震災以降、200件以上の目撃談や体験談を聞いて「震災怪談」も手がけてきた黒木あるじ氏

被災地のある橋では、幽霊がタクシーを止めて乗り込んできて、行き先を尋ねる運転手に『あの…私、死んだんですか?』と聞いてくる」

「沿岸のある道路では、夜になると津波で亡くなった人たちの霊が行列し、たびたび地元のドライバーが“轢(ひ)いてしまった”と勘違いする」

震災直後から被災地ではこうした怪異現象が囁(ささや)かれ、丸5年たった今もなお語り継がれている。

興味深いのは震災から時間を経るにつれて、語られる怪談の中身が少しずつ形を変えてきたことだ。これは一体、何を意味するのか?

3・11以前から東北にまつわる怪談を収集し、震災以後はライフワークとして震災にまつわる怪談を記録してきた山形県在住の怪談作家、黒木あるじ氏に話を聞いた。

―黒木さんはこの5年、約200件もの震災怪談を取材、記録されてきたと伺いましたが「震災怪談」ではどのような話を聞くことが多かったのでしょうか?

黒木 時期によって出てくる話の内容も様々です。例えば、「沿岸の海側から街に向かって逃げる人影」だったり、「津波にのまれた某所のスーパー跡地に出る幽霊」「夜になると決まって、ある橋の上に現れる火の玉」の話などはよく聞きました。

こうした震災にまつわる怪談の中で特徴的だったのは、出てくる幽霊に肉親や知り合い、すなわち〝顔のある幽霊〟が多いこと。それと幽霊を見たからといって恐れおののく人が極端に少ないと感じました。「死者が会いに来てくれたのかな」、そんなとらえ方をする人が多かったように思います。

―それはなぜだと考えますか?

黒木 東北だから、というのは乱暴なくくりかもしれませんが、東北にはかつて各集落にイタコや口寄せ巫女(みこ)がいて、死者とコミュニケーションを図る文化がありました。死を忌(い)まわしいものと遠ざけるのではなく、死者と交流し、折り合いをつけるという独自の死生観が影響しているように思います。

―先ほど、「時期によって出てくる話の内容も様々」とおっしゃいましたが、この5年、被災地で語られる怪談話にはどんな変化があったのでしょうか?

黒木 僕は膨大な数のデータを取っているわけではないのであくまで主観になりますが、震災直後はおどろおどろしい、いわゆる怪談らしい話はほとんど聞こえてきませんでした。僕が初めて被災地での不思議な話を聞いたのは震災から10日後のこと。被災した親戚の女性の体験談です。

あの日、彼女が台所で家事をしていると、外から「オーイ」と自分を呼ぶ声がする。家を出て、声のしたほうを見ると、坂の上の竹やぶに亡くなった夫とソックリの男性がいた。

驚いた彼女は男性の後を追って竹やぶに入るも、男の姿は消えていた。次の瞬間、大きな揺れがきた。腰が抜けた彼女は竹にしがみついて難を逃れたが、その後、津波が自宅の1階部分をさらっていったそうです。

「もし夫の声を聞かなければ、波にのまれたかもしれない」と彼女は話していました。

震災直後はこのように、かつて亡くなった身近な人が現れて、九死に一生を得たという話をたくさん聞きました。津波で多くの方が亡くなったという事実が、まだあまりに生々しい時期だったのだと思います。

“49日”を境に質が一変した被災地怪談

―そこに変化が起きたのはいつぐらいからでしょう?

黒木 おそらく震災から四十九日が過ぎた頃だったと思います。この頃から「津波で亡くなった家族が遺族のもとに現れた」とか「声を聞いた」という話が増えてきた。「知り合いの行方不明者が枕元に立って『もう探さなくていい。大丈夫だから』と言った」とか、「亡くなった幼いわが子が毎夕現れるため、“幽霊でもいいから会いたい”と願う遺族が海沿いのあるスポットに足しげく通っている」といった話です。

出てくるのはいずれも“顔のある幽霊”ばかり。震災から1年くらいは、このように被災者の心情や置かれた状況に即した体験談が多かったように思います。

―その後、怪談の質はどのように変化したのでしょう。

黒木 それまでは「Aという歩道橋には、津波で亡くなった隣町のCさんがたびたび現れる。逃げ切れなくて無念だべな」という話だったのが、震災から1年くらい経つと「Aという歩道橋の上にはお化けが出る」と簡略化されるようになりました。これはおそらく、復興関係の仕事で被災地の外から入ってきた人たちが増え、伝聞を広めたことも無関係ではないはずです。

―彼らは震災前の町の風景もそこで暮らしていた人も知らないですものね。

黒木 はい。けれど、外から来た彼らも、なんとか死者と対話をしようと願ったのではないか。その結果、漠然とした都市伝説的な怪談が増えたのだと思います。震災から3年目以降になると、パーソナルな話はさらに減り、ほとんど聞かれなくなりました。

―なぜでしょう?

黒木 時間の経過とともに大切な人の死を受け止めることができるようになった人もいるでしょうし、中には悲しみや喪失感を表に出さずに胸の中にしまい込むと決めた人もいたはずです。一方で「亡くなった人の声が聞こえるのは、トラウマによる幻聴だから病院で治療すべき」との“解決法”が出てきたり、新たな信仰やセミナーに救済を求める人も出てきた。方法は様々ですが、皆が自分の中でケリをつけた結果、僕のところまで怪談話が届かなくなったのかもしれません。

―怪談の取材もしづらくなりましたか?

黒木 そうですね。興味深いことに、次第に地元の人からもパーソナルな部分が剥(は)ぎ取られた“都市伝説化された怪談”が聞こえてくるようになった。それを聞いて僕は「あ、そういう時期を迎えたのか」と思いました。被災地が徐々に整備される中で、“新しい街”になろうとしているような気はします。もちろん地域差もあるし、まだ途上だとは思いますけど。

悲しみだけではなく親しみ、懐かしみを覚える怪談

―この5年、黒木さんが震災怪談を収集する中で、特に印象的だった話はどんなものですか?

黒木 津波で死んだはずのお婆ちゃんが仮設住宅を訪ねてくる話です。お婆ちゃんは、生き残った近所の茶飲み友達と話をして帰っていくんですが、茶飲み友達は皆、「あの人、亡くなったんだよな」と知っている。でも、誰も怖がったりしない。「婆ちゃん、物忘れが多かったから自分が死んだの忘れてんのかもな。そのうち気がつくべ」と大らかに受け止めて笑っているんです。

―怪談というよりかは、ほのぼのする話ですね。

黒木 はい。僕はこの話が好きなんです。それは残された人が亡くなった人に対して悲しみだけではなく親しみ、懐かしみを覚えながら生きているから。実に東北らしい、お手本のような話だと思っています。全部が全部、こんなほのぼのした話だと怪談作家としては商売上がったりですが(苦笑)。

―黒木さんはなぜ、震災怪談を集め、体験談を記そうと思ったのでしょうか。

黒木 自分がこの時代に東北に居を構え、人に取材して書く仕事を選んだ以上、震災の話は避けられないと思ったからです。そこに目を背けて書いても、それはウソになる。だから、怪談を集めているという意識は希薄です。「あの日の出来事」に耳を傾けている、そんな感覚です。

―震災の怪談を書くことに対して「不謹慎だ」という声があったとも聞きました。

黒木 想定はしていましたし、実際にそういう声もありました。ただ僕は、よそから興味本位でやって来た人間に、お涙ちょうだいの話を書き散らかされたらたまらないと思ったんです。門番を気取るつもりはありませんが、「書くならきちんと向き合ってくれよ」と、見本を示さなくてはいけない気がしたんです。

―震災怪談を綴(つづ)る上で、ご自身が心がけるスタンスのようなものはありますか?

黒木 普段の僕は、どれだけ読んだ人を怖がらせるかを意識して怪談を書いています。読者をトイレに行けなくさせてやろうと(笑)。でも震災怪談に関しては、聞いた話を極力いじらずにありのままで出すようにしています。おかげで僕の震災怪談は「他の作品に比べて物足りない」とよくいわれるんですが(苦笑)、それはそれでいいかなと。

被災地で起きた出来事を怪談という形で伝えることで、「失ったものに対して、こんなアプローチもできるのではないか」と問い続けていきたいと思ってます。

●黒木あるじ氏。1976年生まれ、青森県出身。2010年に怪談作家としてデビュー。その後、1千件以上の怪異体験を記録してきた

■週刊プレイボーイ12号(3月7日発売)「『3・11』から5年 未来のために今、知りたいこと」より(本誌ではさらに「新設されたレスキュー部隊の実力」からサッカー・小笠原満男選手インタビュ-まで震災後5年を総力特集!)

(取材・構成/山川徹)