収録現場のトイレでビンタの焼き入れ!も「青春ドラマを地でみんながやってる感じ」だったと懐かしむ三田さん

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

前回の高橋ひとみさんからご紹介いただいた第10回ゲストは、女優・タレントの三田寛子さん。

歌手活動やドラマ、バラエティーと大活躍だった80年代黄金期のアイドル時代。『セブンティーン』の応募から人生が180度変わったという、中3の夏からデビューまでのエピソードを先週は語っていただいたが…。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

―それで、この芸能界の道が開けたってなったら、もう迷いなく?

三田 それでも半信半疑ですよ。ほんとに私かなあ?みたいな。東京行く時も中学校の卒業式の日に急に撮影が入って、帰ってくる予定でそのままバイバイーって卒業証書を持ちながらホームから駆け足で飛び乗って、すぐ撮影。それで帰してくれるって言ったのに、いきなり寮にぼんって入れられて。

朝早く起きて勉強して、コツコツ学校行ってって典型的な真面目少女だったのに、それが朝6時に起きてね、7時集合でドラマの撮影とか全く新しい生活が始まって。

―でも飛び込んだのは華やかで興味津々な世界だし、忙しいとはいえ、嫌になったりとかネガティブな気持ちはなかった?

三田 全くなかったんですよね。だってスイッチ入っちゃいましたから。恐れのおの字もない、ホームシックにもかからない、もう目の前しか夢中で見えないスイッチが入っちゃって。だから私が親だったらって今思うと、生真面目で実直な父と母だったのでどれだけ心配してね。切々と手紙くれたのを大事にとってあるんですけど、私は能天気で大丈夫!みたいな返事で。

でも最初のひと月で電話料金が6万円いっちゃったんです! ホームシックにかかってないつもりとはいえ、やっぱりまだ15歳ですから親の声を聞きたかったのかな。それをお給料から毎月引かれて、わかんないでかけてるからヤバいっていうんで寮においてあった電話がピンク電話になったんです(笑)。

―懐かしの公衆電話ですね(笑)。

三田 一緒に住んでるルームメイトのお姉さんも大阪で、だから順番にかけるわけですよ。ふたりで暇さえあれば銀行に行って10円玉に両替してきて。でもいっぱいになっちゃうとかからなくなるんで、事務所の人がガラガラって10円玉を出してくれて(笑)。

―なんかイイ話です(笑)。昭和の健気な時代感が…。

三田 携帯がないんですから。今のお子さんは海外行ってもLINEとかでね。でも本当、寮でその3つ上のお姉さんと一緒だったんで、帰ってもずっと関西弁で仲良くしてもらえて。外で結構気を張ってドキドキして戦って、帰ると関西弁でフニャーっと癒やされて。だから環境というか本当に人に恵まれたんですよね。

「青春ドラマを地でみんながやってる感じ」

―三田さんのキャラももちろんでしょうが、やはり巡り合わせの運も。

三田 最初、オーディションの時も「なんだよ、おまえ」みたいなことをディレクターに言われて、あ、これ落ちたっていうくらい怒鳴られて。なまっちゃうから、ちゃんとセリフも言えないで受けにきたのかって怒られて。そしたら重森(孝子、脚本家)先生が「ま、いいんじゃない、京都弁でやれば?」って。それで京都から来た女のコっていう設定で『仙八先生』もやって、京都弁でやったのが逆に目立っちゃったんですよ。

でもいざ撮影に入ると東京のね、カッコいい都会のコ達に囲まれて、やっぱりなまっちゃってドキドキするし、芝居もしたことなくて右も左もわからないし。当時、(松田)聖子さんブームだったんで京都弁を“ブリッコ”とか言われて、今はもう笑い話ですけど、トイレに呼ばれて「あんた、ブリッコしてるんじゃないわよ!」って年下の女のコに頬っぺたつねられて、怖いーみたいな(笑)。

―それこそ、ドラマか少女漫画のような(苦笑)。

三田 でも、そのトイレ出てくると男のコたちが「おまえ、三田のことイジめんじゃねーよ」って言ってくれたりするんですよ。かばってくれるもんだから、ふざけんじゃないわよってまた第2弾とかになっちゃうの(笑)。

でも青春でしたから。結構うぇーんとか泣いたりしてても、怒ったり、笑ったり、もう青春ドラマを地でみんながやってる感じで。しょっちゅうスタッフにも呼ばれて怒られて、楽しかったです。それからそのコ達も仲良くなって、覚えてる?って後で言ったら「え、ごめん、覚えてなーい」「いいのいいの、若気の至りでしょ? 気持ちはわかるよ」とか。

当時、みんなは戦いみたいな。私なんか能天気に東京来ただけで嬉しい人と、子役でずーっと日の目を見ようって頑張ってやっと受かってっていうのと違うし。返ってそういうことがあって私も頑張んなきゃ、いろんな風に自分を見てる人がいるんだって勉強にもなって。逆に感謝してるよって。

―そこで折れないで切り替えられる性格もやはり向いてたんでしょうね。

三田 芸能界そのものが合う合わないっていうよりも、最初に1年間学園ドラマをやって修行みたいな。もちろん演技の勉強もさせていただけたし、人間関係の勉強もしたし、スタッフの方も1年間一緒で家族みたいな。「バカやろう! 本当になんにもわかってねえな」って、もう怒鳴られて毎日勉強でしたね。

―ほんと徒弟制度の丁稚のような(笑)。

三田 だからお茶汲みもやったし…。先生役の宮崎美子さんが半年で先にお辞めになる時に、ひとりひとりお手紙をくださったんですよ。私には「教養は人の身を必ず助けます。だから頑張って高校卒業してね」って書いてあって。

よくご相談してたんです。撮影しながら高校が出席日数とか大変で、半分めげてて。結構同世代に辞めちゃう人もいたし、辞めたほうが楽かな、もっと演技とかお仕事にプラスになる勉強をして、どこかで学校を辞めたほうが…ってご相談をしてたせいもあって。

「5年かかって20歳の時に卒業だった」

―それで励ましの言葉を? 本当の先生みたいですね。

三田 宮崎さんも、熊本大学でしたっけ、卒業してすぐこちらに上京して女優さんとして第1線をもうずーっとやられた方なので。そういう先輩にそういう言葉をいただいて、親とは一応、高校卒業するというのは約束して出てきたんですけど、ちょっと揺らいでた時で。そっか、やっぱり何はともあれ勉強も仕事なんだからやろうと思って。

転校を繰り返して、5年かかって20歳の時に卒業だったんです。それも卒業式の日には卒業証書もらえなくて、その後、毎日図書館で勉強して単位足して。最後3月の月末に図書館でおめでとう!って担任の先生とかそこにいた友達がみんな拍手してくれて、ありがとうって言いながら卒業証書もらって卒業したんですよ。

―それが自分の意地でもあり、手紙の言葉を支えにして…。

三田 だから結構ぶれないんですよ、私。大学は落ちましたけど…。それもね、大学の発表の日が『今夜は最高!』のゲストだったんです。大好きだった中村雅俊さんと、タモリさんの番組で私はバニーガールの格好して。「寛子、どうだ、今日発表だろ?」とか(笑)。ダメかもしれないって言ってたら、案の定ダメだった(笑)。

―それもネタになってたとは(笑)。でもやっぱり大学まで行きたいって気持ちはあったんですね。

三田 うん、勉強をここまで頑張れるなら志そうかなあと。そしたら当時フォーカスされて。試験の合間に。

―ありましたねえ、写真週刊誌も全盛で。やっぱりそれは話題になりますから。

三田 その時持ってた指輪が、なんかわかんない、ころん、ころん、ころんって落ちて。落ちた―って言った瞬間にもうパチパチパチって撮られて。ああ、やっちゃったって(笑)。周りの方に迷惑かけるし、受かったらいいけど、落ちたら嫌だなあと思ったら載せられて。なんだかもう散々でしたけど。

でも全てが自分の実となり、肉となり、一期一会でいろんな方と交わって。大学も経験だし、受けたことも落ちたことも。女優をやる上において、生きてることそのものがすべて血となり肉となり経験なんだなあって。

よく役者っていうのは素晴らしいよとか、一生続けられるわよって先輩の女優さんから言っていただいて。若い時は焦るし、下手だからできないかもとかいろいろあったんですけど。歳と共に結婚して母となり、もう50を目の前にすると、あ、やっぱりいろんな味わい深い経験が、上手いとか下手とかじゃなくて、やっぱりリアルに自分の命を吹き込むんだって思えるようになりましたね。

―あれよあれよとこの世界に入り、その当時は考えも及ばなかったことが?

三田 女優としての命を吹き込むって、昔10代の時に言われてわからなかったのが最近すごくわかるっていうか、ちょっと感じられる。だから50代は少し女優業も復活したいなあと思って、家族には言ってるんですけど。有言実行なんで、とにかく言えば何か頑張れそうな気がするっていうのが私の割とぶれない自信なんです。

「教授の生演奏で歌ってるって…気絶しそうな」

―すごい一気にそこまで宣言されて。この語りもまとめみたいになってますけど(笑)。

三田 えー、本当に?(笑) いや、まだ大丈夫ですよ~。

―あはは、ではその途中の話ももう少し。でもほんとトントン拍子でアイドルの座を駆け上がって、歌手としての仕事もありレッスンとかで遊びに行く余裕もなかったとか。

三田 そう、やらなきゃいけないっていうか…選んでる余裕とか、そんな偉そうなことできなかったですね。なんでもくる仕事は頑張ります!みたいな。

だからよく生きてたなと。もう本当に朝から撮影して、途中から学校が夜学だったので夕方行って、終わったらマネージャーさんが迎えにきて、その足でレコーディングに行くんです。夜中の3時、4時まで。日が明けてからディレクターさんに寮まで送ってもらって、それでまた朝仕事行く前に台本覚えて。全く寝てない日もあったし。でもやっぱり神経がずっとテンション高くて、どうにかできて。

ただ、なんで夜中にレコーディングなんですかって聞いた時に「山口百恵さんのように1テイクでOKとれる歌手になってみろ」って。おまえみたいな下手くそ、スタジオでどんだけ時間かかると思ってるんだよって言われて、夜中の料金が下がった時にしかレコーディングができないんだ!みたいな(笑)。

―それもリアルですね(苦笑)。

三田 作詞家とか作曲家の先生が最初来てくださるような時は一口坂とかソニーの市ヶ谷のスタジオなんですけど、本テイクは全部、中野の小っちゃーい地下のスタジオで細々と何時間もかけて。でもそれでスタジオミュージシャンの方と仲良くなったりして。

だから私の『駈けてきた処女』はよく聴いてみてください、素晴らしいメンバーなんです! 松原(正樹)さんがギターで、あのサビのとこから間奏の今剛さんのギター! もう今ね、そこだけ耳をたてて、私の歌は消して、楽曲として聴いていただくと素晴らしいんです。安藤芳彦さんがディレクターで、斉藤ノブさんとかPARACHUTEのメンバーが全部やってくださって。アイドルにしたらもう本当にすごいんだよ!って言われて。楽しかったです、レコーディングは。

―当時、「処女」で“おとめ”と呼ばせるのもぶったまげましたが、改めて作詞、作曲見たらスゴくて。阿木燿子(ようこ)さんに井上陽水さんという…。

三田 だからいかに歌手の力不足かっていうことが(笑)。もう反省だけで申し訳ないです。

―セカンドも坂本龍一さんが編曲で入ってたり、その後も中島みゆきさんが作詞作曲で提供してたりとほんとスゴいですよね。

三田 (坂本)教授はレコーディングにも来てくださって。もう下手くそ過ぎて、お目にかかるのだって、楽曲作っていただいたのだって夢のような話なのに、スタジオに来て練習しましょうって言って。教授の生演奏で歌ってるっていうのだけで、私、気絶しそうなぐらい。それこそ『駈けてきた処女』の時も陽水さんが来て、やってくださったし。それだけで私、もう死んでもいいですみたいな(笑)。

「中村敦子、『駆け抜けた処女』歌います!」

―だからどれだけ力入れられていたのかという…。

三田 なのに歌が下手だった(苦笑)。まだレコーディングはいいんですよ、一生懸命。TVで歌うのが、すこぶるダメで。『駈けてきた処女』の、駆け出しましょうの”け”が、音が届いたことは多分ほとんどない。いつもひっくり返っちゃってダメだったの。今歌えばもうちょっと上手く歌えるんだけど(笑)。

―それもまた味というか個性ということで(笑)。でもカラオケで歌ったりは…。

三田 年に何回か、保護者会の後のパーティーとか。子供は私が歌手って認識ないので、歌ってとか言われないですけど、友達がね。拒否はしませんけど、知らない若いお母さんもいっぱいいるし、場が盛り下がっちゃいけないから。歌う時は「中村敦子、『駆け抜けた処女』歌います!」とか言って思いっきり歌います(笑)。

―自分の曲以外でも、意外とカラオケだったら結構歌えるのにとか?

三田 ほんと、私の時はまだボックスの走りで。きっとカラオケの時代に生きてたら、もっとちゃんと練習できて歌えてた(笑)。だって、その頃はカセットテープを部屋で再生して、タイムラグで音ずれるのを聴きながら練習するわけですよ。

それがウォークマンの宣伝もさせていただいてた時、プロデューサーの酒井(政利)さんに「自分の吹き込んだ歌は絶対にヘッドフォンで聴いちゃいけません!」って。上手に聞こえて酔っちゃうから駄目って言われて(笑)。確かにレコーディングとかも最高で、お風呂屋さんで歌ってる居心地で気持ちいいし楽しいんですよね。それが局に行って歌うと音取れなかったり、緊張してるし、目線もカメラ目線でなんて歌えなくて。

―デカいホールで歌うとか、ほんと全然違って難しいらしいですね。

三田 だから、ほんとプロとしては反省点多いんですけど。(中島)みゆきさんの曲なんて、その頃、私もう20歳過ぎて大人なんですね。自分が下手なのにこんな長く歌手をやってて、下手だってわかってて書いてくださってる感謝の気持ちを絶対ちゃんと形にしなきゃと思って。やっぱりレコーディング来てくださった時は一生懸命歌ったんですけど。もう生とかでは下手クソ過ぎてダメ(苦笑)。

―さて、お話は尽きず…。梨園の妻としての今も是非伺いたい、ということで『語っていいとも!』初の再延長! 次週も三田さんとの語りでいいかな? いいともーー!

●この続きは次週、9月13日(日)12時に配信予定!

●三田寛子(みた・ひろこ)1966年生まれ、京都府出身。14歳の時、雑誌『セブンティーン』に応募し、モデルデビュー、1981年に『2年B組仙八先生』の生徒役でドラマデ ビュー、82年に「駈けてきた処女(おとめ)」で歌手デビューを果たすなど80年代のシンデレラガールとして駆け抜けてきた。その後、CMや数多くのドラ マに出演し、バラエティ番組でのレギュラーや情報番組の司会など多方面で活躍。1991年に歌舞伎俳優の中村橋之助と結婚、現在は梨園の妻として、また未 来の歌舞伎役者でもある3児の男児の母としての生活を中心に活動を続ける

(撮影/塔下智士)