ヘイトスピーチ対策法成立は日韓関係にとって一歩前進だが、「禁止・罰則規定を設けなかったことは率直に言って残念」と語る金恵京氏(撮影/細野晋司)

5月24日、ヘイトスピーチ(憎悪表現)対策法が衆院本会議で可決・成立した。

保護の対象となるのは「適法に日本に居住する日本以外の出身者やその子孫」で、現実的に在日コリアンが想定される。差別意識を助長する目的で生命や身体などに危害を加える旨を告知したり、著しく侮蔑したりすることを「差別的行為」と定義し、こうした行為は「許されない」と明記した。

しかし、禁止・罰則規定が盛り込まれなかった点、アイヌなど国内のマイノリティが保護の対象とならなかった点、また憲法で保障された言論・表現の自由との整合性について議論が続いている。

「週プレ外国人記者クラブ」第34回は、TV、雑誌など様々なメディアで活躍する韓国・ソウル出身の国際法学者、金恵京(キム・ヘギョン)氏に話を聞いた。

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―ヘイトスピーチ対策法について、韓国ではどのように報道されていますか?

 日本で行なわれているヘイトスピーチは、自分たちや同胞に攻撃が向けられていることもあって、韓国でも大きな関心を集めています。「在日コリアンへの攻撃を規制する法律が作られる」と伝えられた時にはメディアも大きく取り上げたのですが、条文に禁止・罰則規定が盛り込まれないとわかると批判の声が高まり、その後はトーンダウンしました。ヘイトスピーチそのものに対する関心は依然として高いのですが、国会で対策法が可決したというニュースは、どのメディアもそれほど大きくは扱わなかったと思います。

―金さんご自身は国際法学者として、また「適法に日本に居住する外国人」として、ヘイトスピーチ対策法をどのように評価しますか?

 日本と韓国の未来に向けて、今回の法案成立は一歩前進になったと考えています。しかし、それが満足のいくものだったかといえば、疑問が残ります。やはり、禁止・罰則規定を設けなかったことは、率直に言って残念です。今後は、せっかく規制法を作ったのですから、被害者が救済される内容、さらに言えば被害者を生まないための効力を持つものとなるように力を尽くすべきだと思います。

日本にはすでに「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」(2000年公布・施行)が存在し、『人権教育・啓発白書』という白書も毎年、法務省と文部科学省が共同で刊行しています。この法律の条文と今回のヘイトスピーチ対策法の内容を比較すると、保護の対象が明確にされたこと以外は、大きな前進があったようには思えません。逆に「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」で定められたことが着実に実行されていないために、ヘイトスピーチ対策法が必要になったともいえるでしょう。

沖縄の米軍基地移設抗議デモはヘイトスピーチ?

─保護対象が「適法に日本に居住する日本以外の出身者やその子孫」に限られたことについてはどうでしょう? ヘイトスピーチに象徴されるような差別が許されない理由は、より普遍的なもので、違法滞在の外国人や日本国内のマイノリティに向けた差別も同じ理由から許されないはずですが。

 ヘイトスピーチ対策法には、付帯決議として「人種差別撤廃に関する国際条約の精神に鑑(かんが)み適切に対処する」という一文が盛り込まれています。「人種差別撤廃条約」は1965年の国連総会で採択され、日本も95年に批准しています。

そこでの人種差別の定義は、「人種・皮膚の色・種族的出身などに基づくあらゆる区別・排除・制限または優先」となっています。アイヌや沖縄、あるいは被差別部落出身者などへの差別も、この条約に抵触します。また、日本国憲法14条でも「国民」という但し書きは付きますが、門地を含めた法の下の平等や差別の禁止が明記されています。

違法滞在の外国人をどう扱うかという問題については、09年にフィリピン人の両親が国外退去処分となり、当時14歳で日本にひとり残され、居住地域や通学校が排斥デモの対象になったカルデロンのり子さんのケースが思い出されます。このようなケースに対しても、国連の人種差別撤廃委員会は04年、日本政府に対して「人種差別に対する立法上の保証が出入国管理法令上の地位に関わりなく、市民でないものにも適用されることを保障すること」という勧告を行なっています。

人種差別撤廃の理念は、国境を越えた普遍的なものです。違法滞在の外国人でも、日本国籍を持つマイノリティであっても、人種差別の対象にしていいという理由はどこにもありません。

─憲法第21条で保障された言論・表現の自由との整合性はどうでしょう? 例えば、沖縄の米軍基地問題をめぐって、「米軍は出て行け!」という反対派住民のデモもヘイトスピーチにあたると主張する声もありますが。

 今回のヘイトスピーチ対策法で問題とされているのは、あくまでも「差別的言動」です。では、差別が行なわれる根拠はどこにあるかを考えてみると、自分が相手よりも優れているという「優越性」に行き着きます。沖縄で基地移設反対デモを行なっている人たちは、米軍に対して「優越性」など抱いてはいません。従って、沖縄の事例はヘイトスピーチ対策法により規制されるものではないのです。

また、日本の刑法では「名誉毀損罪」(第230条)、「侮辱罪」(第231条)、「脅迫罪」(第222条)が規定されています。これらの刑法上の規定が、言論・表現の自由を保障した憲法に抵触すると考える人はいないと思います。そして、現在横行しているヘイトスピーチには、これらの罪に該当するものが少なくありません。

─ドイツは、基本法(憲法)で言論・表現の自由を保障しながら、「ハイル・ヒトラー」という発言やナチ式の敬礼、ハーケンクロイツ(鉤十字)の意匠を掲げることなどに対しては厳しく取り締まっています。

 それは、民主主義の根幹をなす言論・表現の自由にも制限があることを国として示した例と言えます。その背景にあるのは、ナチの行為や思想を「絶対に継承してはいけない」という、戦後ドイツの強い決意です。また、ナチが迫害・虐殺の対象としたユダヤ人たちがドイツに対して感じる脅威や恐怖を低減させるという外交的あるいは内政上の意図もあったでしょう。

大切なことは、ナチ関連の例のように言論や表現を規制する際に「なぜ、それらを規制するのか?」ということを徹底して教育・啓発することだと思います。これが十分に行なわれないと、規制の背後に「何か真実が隠されている」と考える人が出てきたり、極右思想が広がる温床にもなりかねません。日本でも、ヘイトスピーチ対策法成立に加えて、「なぜ人種や民族などを理由とした差別がいけないのか?」という教育を徹底していく必要があります。

韓国では“日本語由来の外来語”が放送禁止用語に

─ドイツの例とは文脈が異なりますが、韓国でもかつて、日本の大衆文化の流入が制限され、日本語の歌謡曲を放送することなどが法律で禁じられていましたよね(98年以降、段階的に開放)。

 私は94年に韓国の高校を卒業して留学のため来日しましたが、高校時代は日本の歌手が日本語で歌っているCDを表立って買うことはできませんでした(04年に解禁)。「表立って」と言ったのは、実際には多くの人がコッソリと買っていたからです。また、警察の取り締まりもそれほど厳しくなかったように思います。

韓国のこういった規制を反日感情と結びつけて捉(とら)える人がいるかもしれませんが、現実は違います。規制が始まった当時、韓国には植民地時代の名残(なごり)もあって日本文化の影響がとても強く、規制をしなければ韓国の大衆文化が育たないという事情があったのです。

ちなみに、韓国では植民地支配時代から残っている“日本語由来の外来語”が、一般レベルでは今でも広く使われています。例えば、「おでん」「うどん」「バケツ」「タマネギ」などです。若い世代の間でも、親世代が使っている影響でそれらは普通に使われていますが、TVやラジオなど公共の場でアナウンサーやコメンテーターが使うことは許されません。法的な規制はないのですが、自制的な「放送禁止用語」というところでしょうか。

─「おでん」「うどん」がいわゆる「放送禁止用語」になっている背景には、そういった言葉が日本による植民地支配の負の遺産であるという認識があるのでしょうね。どこの国でも、文化と共に言葉も輸入される。戦中の日本でもプロ野球の試合でアンパイアが「ボール」「ストライク」と言うことが許されず、「だめ」「よし」とコールしていました。

 植民地支配時代の記憶を呼び起こすような言葉は放送禁止ですが、一方で今の韓国では日本人をはじめ海外出身者と結婚した韓国人の家庭を指す言葉として、「多文化家族」という呼称が定着しています。新たな人が家庭や家族に入って来ることに対して、現在の韓国が価値を見出している表れといえます。

韓国では1961年に軍事クーデターが起こって以降、81年に解除されるまで戒厳令が敷かれ、言論・表現の自由が厳しく制限されていました。戒厳令が解除され、憲法で保障された言論・表現の自由を取り戻したことは韓国人にとって大きな喜びでした。この権利が不当に誰かを傷つけるためではなく、すべての人にとって喜ばしいものに感じられるような環境を作っていくことが重要です。

言論・表現の自由というのは非常に奥が深く、重い責任を伴う権利です。私は日本で現在のようにヘイトスピーチが横行し、対策法まで作られた背景には日本の教育の問題、特に近現代史の教育が十分に行なわれていない現状があると考えています。せっかく自由があるのですから、それをより豊かな社会や文化を築くために使ってほしいと思います。

●金恵京(キム・ヘギョン)国際法学者。韓国・ソウル出身。高校卒業後、日本に留学。明治大学卒業後、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科で博士号を取得。ジョージ・ワシントン大学総合科学部専任講師、ハワイ大学韓国研究センター客員教授、明治大学法学部助教を経て、2015年から日本大学総合科学研究所准教授。著書に『柔らかな海峡 日本・韓国 和解への道』(集英社インターナショナル)、『無差別テロ 国際社会はどう対処すればよいか』(岩波現代全書)などがある

(取材・文/田中茂朗)