1月25日の記者会見で、新日本プロレス退団を語った中邑真輔。今後はアメリカのWWEに挑戦することが確実視されている

日本プロレス界の至宝、中邑真輔が1月末の契約満了をもって新日本プロレスを退団。その後はアメリカのWWEに移籍することが確実視されている。

中邑が培ってきた唯一無二の世界観は、プロレスの本場でも通用するのか? 『新日本プロレスV字回復の秘密』などの書籍があるフリーライター、長谷川博一氏が中邑の軌跡から今後を考察する―。

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中邑真輔の「新日本離脱~WWE移籍か!?」のニュースは、毎年恒例の新日本プロレス1.4東京ドーム大会の翌日、1月5日から世界中を駆け巡った。まずはアメリカのプロレス専門誌のウェブサイトが報道し、その“噂”を受け取る形でWWE公式サイトが続く。「AJスタイルズ、中邑真輔、カール・アンダーソン、ドク・ギャローズはWWEにやってくるのか?」という見出しと共に、中邑や新日本に参戦する外国人レスラーたちの顔写真を公式サイトにアップしたのだ。

日本国内での本格的な報道は1月8日付の「東京スポーツ」紙から。その一面に“中邑新日退団”の大きな見出しが躍った。新日本と中邑の契約は今年1月末日まで残っているが、ファンの動揺を避けるために新日本は1月12日、中邑の退団を公式発表。そして1月25日、記者会見が新日本プロレス本社にて行なわれた。

黒のスーツに身を包んだ中邑は、新日本退団に至るいきさつを述べる。2年くらい前から移籍について悩み、最終的に決心したのは昨年11月頃という。そしてこんな発言をした。

「退団を決意したのはひとつの理由ではない。自分の年齢(35歳)も含めて、かつ新日本プロレスで成長する上で培ってきた価値観や自分の感情も含めて、行動するのは今しかないと思った上での決断です」

長期間考え抜いた末、中邑はプロレスラーとしてのステージを一段階アップさせることを選んだのだ。

中邑は僕にとって、サブカルチャーの文脈で語りたくなるプロレスラーだった。

レスラーとしての力量も超一流だが、肝心なのは試合だけではない。まるでコンサートのパフォーマンスのような派手な入場シーン。ダンサーのようなクネクネとした身のこなしは、マイケル・ジャクソンに影響を受けていたという。

大学時代に美術部に在籍した経験もあって、イラストや絵画も相当な腕前だ。その画風は(ここは褒め言葉として使いたいが)アウトサイダー・アート(正式な美術教育を受けずに独自の表現をするアート)と共通するような独特な抽象性がある。

そして試合後に発する意味不明のシャウト「イャ~オ!!」。このような芸術家肌のキャラクターが定着した、ここ2、3年間の活躍は特に目が離せなかった。

「どうしてみんな、イャ~オ!の意味を聞きたがるんだろう」

ベストバウトをひとつ挙げるとしたら、やはり昨年の1.4東京ドーム大会、飯伏幸太とのシングルマッチだろう。試合途中から両者ともに未体験ゾーンに入ったかのようなスリル満点、予測不可能な闘い。空中戦を交えた立体感も十分で、これが近未来のプロレスなのだろうかと予感させる、神がかったような試合でもあった。

僕はプロレスを、いつも時代の比喩として捉えている。プロ野球や大相撲に比して、プロレスは長らく、正当なスポーツとして認められなかった。アントニオ猪木はプロレスの市民権を得るために、常に世間と闘っていた。

しかし昨今、エンターテインメントが若者の憧れの的となり、プロレスもその枠に組み入れられると、その在り方は変わっていった。今ではプロレスは、リングというスペースの中でどれだけレスラーが自己表現を見せられるか、その競争の場として認識されている。時には試合の勝ち負けを超えて、表現の力を選手は競う。中邑は、そんな時代の最先端に立ち続けてきた。

拙著『新日本プロレスV字回復の秘密』執筆におけるインタビューの場でも中邑の言語感覚は鋭敏だった。

「どうしてみんな、イャ~オ!の意味を聞きたがるんだろう。答えを先に知りたがる世界は想像力が欠けてないですかね?」

そう逆に問われた時に、僕は彼の真髄に触れたような気がした。中邑が観客に投げかけたいのは「問い」であり、あらかじめ正解を用意した主張ではないのだ。

「中邑真輔? なんなんだ、あれは!?」 そう思わせたら自分の勝ち、と決めている。たとえば彼のクネクネとした動きに触発されたポールダンサーが、中邑のテーマ曲で踊った映像をYou tubeにアップしたことがある。中邑は喜び、彼女たちを2014年の1.4東京ドーム大会に招いて、共にリングに入場した。

ポールダンスならではの淫靡(いんび)な空間を誰よりも楽しんでいたのは中邑だった。自分のイマジネーションが他人のイマジネーションに突き刺さる。そこからまた新たなリアクションが生まれる。そんな化学反応の連鎖を何より嬉しいと感じる男なのだ。

稀代(きたい)のトリックスター、中邑のキャリアはしかし順風満帆なものではなかった。むしろ波乱万丈で、現在の個性が定着するまでには10年の歳月が必要だった。

中邑が新日本プロレスに入団したのは2002年3月。青山学院大学時代はレスリング部に所属していたが、同時に総合格闘技の道場にも通っていた。時はまさに総合格闘技ブーム、新日本の当時のオーナー、アントニオ猪木は中邑の格闘技の素質を高く買って、米ロサンゼルスの道場に送りこんだ。当時、中邑は世田谷の新日本道場よりアメリカで過ごす時間が長かった。

デビュー当初はプロレスの試合と総合の試合を交互にこなすような日々。2003年12月には史上最年少24歳9ヵ月で、団体の至宝であるIWGPヘビー級王座に輝いている。総合格闘技は5戦3勝1敗1無効試合。2004年5月にはK-1戦士アレクセイ・イグナショフとの再戦をギロチン・チョークで勝利した。今でも試合中に飛びつき腕十字固めを繰り出すと会場がどっと沸くのは、中邑の格闘技スキルがプロレスの「見せ技」とはまるで違うことをファンが知っているからでもある。

プロレスは「言葉を超えたコミュニケーション」

その後の中邑はプロレスの世界に集中していく。だが、ここからの7年間がてこずった。体重を増やしてパワーファイターに変身してみたり、ラフファイトに徹してデスマッチに挑戦したり…。いろいろな工夫をしてみるが、どうもしっくりこない。しかし、その道のりの中で「ボマイェ」と呼ばれるフィニッシュホールド(助走をつけた膝蹴り)を磨き上げ、2011年頃からは現在のようなアーティスト・タイプの佇(たたず)まいに変わっていった。

新日本プロレスにはIWGP、インターコンチネンタル、NEVERという3種類のヘビー級のベルトがある。中邑はその中でインターコンチのベルトを磨き光らせた。2012年7月に初めてそのベルトを手にして以来、時にはIWGP王座以上に注目を集める防衛戦を続けていく。前述の飯伏幸太戦のみならず、2013年1.4の桜庭和志戦も、今年1.4のAJスタイルズ戦も年間ベストバウトに輝いてもおかしくない名勝負だった。

現在の新日本プロレスを代表するトップ3はIWGPヘビー級王者のオカダ・カズチカ、インターコンチネンタル王者の中邑真輔、そして棚橋弘至の3人。

オカダは2012年にアメリカ修業から戻った後、中邑が率いるユニット「CHAOS(ケイオス)」に加入している。そのせいか、どこか中邑の弟分といった印象もあった。中邑は「チャンピオンなんだから、もっと強気なコメントでいけよ!」などとハッパをかけていたものだ。そのオカダは、昨年11月の天龍源一郎引退試合で素晴らしい闘いを見せた。続いて今年1.4のメインイベントでは棚橋を破り、団体一の実力者であることを証明したばかり。中邑にとっては、これならこの先はオカダに任せて大丈夫だろう、というホッとした気分も手伝っての退団なのだろうか…。

プロレス界のトップ中のトップが、そのキャリア最盛期にアメリカに渡るのは史上初だろう。プロ野球で例えれば、元広島東洋カープのマエケン(前田健太)が今シーズンからロサンゼルス・ドジャースに移籍するのと同じくらいビッグな出来事だ。

とはいえ、アメリカのプロレスでは野球のようには日本で培った実力をそのまま持ち込むことが難しいかもしれない。何故かといえば、アメプロはリング上のマイク・アピールが重要視されるし、もちろん英語で話さなくてはいけない。そしてTV収録の試合では決め事が多く、選手が自由に試合をアレンジできる部分が少ないはずだ。

かつて中邑はプロレスを「言葉を超えたコミュニケーションであり文化だと思う」と語っていたし、「リング上の制限された環境の中でもスキマを見つけて自由を謳歌することはできる。その自由に自分が感動できるかどうかが大事なんです」という、深みのある言葉を残している。その“自由”は海外でも表現できるのか? 記者会見の席上で聞いてみると…。

「どういう状況においても、そこに落とし込める遊びがあるのであれば、いかに小さなスキマであっても中邑真輔を投影していきたい。これまでもそうしてきたように、これからもそうするだろうと思います」

この発言は、新日本プロレスで育んだ自己表現をそのままプロレス界のメジャーリーグに持っていくのだ、という確固とした自信のようにも受け取れた。

中邑真輔、日本から世界へ―。今後の活躍に期待したい。

■長谷川博一(はせがわ・ひろかず)フリーライター。1961年生まれ、北海道出身。プロレス、音楽、社会問題などについて数多くの取材記事や著作を発表。プロレス関連の書籍に『三沢光晴外伝 完結編』(主婦の友社)などがある『新日本プロレスV字回復の秘密』(KADOKAWA 1300円+税)