頬からしたたるものは、涙ではなく汗と語るイチロー

3000本安打達成後のベンチ。サングラスをかけたイチローの頬からしたたるものは、確かに涙に見えた。これを本人に直撃してみると…。

メジャー3000本安打に到達した世界一のヒットマンが、これまで本誌に語ってきた「イチロー語録」をあらためて繙(ひもと)く!

■イチロー自身はあれは汗、と語るが…

イチローは本当に泣いたのだろうか。

8月7日、コロラド州デンバー。打席数はさほどでもないが、代打ということもあって長く感じた足踏みの末、ついにイチローがメジャー通算3000本安打を打った。ロッキー山脈のふもとにして、標高約1マイルの高地にある“マイル・ハイ・シティ”、デンバーの青く、そして低い空に高々と舞い上がった白いボールは、イチローを三塁まで誘ってくれた。

イチローのもとにチームメイトが駆け寄り、歓喜の輪ができる。その直後、ベンチへ戻って座っているイチローを、真横からテレビカメラが捉(とら)えた。サングラスをかけたイチローの頬(ほお)にしたたるものは、涙に見えた。しかしイチロー自身は、あのときは泣いてないと言う。

本人の言い分はこうだ。

こういう話は泣いていたほうがウケるし、食いつきもいい。だからメディアは泣いていることにしたがるけど、あれは涙ではなく、汗。その証拠に、3000本が出る前の3打席はベンチに戻るたびにサングラスを外して両腕で顔にしたたる汗をさんざん拭いている。でも3000本を打って同じことをすれば、間違いなく「泣いていた」と言われてしまう。だから汗を拭うのを我慢していたら、汗が溢(あふ)れてしまった。

結局、拭っても拭わなくても、泣いていたということにされてしまう……まったく、こうであってほしいという方向へ思い込もうとする人間の悪いところが出てますよ、と―。

確かに流れる汗を拭うと涙を拭っているように見える。それを避けるためにあえて汗を拭わずにいたら、結果的に汗が溢れてしまった。その結果、余計に泣いているように見えてしまったというのだ。

そしてイチローが泣いていたという話がこれだけ広がってしまうと、本人がどれだけ否定しても打ち消すのはそう簡単ではない。『いやいや、やっぱりイチローは泣いてたよ。泣いてないと言い張りたい気持ちはわからなくもないけど、あれはどう見ても泣いてました、ハイ』なんてまくし立てられた日には、否定のしようがない。

世の中が欲しているのは“本当の話”ではなく“おもしろい話”

■弓子夫人にまつわる報道の「ウソ」

情報は怖い。

インターネットが普及してから、その怖さは格段に増し、しかも別種のものとなっている。極論を言えば、世の中が欲しているのは“本当の話”ではなく、“おもしろい話”である。真実のほうがおもしろくなければ、それが本当のことだったとしても広がることはない。なぜなら、欲しいのは真実ではないからだ。

今回のことで言えば、イチローが泣いていたという話はおもしろいが、あれは汗だという話はおもしろくない(イチローが汗だと言っている状況はおもしろいが……)。だから真実がどちらであっても、「イチローが泣いたってさ」という情報はあっという間に日本中を駆け巡るが、「あれは本当は汗なんだって」という情報が日本中を駆け巡ることはない。汗ではおもしろくないからだ。

今はまったく食べることのないカレーも、未(いま)だに「イチローは毎朝、カレーを食べている」と言いたがる人が少なくない。しかしそういう人も、今はカレーを食べていないという情報にどこかで触れる機会はあったはずだ。しかし、そこはスルーする。なぜなら「毎朝、カレー」はおもしろいけど「毎朝、パン」はおもしろくないから……要は、本当のことなど、どうだっていいというわけだ。

今回、デンバーでの3000本安打の瞬間をスタンドで見届けたイチローの妻、弓子さんについても、イチローの記録にかこつけて、色々な情報が流れた。100億円の不動産ビジネスを手掛けているとか、球場に姿を見せないのはそのビジネスのために全米を飛び回っている凄腕実業家だからだとか……どうやらそういう話は世の中的にはおもしろいらしい。しかし、このことを報じた雑誌の記事の内容は、あまりにも真実でないことが多すぎる。

弓子さんが副社長として名を連ねるイチローの会社が不動産を所有していることは事実だが、そのビジネスはすべて3年前まで在籍していた元社員が行なったもので、彼が会社を辞めた後も不動産はそのまま残っているというのが実態だ。イチローが遠征に出掛けた時間を使って弓子さんは会社の仕事に時間を割いてはいるものの、100億円の不動産ビジネスを手掛けているという事実は一切ない。

また、ある記事の中にあった「マーリンズの選手たちの妻を集めて料理教室を開いた」ことなど一度もないし、野菜は契約農家から取り寄せているというのも根も葉もない話だ。水はシアトルから、パンはアリゾナから取り寄せているという記述も事実と異なる。そもそも、彼女がマイアミで球場に足を運べないのは、不動産ビジネスが忙しいからではなく、試合を終えたイチローのための食事を、最高のタイミングで提供しなければならないからだ。

◆この続きは ⇒ 「日々、正確なルーティンを刻むイチローを支える、弓子夫人への“想いの変化”とは」

(文/石田雄太 撮影/小池義弘)