梨園の妻としての現在まで語ってくれた三田寛子さん

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

前回の高橋ひとみさんからご紹介いただいた第10回ゲストは、女優・タレントの三田寛子さん。

『セブンティーン』の応募から人生が180度変わったという、中3の夏からデビューまで。その後もアイドル全盛期の80年代を駆け抜けたが、歌手活動は本人自ら「歌が下手だった」と先週は赤裸々な告白も…。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

―でもそれで、言葉は悪いですけど見切りをつけたというか。やっぱり女優のほうでとなったんですかね。

三田 そうですね。元々、宝塚が好きだったからお芝居やってミュージカルもやりたいし。歌もお芝居のうちだと思っていたので、逆に重くなっちゃってたんですよね、歌い方が。一生懸命1行1行にぐわって気持ちが入っちゃって、もっとアイドルなんだからニコニコしながら気を楽に楽しみながら歌えばよかったなって。

基本的にはお芝居が好きだったし、女優の仕事は絶対やりたいので。両立もできるけど、やっぱり何か区切りをつけないとって。ただ、お芝居もね、私の1番の問題点はキスもラブシーンもベットシーンも何もかも拒否してたところが女優としてねぇ…。

―それは事務所的にじゃなく自分が嫌だと?

三田 自分が嫌なんです。最初の写真集でも、脱がなくていいから、ここの水着を肩ひも取って枕で隠して、さも着てないみたいな状態にって言われて。それも絶対嫌ですみたいな、もう大喧嘩して。

あれが嫌とか、普段言わないんですけど、殊更その露出度に関してはものすごい恥ずかしくて。やっぱり昔の女のコだから見えるのも嫌で、水着の写真が何より無理って。それこそ『プレイボーイ』さんの撮影とかでTシャツとかタンクトップとかあるわけですよ。もうそれも泣きそうになって。

―バックナンバーでありますねー。あれがギリだったんですか。

三田 カメラマンの方と1時間くらい押し問答があって、もう泣いてもいいから!みたいな。泣いてもやだ、やだ、やだって言って、それじゃちょっとこういうポーズでっていうのを、それも胸が見えるからって、スタイリストさんに両面テープを張ってもらって。

今でも当時のマネージャーさんに会うと「なんで1番、女として売れるキレイな時にチラリズムすらできなかったの?」って(苦笑)。電車の撮影で吊り革持った脇から下着が見えたらどうしようとか、それも両面テープ貼ったり。異常だったんですよね。

―多感なのか繊細なのか…まあ潔癖ですね。ではあれが文字通り、当時の限界ショットだったわけだ。

三田 だから女優としてもね、いけなかったと思いますね。

「生まれて初めてキスシーンを…21歳で」

―あれ…でも僕が高校3年の時に『激愛(激愛・三月までの)』ってド直球の純愛ドラマに主演されて。ラスト、豪雪の中でキスとかなかったでしたっけ…。

三田 全くないんです。あれはだから純愛なんですよ、プラトニックな。

―えーーっ、最後に死ぬ間際になかったですか?

三田 ないんです。雪の中で最後死んじゃうんです、万平さん(草刈正雄)が。『守ってあげたい』ってユーミン(松任谷由実)の曲を歌いながら。キスじゃなかったんですよ、抱きしめられるだけなんです。

―そうでしたか!…是非観直したい(笑)。タイトルがなんたって『激愛』ですからね、プラトニックさはもう強烈でしたが。ビデオ録画もない時代、まんじりともせず全部観てました。主題歌のレコードまで買って(笑)。

三田 わー、私も観ていただけて嬉しいです。あのドラマはオーディションで最後残って選んでいただいて。楽しかったですよ、北海道で2ヵ月かけてロケして。草刈さん筆頭に現場は明るくて、いっつもわいわい、わいわい。スタッフも仲良かったし、スキーもあそこで覚えて。本当いいチームでしたね。

その藤田明二(めいじ)さんっていう監督さんが『ニューヨーク恋物語』でスタッフも皆さん一緒なんですよ。

―そういう縁もちゃんと繋がってるんですね。

三田 本当にいい仕事、スタッフに恵まれていい経験させてもらって。でもそこで、よし、女優の道をやっぱり打破しなきゃって。『ニューヨーク恋物語』で生まれて初めてキスシーンをやったんです、21歳で。

―そこでメモリアルな! それまでのいろんなことが身になって?

三田 高嶋(政宏)クンが初めてのキスシーンの相手で、(田村)正和さんとかみんないる中で彼のところへ行ってチュっとするっていう…もう緊張のあまり気絶しそうな。だって受け身でしてもらうんじゃなくて、自分からするんですよ、全員いるところで。

―あはは、それまでどれだけリアル“駆けてきた処女”だったんですか(笑)。

三田 その前の『君の瞳をタイホする!』でも柳葉敏郎さんのキスシーンしてないんです。その歳でキスシーン拒否するのはどういうことだって、現場でスタッフにめっちゃくちゃ怒られて。それでもできません! それするなら私はもうダメ~みたいな。

それがニューヨークの生活でチームのタッグも良かったし、若手も仲が良くて刺激しあって、みんなでイイ仕事やろうねって熱くなっちゃって。歌もやめる、私はもう女優として生きてくの!ってスイッチが入っちゃったんですよね。

「その時は主人ともう付き合ってたんです」

―そこで本気モードになって生来の一途さに火が付いた?

三田 でも、その時は主人(中村橋之助)ともう付き合ってたんですよ。結婚したいとか言われてたんですけど、そのニューヨークに行ってみんなとの生活が最高に楽しくて、結婚より仕事ってこんなに楽しいの~って(笑)。ついでにキスシーンもやってみればできるじゃ~ん、私もできる、できるって。

―そんな状況だったんですか! 人生の分岐点じゃないですか…。

三田 そう、そこで私、もう結婚してる場合じゃないわよ、今は仕事して、やっぱり勉強!みたいな。それを見て主人が、あれ?結婚早めようかな、やっぱりヤバいって思ったみたいなんです。帰ってきたら、もう畳み込むように婚約になっちゃった。

―それもドラマのような…ここで逃したら気持ちが離れちゃうと思ったんでしょうね。

三田 なんか急に結婚が具体化しちゃって、その次の年に婚約して、その半年後かな、結婚式だったんですよ。だから私、きっと『ニューヨーク恋物語』に出てなかったら、逆に結婚もどうなったかわからないし。タイミングが全部ダダダダダダッってその歳で変わっちゃったんですよね。

―でも周囲の反対とかも大変だったと聞きますが、橋之助さんの勢い、情熱ですかね、最終的には。

三田 結局、お嫁さんになりたいっていうのも私の長年の夢で。小さい時からそれはあったんですよ。で、やっぱり女優をやりたいって開眼して盛り上がって、東京に帰って主人にまた熱烈にっていうか、具体的にプロポーズされて。そこでよく考えたんですよね、果たして女優として生きていく自分っていう道と、どっちが1番いいのかなって。

―で、こんなに愛情を注いでくれる人を支えていくのが幸せなんじゃと?

三田 支えてとかじゃなくて、やっぱりその時、歌舞伎を毎月観に行くじゃないですか。あれだけ自分が盛り上がった仕事の現場から今度はがらっと主人の現場を見ると、もう主人達のレベルが高すぎて。私が頑張ってるレベルと、厳しさが雲泥の差っていうか。

私も一応15歳から仕事して、まだ22、23で一生懸命頑張りますみたいな、これからまた初心に戻って女優業頑張ります!って手を上げたけど、お芝居って自分が盛り上がって頑張るぞだけでできることじゃないんだって。

―熱くなった感情が冷静に?

三田 たかが私ごときが手を上げてる場合じゃない、自分にはやっぱり無理って。せっかく気持ちがぽこぽこって膨らんだ風船がシューって萎(しぼ)んじゃって。主人の頑張ってる姿とか歌舞伎に貫く修行度とか、ひとつの役を作り上げてるプロセスを見てて、急にまた自信がなくなっちゃって。そうするともうずっと女優業なんてできない、歌手もやめます、とりあえず引退しま~すみたいな(笑)。

「オフはトイレの中かお風呂の中しかない」

―やっぱり切り替えはスパッと潔いわけですね。

三田 そういうとこ別にはっきりしてるし。でも“三田寛子引退”ってスポーツ紙にどでかく出していただいて、めでたくこの運びになりましたとか言ってたら、中村家の皆さんが「別にやめなくたってよかったのに」って。え? いやだ、もうちょっと早く言ってくれればみたいな(笑)。

―とはいえ、二足のわらじでできることでもなかったでしょうしね。

三田 やっぱり歌舞伎役者の奥さんっていうのは全面的に表に出ないといけないので。それまではオンとオフって、お仕事してる時はオンですけど、普段はそれこそマスクしたり、眼鏡したり、帽子被って。なるべく自分の正体も地味にオーラ出さないで透明人間になる感じじゃないですか。外で三田寛子だって言われて、ありがたいんですけど、その対応に困るっていう。

でも結婚してからは中村橋之助の、成駒屋の奥さんですってことを全面に出して、普段でもお客様にきっちり挨拶しなきゃいけない。歌舞伎っていうのは贔屓(ひいき)の方々に支えられているのでオンとオフがないんです。普段も仕事と一緒で、ずっとオンなんですよ。

だからどこでサインを頼まれても逃げないっていうか、主人達はもうできる限り…だからその姿勢は偉いなって。私とか今ここでばれたくないって思うと下向いて走って逃げちゃったりしてたわけですよ、10代の時から目立たないように。

それが歌舞伎っていうのは皆さんに支えていただいて、TVのチャンネルをカチカチってやればとかじゃなく、お金を払って劇場に来てくださるんだから、道でご贔屓(ひいき)の方と会ってもご挨拶する。だから私もオフはそれこそトイレの中かお風呂の中しかないっていう。主人とふたりでいる時も彼の奥さんっていう役目をきっちり果たさなきゃって思うので。

―いや、思わず頭が下がるというか聞き入ってしまいましたが…。やはり梨園の妻として、そこまでの覚悟で入られたわけですね。

三田 ほとんど個人的オフはないですから。自分にとっては、それが大好きな人と望んで恋愛結婚できた喜びと幸せに満ちあふれて、どんな苦労も困難も頑張れば乗り切れるとかでもなく。やらなくてはいけないっていう使命感で。だから今思うと、芸能界が学校で、卒業して初めてのお勤めが株式会社成駒屋ってところに就職した感じですよね(笑)。

―なるほど…(笑)。それは言い得て妙な実感のある形容ですね。

三田 主人にとっては秘書で、実際に私、受付とかもやるし、成駒屋にとっては切符を買っていただくために動かなきゃいけない営業マンなんで、例えば、お客様に接待もしなきゃいけないし。全部それをやって。

三田寛子っていうお仕事をしてた時は、演技してこの色を何色に染めていくんだろうって、割と表現を求められたんですけど。結婚してからは逆に黒子でスタッフなので、私が紅茶色にしたいって言っても、これは日本茶の銘柄ですってなったら、はいわかりましたって。勝手なことができないんですよ。

―ほんと、伝統も格式も由緒ありすぎるだけに厳しいお勤めです。

三田 大体、いま主人が係長から部長、お父様が顧問で、兄が会長としたら、ゆくゆくは成駒屋って会社を順番に継いで長になり、先祖代々の老舗の暖簾(のれん)を守って、息子とか孫に主人もバトンを渡して。その中でやっぱり奥さんの仕事、結婚っていうのは就職だなってほんと思いますね。

―うーん、深いですね。アイドル・女優時代までの話をじっくり伺って、最後は結婚という就職の内実まで。正直もっとお聞きしたいところですが、さすがに時間が…。残念ですが、長時間ありがとうございました!

さて、次のお友達がまだ交渉中ということで次週掲載に間に合うか…こんなハプニングもありってことで? いいかな~(笑)。

●三田寛子(みた・ひろこ)1966年生まれ、京都府出身。14歳の時、雑誌『セブンティーン』に応募し、モデルデビュー、1981年に『2年B組仙八先生』の生徒役でドラマ デビュー、82年に「駈けてきた処女(おとめ)」で歌手デビューを果たすなど80年代のシンデレラガールとして駆け抜けてきた。その後、CMや数多くのド ラマに出演し、バラエティ番組でのレギュラーや情報番組の司会など多方面で活躍。1991年に歌舞伎俳優の中村橋之助と結婚、現在は梨園の妻として、また 未来の歌舞伎役者でもある3児の男児の母としての生活を中心に活動を続ける

(撮影/塔下智士)