会見で弓子さんの存在について語るイチロー

3000本安打達成後のベンチ。サングラスをかけたイチローの頬からしたたるものは、確かに涙に見えた…。

これを本人に直撃した前編記事に続き、メジャー3000本安打に到達した世界一のヒットマンが、これまで本誌に語ってきた「イチロー語録」をあらためて繙(ひもと)く!

■1枚目は2分30秒、2枚目が1分30秒

42歳になってもなおメジャーで輝き続けるイチローの〝ルーティン〟はあちこちで賛辞されているが、そのルーティンに誰よりも深く、そして毎日関わることになる妻の苦労を想像したことがあるだろうか。

イチローのスケジュールは5分刻みになっていて、たとえば球場への出発時間が午後2時25分なら、食事時間はその30分前の午後1時55分からと決まっている。出掛ける前に食べるトーストを焼く時間は、1枚目が2分30秒で、2枚目が1分30秒。ちょうどいい焼き上がりにこだわって、トースターの余熱までを計算に入れているのだ。

一事が万事、次の日の試合のために球場を出るところから始まっているそんなイチローの緻密で妥協なき準備を、いかにスムーズに遂行させるか……その大変さは想像に難くない。イメージで言うなら、イチローは氷の上をまっすぐ滑るカーリングのストーンのようなものだ。そのストーンの行く手を阻むものをことごとくブラシで掃くスウィーピングが弓子さんの務めだと言えばわかっていただけるだろうか。

試合が終わって、早ければ25分で自宅へ戻ってくるイチローを待たせることなく、食卓に料理を並べるためには、イチローの試合を最後まで球場で観ている余裕はない。マリナーズ時代のようにスタメンが当たり前なら試合の中盤まで観るという手があったが、代打となると出番は試合の終盤。それではイチローというストーンに追いつけないのである。

3000本が懸かったデンバーでの試合では、前日にスタメンが発表されていた。どうしてもその瞬間に立ち会いたかった弓子さんは、信頼できるシアトルの知人に15歳になる愛犬・一弓(いっきゅう)の世話をお願いして、朝イチの便に飛び乗った。

そしてデンバーで試合を観て、帰りはチームフライトに同乗する。そうすればイチローと一緒に自宅へ帰れる……いや、本当はそれではアウトだ。帰宅したとき、イチローの食事ができあがっていないからだ。遠征先から何時に帰宅しようとも、イチローは必ず自宅で食事をする。それは、3000本を打った特別な日でも変わらない。

ならばと炊飯器のタイマーをセットし、料理の下拵(したごしら)えをして、一緒に帰宅したイチローの待ち時間が最小限になるよう、弓子さんはできる限りの準備をしてから出掛けた。デンバーからマイアミの自宅に戻ったのは午前3時。それから二人がどんなふうに過ごしたのか、イチローが会見でその一端を明かしてくれた。

「夜というか、朝ですからね、(家に)着いたのは……じつはチームメイトから(3000本のお祝いに)贈られたワインがあって、それを飲みました。夕食の前ですね……夕食か、朝食か、よくわからないですけど(笑)」

そんな時間に料理はどうしたのかと訊くと、イチローは照れくさそうにこう言った。

「料理は……作っていただきました(笑)」

何時に帰宅しようとも必ず自宅で食事をする

■「妻への想い」にみるイチローの変化

イチローイズムの検証―たとえば15年前、イチローは週プレのインタビューの中でこんな発言をしている。

「僕 と彼女はいろんなことに対する価値観がすごく似ています。僕がこうと決めてしている行動について、理解するか、疑問に思うか……いつも一緒にいる人にいちいち疑問に思われていたら、それはお互い、ものすごくストレスになると思うんです。でも、彼女に関してはそういうことがありません」

そして15年後、3000本を打った翌日の会見で弓子さんの存在について訊かれたイチローは、こう答えた。

「そんなこと、テレビカメラの前で言うの、恥ずかしくないですか(笑)。それはもう、お伝えするまでもないでしょうね。昨日(達成当日)も記者会見場に彼女がいたんですけど、『誰に最初に伝えたいか』と訊かれたとき、頭に浮かんだんですよ。でもそこにいたんで、そうは言えなかったし、僕もそういうの苦手ですからね。あの……公の場じゃないところで訊いてもらえるかな(笑)」

妻への想いをよどみなく語ったのは27歳のイチローだった。そして照れ笑いを浮かべながら今の想いを胸に留めようとするのは、42歳のイチローだ。ブレないイチローでも、歳を重ねるごとに変わっているところもある。

それでもイチローの野球に臨む姿勢に関しては、メジャーでの16年間、まったく変わりがない。そして、日々、正確なルーティンを刻むイチローの家での時々刻々を弓子さんが支えていることも変わらない。食事でいえば、彼が口にする食材のほとんどは、弓子さんがマイアミのスーパーマーケットで買い揃えている。日本人メジャーリーガーの中には、妻にも生活のサポートをする通訳やアシスタントをつけているケースは少なくないが、マイアミでの弓子さんにそういう人はいない。

たとえば、今シーズンの食卓に毎日のっている野菜炒めに欠かせない、シャキシャキしたキャベツがいつもの店にないとなれば、彼女はスーパーマーケットを何軒もハシゴする。慣れない土地に移って一人、妻としてイチローのルーティンを懸命に支える彼女が、不動産ビジネスで全米を飛び回っているなんて描写は、あまりに事実とかけ離れている。

イチローはこうも言った。

「家に帰って、二人で一弓の顔を見たときは、ホッとしましたね」

偉業を成し遂げて戻った自宅には、一弓が待っている。この穏やかな日常こそが、イチローと弓子さんが醸し出す今の空気を象徴している。

真実は決して華やかでもなければ、派手でもない。おもしろいからと話を鵜呑(うの)みにしてしまい、その後、どこかで真実が語られていたとしても受信できないような、そんな鈍いアンテナの持ち主にはなりたくない。“ほんとう”はいったい、どこにあるのか。情報が溢れている時代だからこそ、それを見極めなければならない。

イチローがあれだけのトーンで断言するときは、そこにウソはない。彼の言葉通り、イチローは泣いていない、汗を拭いていると信じて、もう一度、あの場面を見てほしい。そうすれば、そこには何か、違った景色が見えてくるのではないだろうか―。

(文/石田雄太 写真/小池義弘)