全日本の4番として逆指名で入団してからの19年間を語る元ソフトバンクホークス・松中信彦

現在では最後の三冠王となった、元ソフトバンクホークス・松中信彦が今春の現役引退後、ここまで語り尽くした! 

ホークス黄金時代の礎(いしずえ)を築いた4番打者であり、“ラストサムライ”ともいえる野武士プレイヤーが、打撃を極めた栄光と怪我からの苦闘を激白した対談インタビュー第2回!(聞き手/野球評論家・橋本清)●前編参照→「『三冠王のプライドは全部もう消えてました』」

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橋本 しかし、社会人から入団して19年か。ここまでやれるイメージはあったの?

松中 いや、まったく。3年目でレギュラー取ったと思いますけど、そこでダメだったら終わりって決めてましたし。その年はすごい覚悟を持って迎えましたね。それで結果出して自信にはなりましたけど、まさか19年やって三冠も獲れたりとか想像もしてなかったですね。

橋本 まぁ、アトランタ五輪の4番でね、鳴り物入りで逆指名で入って期待も大きかったし。プレッシャーもかなりあったと思うけど。

松中 全日本の4番は大成しないとかすごい言われてましたから。それを覆(くつがえ)したいって気持ちは強かったですけど。まずはレギュラーを取りたいってとこからですよね。

橋本 でも、そこからホークスの歴史をつくってきた自負はやっぱりあるやろ?

松中 でも、それは正直、自分だけじゃないっていうのがありますし。ここまできたのも小久保さん(裕紀[ひろき]、現日本代表監督)がまずいて、井口(資仁[ただひと]、現千葉ロッテ)、城島(健司)がいたり、みんなで一緒に強くしたいって思って。そういう生え抜きの選手たちがやっぱり王(貞治)会長の野球を継承して、今のホークスにつながってるというのは間違いないと思います。

橋本 ホークス移って、俺もビックリしたもん。主力がめっちゃ練習するから。強さを目の当たりにしてね。

松中 その前の弱かった時は小久保さんだけが最後まで残ってすごいやってたんですよね。僕も井口もそこを抜きたいって目標にして、練習でも先に帰れないだろうと。それがみんなに浸透して、今の若いコたちにも体に染みこんでるみたいな。そういう意味ではいい伝統を受け継いでいってもらってるなと。

究極は、変化球を待って150キロのストレートが打てる!

橋本 柳田(やなぎた、悠岐[ゆうき])とか、めっちゃ振るもんな。

松中 常に王会長にも練習から120%の力で振れって言われてましたから。それはありますね。セ・リーグのバッターなんて特に振らないですもん。形にこだわりすぎじゃないかって。

橋本 今の福岡ドームでテラス席できて、松ちゅんの全盛期やったらバレンティンの前に60本いってたやろ?

松中 僕の時、あれがあったらなぁとは思いますね(笑)。2005年なら50はいってました。まぁ、それがなくても46本打ったんで。それは自分でも誇れるかなと。

橋本 三冠王なった時はほんまどんだけ打つんやって。

松中 あの頃は本当にバッティングを極めたと思いましたから。2006年の交流戦の時にはもうこれ以上求めるものはないって感じましたし。僕の究極っていうのが、変化球を待って150キロのストレートを打てるっていう。それで対応できてたんで。それから足を怪我して崩れていきましたけどね。

橋本 まぁ、その三冠王獲った前と後でもね、プレッシャーというか気持ちはだいぶ変化があったんちゃうかなと。

松中 やっぱり三冠王というラベルがどうしてもついちゃうので。常にそういう成績を維持しないとってプレッシャーはすごかったです。2割5分、40本じゃダメですから。3割以上打って100打点でホームランもっていう。やりがいはあったんですけど、まぁ結構キツいですよね。

橋本 それでプレーオフとかここぞという時に打てない、みたいな批判もされてね。

松中 そういう場面が絶対回ってくるんですよね。やっぱり流れってあって、そういう選手はそれなりの厳しいところで必ずくるなと。そこを克服しないといけないし。自分の中では精いっぱいやったんで、それは受け止めてますけど。

(撮影/五十嵐和博)

◆この続きは、『週刊プレイボーイ』22号(5月16日発売)「松中信彦(元ソフトバンクホークス)独占インタビュー」にてお読みいただけます。松坂、ダルビッシュとのしびれる勝負についても独白!

松中信彦MATSUNAKA NOBUHIKO1973年生まれ、熊本県出身。新日鐵君津から96年、ドラフト2位で福岡ダイエーホークスに入団。2003年に初の打点王に輝くと、翌年には三冠王に輝く。06年にはWBC日本代表の4番として優勝に貢献。その後、けがで苦しみ二軍生活を経験、今春引退を発表

橋本清HASHIMOTO KIYOSHI1969年生まれ、大阪府出身。PL学園時に甲子園優勝。87年、ドラフト1位で巨人に入団。セットアッパーとして活躍、“勝利の方程式”と称されるが、けがのためホークス移籍後の2001年に引退。現在、評論などで活躍