元ヴェルディ監督で熱いトークでおなじみのサッカー解説者・松木安太郎さん

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

第21回のゲストで元Jリーガー・日本代表の武田修宏さんからご紹介いただいたのは元ヴェルディ監督でサッカー解説者の松木安太郎さん。

武田さんの先輩であり、読売クラブの生え抜きとしてキャプテンを務め、Jリーグ創設時には35歳の若さで初代ヴェルディ監督就任。現在はサッカー解説者として、その“松木節”もファンにはおなじみとなっているが、熱いトークのルーツとはーー。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

―お忙しい中、なかなかお時間いただけないところを合間に作っていただきました。

松木 いやいや、今日はたまたまバタバタしていますが、のんびりしている時のほうが多いですよ(笑)。

―普段、解説やられてる時が一番印象的なんですけど。他はやっぱり講演とか?

松木 講演はまぁ、ぽつぽつとやらせていただいています。今週は…あれ、どこに行ったかな…あ、奈良ですね。明日は福島なんですよ。そのあとは大阪かな。

―ほんと飛び回られてる感じで。直接サッカーじゃなくても、テーマは様々ですか。

松木 そうですね。マネジメントやチーム作りの部分など、どうやったら組織をいい方向へもっていけるかなどをテーマとしています。もちろん(日本)代表やチームのこともお話ししますけど、今、私は(サッカー)協会には関わっていないので、そこから離れてというか。解説の立場から日本のサッカーがこうなってほしいなという話をさせていただいてますね。

―TVでの喋りもそうですけど、もうすっかりお手の物というか…。

松木 いやいや、そんなことないですよ。いつも苦労しながらやっております(苦笑)。

―そうなんですか? ずっとやられてて慣れるものでもないんでしょうか。

松木 もう20年以上、30年近くやっていますけれど、何年やってもやっぱり大変だなと。講演でも、聞いて下さる方々は、いつも初めてお会いする方ばかりですから。その時々の環境に合うというか、準ずるところでお話ができれば、お互い納得がいく内容をお伝えできますが、そうではない時もありますからね。

―ある意味、サッカーの対戦もそうでしょうけど、相手チームありきで対し方を考えてですかね。

松木 相手が何を求めてるかを考えることが必要ですから。そこは本当に何%でもいいので、なんとか近づけたいなといつも心がけています。

―ところで、松木さんは元々、ご実家が日本橋のほうの鰻屋さんということですよね。

松木 日本橋というと洒落(しゃれ)ているように感じるかもしれませんが、小伝馬(こでんま)町という下町にあるんです。創業140年以上なので、本当にそれだけをずっとやってきた感じですね。

「実は、サッカーに出会う前は…」

―スゴい老舗(しにせ)なんですねぇ。小伝馬町って時代物とかで聞くような(笑)。まだ、そのお店は?

松木 やっていますよ。1回空襲の被害にあったんですが、そこでまた建て直して今まで続いています。母の実家でしたから、結構行ってたんですが、昨年、母を亡くしまして。母の兄の息子、つまり僕の従兄弟が継いでいます。最近は忙しいせいもあって、たまにしか顔出せていないですけれどね。

―なるほど。では下町育ちなんですね。やっぱりチャキチャキの江戸っ子ですか?

松木 下町ですね、バリバリの。三代以上は続いていますから。なんか、せっかちですし…そういう感じはありますね。

―勝手なイメージですけど、時代劇とかにべらんめえ調の江戸っ子役で出ていても違和感ない気がします(笑)。

松木 そうですか(笑)。実は、私はサッカーに出会う前は木馬座というぬいぐるみの劇団で子役をやっていたんですよ。昔、あの影絵の作品をモチーフに藤城清治さんがね、舞台をやられていたんです。

―木馬座はなんとなく知ってるんですが、みんなぬいぐるみなんですか?

松木 そうです。昔、ケロヨンというキャラクターがあったんですが、それが有名で、その流れで私はモグラのモグちゃんというキャラクターをやっていたんです。

―モグラのモグちゃん!(笑) それって自分からやりたかったのか、親に入れられたとか…?

松木 幼稚園の時に20人くらい声をかけられたんですが、その中に私もいたんです。そこから親がどうするかを判断した結果、やることになりましてね。

私の父は戦中の青春が全くない時代の人間で、6人兄弟の長男だったんですけど、自分から志願して戦争行ったそうです。強がっていたんでしょうね、昔は。戦後、生き残って帰ってきて…たぶん、自分の青春を息子に託すという意味もあって、いろんな経験をさせようと思ったのかもしれませんね。

私が20歳くらいの時、52、53で本当に短命で亡くなりましたけど、いろんなところ連れて行ってくれました。

―それでやってみて、子供心に人前に出る喜びであったり、拍手や歓声を浴びる恍惚(こうこつ)感も?

松木 いや、面白かったですよ! 演じるどうこうよりも、大人の中にいると可愛がってもらえますしね。それに、稽古なんかもう子供は寝なきゃだめだろうというような夜中にありますから、夜更かしできて楽しかったです。まぁそこで寝ちゃったりというのもあるんですけど。

昭和30年の後半、40年前後頃ですね。でもそういう大人の世界を目の当たりにしているから、こうやって仕事をしていくんだと子供ながらに感じた時期もありましたし。

「鍵っ子だったんで、相当やんちゃに…」

―演技のほうで自分って目立つの好きなんだなとか、人に見られてパフォーマンスするのが楽しいとかいうのは特に?

松木 どうなんですかね。結構、シャイでしたから。

―実はシャイなんですか? 元来は…。

松木 ひとりっ子でしたしね。しかも、父からかなり厳しく躾(しつ)けられて。優しい一面もあるんですが、基本は厳しいんです。全く軍隊式ですよ。

―ひとりっ子なんですね~! 実は私もなんですけど、意外と歳を取ると、逆に打たれ強く、兄弟が何人もいる中で育ったように見られがちじゃないですか?

松木 それはありますね。まぁそれもサッカーの競争というか、そういうところからきていると思いますけど。

―なんか本当に勝手なイメージで、下町江戸っ子なガキ大将気質で子供の頃から喧嘩もしてという、やんちゃな方なのかと…。

松木 それはまぁ…その通りですね(笑)。両親とも働いていたんで、鍵っ子だったんですよ。だから木馬座もそうだし、たぶんサッカーをやっていなかったら相当やんちゃになっていたかもしれないですね(笑)。

―グレてたかもと(苦笑)。ではそれで閉じこもりがちになっても不思議ないところを外の世界に?

松木 やっぱり楽しかったですね、サッカーをやっている時が。厳しい父の前ではじっと萎縮しているのが、外に行ってサッカーができる時はそこでもう発散するじゃないですか。そのバランスが良かったのかもしれませんね。

―そのサッカーでは、ずっとリーダー気質というか、キャプテンとかやられてるイメージですよね。当初から率先して自分が先頭に立って行くタイプだったんですか?

松木 サッカーは待たないでいい競技ですから。例えば、野球のようにバッターボックスで順番を待つことなく、とりあえずグラウンドに出れば、何をやってもいいですからね。

私はそんなにいい体格だったり恵まれた体ではなかったですけど、気質があったのかもしれませんね。もちろんレベルが上がればそれなりの役割もあるわけですけれど。

「とにかくがむしゃらな子供でしたよ」

―確かに体格に恵まれないほうが負けん気というかガッツあるタイプにね。でも私のひとりっ子観でいうと、結構周りを伺って、反響や反応を観察しがちなんですけど…。

松木 それは私に関しては父ばっかりでしたね。もう理不尽な怖さでしたし。ただ、母親がそこでバランス取ってくれていたんでしょうね。働きながら本当に苦労してやってくれていたんだと思います。

―そういう環境でサッカーでは解放されて、自分を押し出せる世界だったんですかね。

松木 たぶん向いていたんでしょうね。そういう時代にサッカーに出会えたので、自分のアピールにもなりました。ある種、父親に対する反骨心みたいなものがあったのかもしれません(笑)。

―ほんと人生の根本には父親があるんですね(笑)。男として超えてやるというか、立ち向かえる自分になるみたいな。

松木 そうですね。いつも叱られていましたから、でもそれがよかったんだと思いますよ。逆に私の闘争心を培(つちか)ってくれたというか。

―でもサッカーでも最初の頃はゴールキーパーやられていたとか。

松木 小学生の時はそうですね。

―それこそ、ある意味、忍耐というか辛抱のポジションのような気もしますけど。

松木 いや、コンクリートの上でも土の堅い所でも平気でバンバン飛んでいましたよ。肘なんか、軟骨だらけになってしまってもやっていましたからね。ポストに耳をぶつけて、耳が削げそうになったことも。そういうがむしゃらなコでしたね。

―キーパーでありながら前に出て、今で言ったらかなり攻撃的な…ノイアー(ドイツ代表)的ですか(笑)。

松木 とにかくがむしゃらな子供でしたよ。結局、それもじっと押さえつけられている中で、何かを発散していたのかもしれませんけど。これがうちでいい子いい子とされているようだったら、そんな闘争心は出ないでしょうね。競技選手には向かなかったかもしれないですね。

最近の傾向にある「みんな平等に」というような時代ではないので、チームでも先輩たちからいろいろ言われることもありましたし。でも、そこを乗り越えていかないと、選手としては大きくなれないと思いますね。だから環境としてはよかったですよ。

私は代表も晩年に選ばれたので…。それまで、何くそ!と上を目指してやってきましたけど、そういう気持ちもそもそもは父親の厳しい教育からですね(笑)。

「石川さゆりに池上季実子、林寛子と…」

―それで大学でも日体大に入られていながらヴェルディ、当時の読売クラブでプレイするため中退されたんですよね。

松木 まず暁星という所で小学校からサッカーに出会い、中学で読売クラブに入って。暁星の高校1年、2年くらいからトップチームの練習に参加できるような立場になって、16歳で昔の日本リーグでデビューしました。その頃から暁星は進学校ですから、中々、練習の時間をとるのは難しかったんですよ。今はJリーグがありますし、特定強化選手という名目がつくと、ある程度は学校から優遇されたり、授業を免除されたりなどありますけど、僕らの時代は全くないですからね。

自分でサッカーに専念できる環境を求めていて、ちょうど高校2年くらいで暁星の先生に「サッカーを真剣に取り組むなら、学校を変わったほうがいいんじゃないか?」とおっしゃっていただいたんです。紹介された学校がいくつかあるんですけど、その中で堀越学園の芸能コースが、スポーツでも将来プロを目指す生徒を援助していたので、そこがいいだろうということで高3で転校しました。

―昔から芸能人、アイドルを多数輩出している学校ですが。そこですでにサッカーを本腰入れてやっていく心構えになってたんですね。

松木 そうですね。午前中は学校に行って、午後から読売クラブの練習に向かう。そういう生活をやっていましたね。

―ちなみに堀越の同期でいうと芸能人はどういう方が?

松木 石川さゆりですかね。

―石川さゆりさん! それはビッグですね。

松木 あと前後にもいろいろいましたね。池上季実子ちゃんとか、林寛子だとか。男だと、城みちるは僕と同い年です。

―それはまた伝説的な…。さすが堀越という錚々(そうそう)たる名前ですねぇ。

松木 当時、彼らの世界は仕事としてきちんとやっていけてましたから。サッカーは全く…大体、何をやっているの?という世界で。サッカーの選手ですと言っても「ああそうなんだ」という時代ですよ。

ただ、暁星の授業は早めにその次の学年の内容までやっていたので私はなかなかついていけなかったんですが、堀越では暁星で学習済みの内容の授業ばかりだったので、一転して1、2番をとることができて。びっくりしちゃいましたね。

―はははは! 勉強のほうでトップになっちゃったんですね、へえー。

松木 だからみんな私のところに聞きにくるんですよ。こんな世界があったのかと思いましたよ(笑)。

―それで結局、大学進学までされて中退、仕事としてサッカーの道を進むワケですが。やっぱり読売クラブの体質っていうのも自分に合ってたんでしょうか?

松木 合っていましたね! 自由奔放にやらせてもらいました。元々、何も見えないところを手探りにいっていましたから。それもよかったんでしょうね(笑)。

●この続きは次週、5月8日(日)12時に配信予定!

●松木安太郎1957年11月28日生まれ、東京都出身。小学4年生で読売クラブ(現:東京ヴェルディ)に入団。高校時代にDFに転向し、16歳でトップトーム(当時、JFL2部)昇格。83年の日本リーグ初優勝をはじめ数々のタイトルを獲得、主将も務めた。日本代表としてメキシコW杯予選、アジア競技大会、ソウル五輪予選などに出場。90年に現役引退。読売ユース監督、トップチームヘッドコーチを経て93年、ヴェルディ川崎の監督に就任。同年と翌94年に第2ステージで優勝し、チャンピオンシップを制して2年連続優勝(Jリーグ最年少監督)。98年、セレッソ大阪、01年、東京ヴェルディ監督を歴任。現在はTVなどで解説者として活躍。

(撮影/塔下智士)