山奥の避難小屋や岩陰に逃げることにしたんです。

私たちのように山奥に避難した人は他にもいました。途中でお産をする人もいました。産婆さんなんていませんから、自分ひとりで産んで。それを私は横目で見ていたから覚えています。でも赤ちゃんは亡くなりました…。

その頃、村では若い女性は顔に鍋の煤(すす)を塗って、髪の毛もバサバサにし、わざとボロを着ていたそうです。米兵に捕まったら強姦(ごうかん)されると思っていましたから。私たちは山の中で隠れて逃げ回っていたので、それは村に戻ってから聞いた話ですが。

村にペルー帰りのおじさんがいたんですよ。スペイン語で米兵と話をして『米軍は殺しはしない。他の村に連れていくだけだ。安心しなさい』と言ってるって。それで安心して、捕虜になって船に乗っていった人もいました」

啓子さんの一家は山道をさらに歩き、親戚を頼って辺土名(へんとな)に避難した。

「母のマラリアもようやく治って、熱も下がったので、私は食料を探しに村に戻りました。なんとか畑でイモを見つけると、弟や妹や母に食べさせました。片道18㎞、往復で36㎞です。でも、とうとうイモもなくなって、もう食べるものがない。弟が泣いてね。栄養失調で、痩せているのにおなかが膨れはじめました。肌は真っ黒になって目も垂れてきた。餓死寸前なのに、私は心配するしかできないんです。

そうしたら、村のおばさんが『カエルでもトンボでもセミでも捕って食べさせないと』って言うから、カエルを捕まえました。おなかを割いて、洗って、串に刺して焼いて。弟と妹が『汚い、汚い、怖い、ダメ』って言って泣き出したけど、『これ食べんと死ぬんだよ』って言って食べさせたんですよ。母も妹も私も食べて。でも食べ慣れたらおいしいんですよね。

弟もよく食べるようになって『カエル、日が暮れたら、よくあっちに出てくるよ』って教えてくれるんです。トンボも捕りました。セミも鳴いているのを、木に登っていってパチッと。それを焼いて食べさせて、それでみんななんとか元気になって村に帰りました」

すでに村は全部焼かれ、家もない。隣近所で力を合わせてかやぶきの小屋を作り、そこに住むようになった。

「母は生前『啓子がいなかったら生きていなかった』とよく言っていました…」

啓子さんは戦後、代用教員になり、その後、通信教育で琉球大学、玉川学園大学を卒業し、教員免許を取得する。教師の道を選んだのは、戦争中の軍国主義教育がいかに怖いものであったかが身に染みていたからだ。

「これからは平和な国になるんだ。そのためには子供たちの教育が大事だ」という思いからだった。

「トキコの母に言われた『トキコは太平洋に置いてきたの?』という言葉が今も心に引っかかっています。自分だけが生き残ってしまった。生き残ったところで、嬉しくもない…。そう思わせてしまう戦争の後遺症は消えてくれません。

同じ苦しみを子供たちに体験させたくない。だから、どこへでも出かけて子供たちに平和の語りをしています。これは私の使命です。二度と戦争を起こしてはいけない。戦争のための基地は絶対造らせない。そのために高江に行くんです」

●発売中の『週刊プレイボーイ』36号ではシリーズ中編「沖縄のおじい、伊佐真三郞さんが語る『沖縄戦・最後の証言』」を掲載、是非お読み下さい!

(取材・文・撮影/森住卓)