司会を務めるミヤギテレビの夕方ワイド番組「OH!バンデス」はなんと20年! まさに“仙台の顔”といえる、さとう宗幸さん

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

第10回のゲスト・三田寛子さんからご紹介いただいたのは、歌手・俳優のさとう宗幸さん。

地元である仙台を歌った『青葉城恋唄』が1978年に大ヒット、81年には金八先生シリーズを継ぐ『2年B組仙八先生』に主演し、デビュー時の三田さんと共演。95年からはミヤギテレビの夕方ワイド番組『OH!バンデス』の司会を務め、いまだ続く、まさに“仙台の顔”だ。

そこで今回は仙台まで足を運び、その生放送本番前にお時間をいただいたーー。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

―まさか自分の出身地でもある仙台に戻って、地元の顔ともいえる宗幸さんとこんなお話をさせていただく機会がくるとは思いませんでした。

さとう いつも皆さんの取材は貝山さんが?

―はい。おこがましくも「笑っていいとも」のスピリッツを受け継ぎ、友達の輪を繋ぐという精神で。ガチでやっております(笑)。それで前回の三田さんが「私、最初のツアーデビューも仙台で」とか、ドラマ初出演も『仙八先生』でほんと青春でしたみたいな話になって盛り上がったんですよ。そしたらお友達として宗幸さんの名前があがってきたもので。

さとう いやーありがたいです。

―彼女からのメッセージで「先生、お元気ですか? またお目にかかれる日を楽しみにしています」とのことですが。随分ご無沙汰なんでしょうか。

さとう 何年前ですかね…上高地で音楽祭があった時にもうひとりの生徒役だったコとわざわざ来てくれて。聞いたら、結婚して(中村)橋之助さんでしたっけ? 家族で泊まりに来たことがある、とても彼女も思い出の地らしくて。話を聞いてノリで来てくれたみたいでしたね。5~6年前になるかな。

―その時にお話はされたんですか。

さとう 話もしたんだけど、コンサートやったの日曜日だったもんですからね。上高地がすごいもうトップシーズンで、バスからいっぱい人は降りてくるわ、河童橋の辺りはぞろぞろ歩いてるわ。そこで、さとう宗幸と三田寛子がハグしてるから周りの人はビックリしたかもしれない(笑)。我々は自然だったんだけど。

―それ自体、だいぶ久しぶりな? 懐かし~みたいな感じですか。

さとう あのね、もうちょっと遡(さかのぼ)ると僕が還暦の60の時に、教え子たちみんなが還暦祝いをやってくれたんですよ。これも話せばドラマチックなんですよね。

3月にやったんですよ。話をもらったのは前年の暮れくらいかな? 実はみんなでやろうってことになったんですけど、先生どうですか?と。「いや万難排していくよ」って話をして、年が明けたらモックン(本木雅弘)が、俺はすばる(仙八先生での役名)って言ってるけど、アカデミー賞獲った年なんですよ。『おくりびと』で。

―主演して外国語作品賞を受賞したのが2009年。大変な話題になりました。

さとう もう向こうのロスでもオスカー獲って大変な騒ぎじゃないですか。それで、彼が日本に帰ってきて次の日が還暦祝いだったんですよ。幹事のひとりが「いや、彼来ます」っていうから「でも日本に着いたばかりだし、もう相当疲れてるだろうから無理しないように言ってくれ」って。そしたら「これやろうって言い出しっぺは本木なんです。だからアイツは必ず絶対来ます」と。

でも成田に着いても取材陣に取り囲まれて大変な時でしたから。それを僕もリアルタイムで見て、とにかく体調も考えて、来てくれるのはもう嬉しいけど無理しないよう言ってくれと。幹事のコもわかりましたって言うわけ。

次の日、12時くらいから何やら「先生まず会場入らないでください」って言われて、別室にいた時にアイツの声が聞こえてくるわけですよ。したらもう、自分で司会するって言ってたらしいんですね。だから余計、周りが「あいつは自分でやるって言ってたから絶対来ますから」って言って。本当に来てくれてね。それがすごく感動的な…。

「2年B組って現場はひとつのクラスに仕上がってたね」

―義理堅いというか、人となりを物語るエピソードですね。

さとう 総勢30数名の教え子たちのうち、20数名は来てくれたから。克也…薬丸(裕英)くんもね。すごく嬉しかった。その時はひとみが、いわゆる三田寛子は来れなかったんですよ。橋之助さんのお仕事の関係で。だけど、それも嬉しい話なんだけど、場所が東京會舘でやったのかな? あそこってスゴいとこらしいんだよね。

―由緒正しいというか歴史がありますよね。それにしても、“いわゆる”って、ひとみのほうが役名なのに、そっちが本名みたいな(笑)。

さとう いや、それでね、よく梨園の人たちが使うらしいんです。で、会場の打合わせから何から全部ひとみがやってくれたんですよ。彼女は当日ダメだってわかっていながら仕切りをね、全部。だからもう、僕は本当に幸せでしたよね。

―ほんとそれもドラマの続きのような。すごい同窓会ですね。

さとう 宮崎美子さんも来てくれたし。

―同僚の先生役で先に役を終わられたらしいですね。その時、生徒みんなに贈る言葉を渡して、三田さんには本当の学校のほうで「大変だけども卒業だけはしなさい」ってメッセージをくれたとか。それで頑張って20歳くらいまでずっと通って卒業したんだと言ってました。なんか、ほんと実際の師弟関係みたいだなと。

さとう 本当に4月から3月までの1学年やって。だから仕事って意識はありながらも2年B組っていう現場は、もうひとつの同じようなクラスに仕上がってたね。

―ずっとご自分の中では、三田さんはひとみだし、モックンはすばるでしかないんですかね。

さとう あの時、ひとみは高校1年生だったけど、あの3人(『シブがき隊』。本木、薬丸に寿人役の布川敏和)と、あと高校受験のコが中学3年生で何人いたかな。14、5人くらいいたんですよ。それで仙台に帰ってきた時に大崎八幡宮に行って、御札とお守りを買って。受験生みんなにあげてね。頑張れって。

―自らそこまで! ほんと先生ですねえ。そういうのが還暦祝いや今に至る関係に繋がってるわけだ…。ところで、宗幸さんといえば、そもそも「青葉城恋唄」が全国的に大ヒットして紅白歌合戦に出られたりとか。1978年ですよね。

さとう まさにあの時、37、8年前ですよ。

―僕がちょうど父親の仕事の都合で仙台から大阪に3年間、小5から中1までいた時期なんですよ。当時の感覚でいうと、ブラジルに移民に行くくらいの越境感で。もう仙台空港で親族郎党それこそ万歳三唱して送り出されて、俺はどこに行くんだろうくらいの(笑)。

だからその時代に「青葉城恋唄」っていうのが爆発的に大阪に届いて、もちろんシングルのEP盤レコードも買ったわけですが。異境の地で地元の叙情を耳にするような懐かしさがなんとも思い出深かったなと。

さとう そうなんですか。小学生くらいで? でもあれはもうね、僕もいきなり放り込まれた感じでしたもんね。それまではまだ結構ライブハウスがあったんですよ、各県に。それを巡ってコンサートやってる僕にとって、NHKで生まれたあの楽曲があんな大きな歌に化けてくれて…。

「みんなピンクレディーの振り付けで踊って…」

―NHKFMの『リクエストアワー』でパーソナリティをやられてたんですよね。そこに送られてきたリスナーの詩に曲をつけて「青葉城恋唄」が生まれたという伝説的な…。その頃はライブハウスどころか“歌声喫茶”で活動みたいに書いてあったりもしますが?

さとう そうね。歌声喫茶がその前にあって、言ってみれば歌唱、歌うことの訓練はそこで叩き込まれましたね。貝山さんなんかは死語になった頃に育った人でしょうけど、元々は思想的なものがあった場所ですよ。それでロシア民謡とか労働歌とかで一世風靡したんだけど。僕がいた頃はさすがにそういう色とかニオイもかなり薄れてきてて。それと当時にフォークソングが台頭してきた頃ですよね。

―ちょうどジャパニーズロックの萌芽もあり、メッセージ性の強いフォークあり、いろいろな意味で端境期だったのでは。

さとう その10年前だったら、ばりばりの赤い色して、頭の中も赤くなってたかもしれないよね(笑)。それがフォークソングだとか、(吉田)拓郎さんだ、かぐやひめだって出てきた頃で。四畳半ソング的なそういう歌を結構歌う時代になって。

―そこから沢田研二さんがビジュアル的にもド派手な演出で驚かせ、世良公則&ツイストとかも大人気で。いわゆる日本の音楽シーンが様変わりしていったド真ん中ですよね。

さとう 世良さんなんかは本当に僕1年前にメジャーデビューして、まさにそうですよ。ロックも出てきた、それから(井上)陽水さんみたいなまたちょっと違った歌も出てきた。本当にもう種々雑多な。だけどもやっぱりTVの中での映像的にはピンクレディーが大全盛で。小学生はみんなピンクレディーの振り付けをして踊っててね。

―それも大阪でTV観てたら、いきなり『ペッパー警部』とか意味わからない歌があのフリで初めて目に飛び込んできて。もう衝撃でした。

さとう あの頃っていうのは、まさにもうピンクレディーが世を席巻(せっけん)するような、和製英語とか片仮名とか。そしてあの詩を書いたのはほとんど阿久悠さんなんですよ。曲の都倉俊一さんとのコンビで。

ご存知だと思うけど、阿久さんはすごい多彩な人でね。キレイなシャンソンみたいなものを書かせれば書く、演歌だったら「津軽海峡冬景色」じゃないけど、ど演歌も書ける。だけどそういう中にあって、阿久悠さんにピンクレディーのああいう詩をね、求めてた時代なんです。

―ですから、あの時代ですら「青葉城恋唄」って、なんてシンプルで素朴なんだろうと。逆に新鮮に聞こえたのもありました。

さとう 若い人がそう受け止めてくださったのなら嬉しいですよ。おっしゃる通り、シンプルでね、瀬音ゆかしきとか、葉ずれさやけきみたいな四季とか、本当にあの時の音楽の色とか匂いで違った清涼感を与えてくれたと言う人もいて。

「紅白の時は1日中、駅で流してくれた」

―もちろん詩や曲調もありますけど、宗幸さんの声、雰囲気にマッチしたっていうのも巡り合わせでしょうね。

さとう でも僕は、生まれは仙台じゃなかったからね。どこに行っても、さとうさんって仙台住んでらっしゃるんですよね? 仙台にいらっしゃるんですよね?って(笑)。

あの時代っていうのはメディアがこぞって地方の時代を謳(うた)い文句にしたんですよ。「青葉城恋唄」が5月5日に発売されて、ダークダックスさんも「青葉城恋唄」を出して、それを追いかけるように僕がいって、いずれ追い越すようになって。だからメディアの追い風もあったんですよ。仙台っていうのはご当地ソングが結構出てるんですけど、それまでほとんどヒットしなくて。

―ないって言われてるけど実はあるんですよね。でも函館あり、長崎ありの大ヒットには及びもせず…(笑)。

さとう そうそう、おっしゃる通り。だから業界で言われてたのは、仙台っていうのはご当地ソングみたいなのは絶対ヒットしないっていう不毛の地のような形容をされて。その中であの歌がNHKで出てきて、デビューする時には『リクエストアワー』で歌ってましたから、ある程度、認知してくださってる方が多かったんですよ。

もう僕はライブハウスでも50人くらいのとこで2、3人しかいないってことはざらでしたから。デビューの時に会場の窓をふっとみたら200人くらい並んでるんです。自分のコンサートでそんなの見るの初めてで、まあ嬉しいんだけど、震えるやら…。それで、NHKで生まれた歌ですけど、もうとにかく他の民放各局もことごとにバックアップしてくれたんです。

―不毛の仙台から地方の時代の象徴というか起爆剤になるヒットソングを!と。

さとう 地元のレコード店の人たちもこぞってとにかく仙台からヒット曲を出そう、作り上げようっていうんで、もうすごいうねりだったんです。

あとJRも国鉄の時代で、まさに国の機関、管理下にあるとこだからひとりの人間の歌を駅の中で流すってことは御法度(ごはっと)なんですね。それが当時の駅長さんの勇断で、特急列車が着くと「青葉城恋唄」を流してくれて。もうそのたびにホームで流れてたの。おそらく当時の駅長さんが腹をくくってやってくれたと思うんです。極めつけは紅白歌合戦の時は1日中24時間、駅で流してくれて。

―そこまでやってましたか!?

さとう だから1978年って年はね、仙台から大きな歌を作り上げようっていう、いろんな方向から作り上げたうねりだね。ご存知かどうか、放送業界も大体、地方に行けば行くほど、今の僕がそうだけど、ミヤギテレビで20年やってると他の民放がやっぱ使いたがらないわけですよ。NHKはたまに使ってくれたりするけど、他はよっぽどじゃないとね。

それが、あの年だけはね、NHKで生まれた曲だから、うちではいいだろうみたいな、そんな風潮のあるところなんだけど、あの時だけは全局こぞって「青葉城恋唄」を大きく作り上げようという年でしたね。

「俺はやっぱり歌手だから最初断った」

―これだけ話題の曲を出さないわけにはいかないっていうのもあったでしょうが。ほんと時代の大きな力が働いて…。

さとう まあね、他の局にしてみても目をつぶってるわけにはいかないっていうのはあったかもしれないけど。僕から見ると、みんなこぞって応援してくれたんだなっていう風に映ったね。

―そこで正直、浮かれて勘違いしたりとか、自分で天狗になってる、やばいなって時期とかはなかったんですか?

さとう いやー、それはどうなんだろうな。周りがどう見てくれてるか…。自分ではない、全くない。だって歌声喫茶にいる頃もそうだし、業界でいう下積みっていう時代なんでしょうけど、女房もいて乳飲み子もいて、ほとんど収入なんてないに等しい中で、特急なんか乗れないから鈍行で岩手と秋田に行ってライブやったところで、さとう宗幸なんて誰も知りませんから。店からもらうギャラなんて推して知るべしですよ。そんな中でやって、それなりのことはわかってきたつもりだから。そういう天狗になるとかね…。

―有頂天になる年齢でもなかった?

さとう ないし。おっしゃる通り。そんな年でもない。

―でもまさかそこまでブレイクして、武田鉄矢さんの『金八先生』から、やはり『きみの朝』の大ヒットで『1年B組新八先生』に起用された岸田智史(さとし、現・敏志)さんの流れで、まさか自分にドラマの主演話がくるとは?

さとう おっしゃる通り。当時、東京の事務所でしたけど、シンコーミュージックっていう、そこの部長が「宗さん、実は鉄矢さんの後にドラマの話きてるけどどうする?」って言われた時に、正直に言うと断らせてもらったんですよ。演劇の訓練もしたことないし、あの世界なんて全くわからないし。後はちょっとカッコいい言い方すれば、俺はやっぱり歌手だからみたいな。最初断ったんですよ。

だけども、決断させたのは当時のプロデューサーが名古屋のコンサートにわざわざ聞きに来てくれてね。終わってから楽屋に来て「今日聞かせてもらって、それでどうだろう、やってみてくれないか?」って。ここまで言われたら人としてね。

―三顧の礼じゃないけれども意気に感じて。

さとう これは人の道として、俺がどれだけ演技ができるかどうこうの話じゃないわけですよ。そうしてまでやってきてくれたことに、これはもう答えなきゃいけないよね。

―客観的に見れば、武田鉄矢さん的な、本来的に役者ではない、ミュージシャンでキャラクターが立って、素朴で新鮮でという路線の二番煎じ的なものを狙ってるのは見え見えなワケですが。

さとう 局サイドはそうですよ。はなっから鉄矢さん、岸田さん、いわゆるフォークの世代、ジャンルから誰かをっていうのは考えていたらしいです。それははっきり言われました。

●この続き「東京とか大きな災害が起きようもんなら東北は完全無視になっちゃうよ」は後編にて!

●さとう宗幸1949年生まれ、岐阜県出身、宮城県育ち。現在は仙台市在住。東北学院大学在学中にうたごえ喫茶「若人」で歌い始める。1978年にメジャーデビュー曲として発売した『青葉城恋唄』が全国的に大ヒット。紅白歌合戦出場を果たす。1981年に『2年B組仙八先生』で伊達仙八郎役に選ばれ、主演を務めることに。また、1987年には、NHK大河ドラマ『独眼竜正宗』で支倉常長役に抜擢。1995年からはミヤギテレビの夕方ワイド番組『OH! バンデス』で司会を20年務めるなど仙台の顔として活躍中。10月21日には7年ぶりのシングルCD『あ・り・が・と・う・の歌』がキングレコードより発売

(撮影/貝山弘一)