なぜ秋山準は、厳しい経営状況だった全日本プロレスの社長に就任したのか?

24年前、“超新星”の異名で颯爽(さっそう)とプロレス界に現れた秋山準(じゅん)。46歳となった現在も、全日本プロレスの社長レスラーとして闘い続けている。その波瀾万丈なるプロレス人生に、“GK”金沢克彦が肉薄する――。

***

秋山準、46歳。プロレスキャリアは25年目。ジャイアント馬場が創設し、44年という歴史を綿々と紡いできた全日本プロレスの10代目社長を務めている。

現在のマット界を見渡すと、全日本とともに二大メジャーといわれてきた新日本プロレスが独走している感もある。全日本はここ5年、経営者が次々と交代し、退団選手が続出するなど、その歩みは決して順風満帆ではない。

そんな状況のなか、プロレスリング・ノアを退団し、秋山は古巣の全日本へ舞い戻った。しかしその後も、武藤敬司ら大量の選手が新団体WRESTLE-1に移籍し、全日本は存続の危機に瀕(ひん)した。

「全日本を二度は裏切れない」

秋山は全日本と心中する覚悟で一昨年7月、全日本プロレス(オールジャパン・プロレスリング株式会社)の代表取締役社長に就任したのだ。

プロレスラー秋山準の実力が今も業界屈指のものであることは誰もが認めるところ。ただし、そのイメージは常に尖(とが)って波風を立てる次男坊のような存在。組織のトップに立つという姿はなかなか想像できなかった。

その秋山がなぜ、この厳しい状況で大役を引き受けたのか? 彼は率直にこう答えた。

「(社長就任の決断は)ものすごい重大でした。僕の人生っていつも何かに乗っかってきた感じなんです。レスリングを始めたきっかけも、専修大学に入ったのも、プロレスに行ったのも、ノアに行ったのも…。自分で下した決断は結局、ノアを出て全日本に戻るっていう、それが初めてで。

社長就任は、最初は俺じゃムリだって思ってましたよ。本当に葛藤はありました。だけど、最終的にはやっぱり俺じゃなきゃダメなんだろうなと思って、受けることにしたんです。こんなにキツイんだって思いましたけどね。そのとき初めて三沢(光晴)さんの大変さがわかりました」

秋山に言わせれば、これまでの人生は「たまたま」の積み重ねだったという。そんな秋山のプロレス人生をスタート地点からふり返ってみたい。

大 阪府立高石(たかいし)高校レスリング部で頭角を現した秋山は、名門・専修大学にスカウトされ進学した。川崎市生田(いくた)のレスリング寮は5人部屋 で、秋山は当時4年生ですでに別格の強さを見せつけていた中西学(現・新日本プロレス)と相部屋になった。古き慣習に縛られがちの体育会寮にあって、中西 だけは「秋ちゃん」と呼んでかわいがってくれた。

後に1992年バルセロナ五輪に出場した中西は、同年10月に新日本でデビュー。一方、秋山は9月に全日本でデビューした。この専大出身の先輩・後輩はそれぞれ“バルセロナの星”、“超新星”と呼ばれ、両団体のスーパールーキーとしてライバル視されるようになる。

「馬場さんが『俺に任せてりゃあ大丈夫だから』って」

1992年9月17日、デビュー戦はセミファイナルという破格の扱いで、あの小橋建太を相手に接戦を展開してみせた

それにしても不思議なのは、専大レスリング部といえば長州力(72年ミュンヘン五輪代表)、馳浩(84年ロサンゼルス五輪代表)、中西と将来の新日本入りが既定コースのように思われていたが、なぜ秋山は全日本へ入門したのか?

「(新日本入りの話は)全然なかったです。新日本さんは全日本王者とかオリンピッククラスの人を求めてたと思う。僕は全日本には出てましたけど、チャンピオンでもないですし、(僕のことは)見てなかったと思うんですよね」

確かに、秋山の1学年上で早稲田大学出身の石澤常光(ときみつ=ケンドー・カシン)にしても、日本体育大学出身の永田裕志にしても、元・全日本王者という実績を持って新日本に入っている。

だが、そもそも秋山は、プロレスラーになるという夢は抱いていなかったという。

「プロレスのことはまったく意識してなかったです。ファン目線で全日本も新日本も見てました。『日米レスリングサミット』(WWF、全日本、新日本の合同興行)ってありましたよね? あれを東京ドームで見て、(ジャンボ)鶴田さんのバックドロップにゾクゾクした。そういう面で鶴田さんに特別なものを少し感じていたくらいで。

大学4年の夏頃に某企業に内定もらって、大阪に帰るつもりでいたんです。(レスリングの)クラブチームをその会社がつくるという話で、僕が最初の選手になるということになって」

そのまま社会人チームでレスリングを続けていれば、今の秋山はいない。ここで、秋山の運命を変える大きな「たまたま」の出来事が起こる。専大レスリング部の松浪健四郎監督から呼び出され、いきなりジャイアント馬場との面談が実現したのだ。

「馬場さんが『俺に任せてりゃあ大丈夫だから』っておっしゃって。説得力というか、確かにそうだよなと思わされることもあったんです。その後、内定をもらった会社で社長面接があって、その帰りに40代くらいの社員の方と同じバスに乗った。

つり革を持ってすごい疲れた感じの姿を見て、ああ俺も40代くらいになったらこうなるのかなって思ったときに、自分の可能性を試してみたいなって。そのとき初めて思いました、プロレスをやりたいって」

こうして入門した全日本プロレスでは、同期に同い年の大森隆男がいた。ただ、入門時の扱いには大きな差があった。格闘技のバックボーンを持たない大 森は前座からスタートしたが、秋山は最初からメイン、セミクラスのポジションに置かれたのだ。それもあってか、秋山は同じ92年デビュー組である新日本の 若手選手たちを強く意識していた。

「オリンピックに出た中西さん、1個上の永田選手、石澤選手にもレスリングの実績ではかなわない。そこに叩き上げの大谷(晋二郎)選手、高岩(竜一)選手がいて、その中から飛び抜けるのは大変だろうなって思ってました。

そういう意味では、(全日本には)飛び抜けた新人がいなかったので、ちょっと頑張ったら上に行けるんじゃないかって。だから、彼ら(新日本の若手)に負けちゃいけないって思いましたね。僕は馬場さんに拾われたって思っていたんで」

「あの人たちからどうリスペクトされるんだよ」

デビュー年の年末、「世界最強タッグ決定リーグ戦」に田上明と組み出場。最終戦で三沢光晴&川田利明組に敗れた。四天王、特に川田にはボコボコにやられ鍛え上げられた

入門してからは小橋建太が練習を見てくれた。練習の虫である小橋のトレーニングは一日5、6時間にも及び、徹底して鍛えられた。そして92年9月17日のデビュー戦で、秋山はファンや関係者の度肝を抜いた。あの小橋を相手に大健闘どころか接戦を展開してみせたのだ。

ところが、この早熟ぶりが秋山自身に苦悩をもたらす。ルーキーにして特別扱い。プレッシャーもあるが、期待には応えたい。ただ、技術、経験が伴わないから三沢、川田利明、田上明、小橋の“四天王”との力量差を思い知ることになったのだ。

「ものすごい差を感じてました。めちゃくちゃ苦しかったです。四天王の中にポーンと放り込まれて、ついていくのに必死で。僕はもう人形みたいなもんで、言われたとおりにやってる感じでした。

“五強”とかいわれた時代もありましたが、イヤでしょうがなかった。あの人たちとは違うから、俺を入れてくれるなと、ずっと思ってました。あの4人は敵対していてもお互いをリスペクトしている、俺なんてあの人たちからどうリスペクトされるんだよって」

その象徴的事件がある。

「それこそ試合では何回も脳震盪(のうしんとう)を…僕は断トツで多いです。今なら脳震盪起こしたら翌日から絶対に休ませますけど。僕の場合、3試合連続というのがありましたから。

まず、川田さんのスピンキックで割と深い脳震盪を起こして。次の試合はスティーブ・ウイリアムスのラリアットで、最後はジミー・デル・レイのシットダウン式のパワーボムで。たぶん、初日のスピンキックで揺れやすくなってたんでしょうね、普段だったらパワーボムで脳震盪は起こさないですから。

試合はちゃんと終えて、帰るところまで覚えてるんです。でも、花道下がるときに、お客さんの声援がだんだん小さく聞こえてきて、『ああ、ヤバイヤバイ』って思いながら控室に帰って座って、小橋さんに『準、大丈夫か?』って言われたところまでは覚えてる。そこから前に倒れて、そのまま。気がついたら救急車の中ですよ」

当時を淡々とふり返る秋山だが、きっかけが川田のスピンキックだったことは興味深い。意図的かどうかはわからないが、川田の後輩への叩き潰しには感情がこもっていた。

この頃から川田という存在は、秋山にとって特別なものへと変わっていった。慕っていたのは小橋であり、三沢。ただし、感情むき出しで、ともすればプ ロレスの一線を越えかねない川田のプロレスのほうが秋山のそれに近い。いつの間にか、川田の試合にインスパイアされていたのだ。

「僕の“リズム”は川田さんですよ。完全に川田さんです」

秋山の新弟子時代、プロレスは教わるものではなく、見て体感して「盗め」と言われていた。今、秋山はそれを伝承させるべく若い選手を積極的に指導している。秋山の言う“リズム”とは何か?

「僕がやっているリズムは、僕がやられていたリズム。川田さんにボッコボコにやられたリズムをやっているだけです。これはもう教科書みたいなもので、若いコを指導するときにも四天王のリズムを教えています。

体で覚えられれば一番いいけど、なかなか難しいので、音で表現するんです。中でボーン、外にガシャーン、鉄柵にゴーン、で、外にバーンって。ゼウスや(宮原)健斗がよくなったのはそのリズムがつかめたからです」

なんだか長嶋茂雄さんの指導みたいだが、ことプロレスに関しての“音”は重要な要素。音によって見た目の迫力は何倍にも増すし、痛みを象徴するものでもあるからだ。

「この人たちができないことをやってやる」

2001年3月2日、ZERO-ONE旗揚げ戦で、三沢のパートナーとして橋本真也&永田裕志と対戦。橋本相手に一歩も引かず、永田との間には友情が芽生えた

四天王時代を経て、秋山が本気で頂点を意識し始めたのは2000年7月、ノアへ移籍してから。旗揚げ2連戦の初日(小橋&秋山vs三沢&田上)では三沢、田上の順に秋山がひとりで2本を連取して勝利。2日目には小橋との一騎打ちで勝利を収め、ノアの新エースを強烈に印象づけた。

「ノアに行ったのも、たまたま人に乗っかった感じかもしれないですが(笑)、ここで俺が出ないといけないっていう気持ちはものすごく強かった。三沢さん、田上さん、小橋さんも調子がいい感じではなかったし、特に三沢さんは社長として会社を起こすときの疲れがあった。今だったらこの人たちに追いつくチャンスかもしれないって」

翌01年3月、秋山にレスラー人生最大のチャンスが訪れた。新日本を解雇された橋本真也が設立した新団体ZERO-ONEの旗揚げ戦で、メインへの登場が決まったのだ。

カードは、橋本&永田vs三沢&秋山戦。新日本カラーばりばりの2選手との初遭遇に秋山は燃え上がった。

「あれは、プロレスラーとしてのターニングポイントになったと思います。橋本さんの目が三沢さんだけにいっていた。じゃあ僕は永田裕志と、この人たちができないことをやってやるって思った」

試合を通じて、ふたりは体で会話した。それぞれに、四天王超え、闘魂三銃士超えを胸に秘め、激しくぶつかり合い、共鳴した。

「同じような状況なんだろうなって思いましたし、試合していて楽しかった。僕がこれをやったら彼はこうくる。その上をやったらまたこうくるっていう。彼がいたからできたこともたくさんありますし、いてくれてよかったと思います。何かを語り合ったりというのはないですけど、一番共感できるところにいる人じゃないですかね」

この一戦をきっかけとしてふたりにホットラインができた。同年10月、秋山は新日本の東京ドーム大会のメインに登場し、永田&秋山vs武藤&馳というドリームタッグ対決が実現。さらに翌02年の1・4東京ドームでは秋山vs永田のGHCヘビー級選手権がメインを飾った。ノア最高峰のベルトを巡る闘いが、新日本のドーム大会を締めくくったのだ。

03年8月には新日本の「G1 CLIMAX」に初参戦し、天山(てんざん)広吉と優勝決定戦を闘った。2000年代前半のマット界は、秋山を中心に回っているようだった。

「当時は『俺が動かしてるんだ』みたいな感じでした(笑)。実際に動いていたのは三沢さんや新日本の上の人たちですけど、こいつにやらせれば大丈夫だって信頼してくれていたとは思います」

●続編 ⇒『全日本プロレス社長・秋山準が激白した三沢光晴との最後の会話…そして“王道”再生への覚悟』

●秋山準(あきやま・じゅん)1969年10月9日生まれ、大阪府和泉市出身。三冠ヘビー、世界タッグ、GHCヘビー、GHCタッグなど多くのタイトルを戴冠。現在は社長レスラーとして、第一線で熱い闘いを続けている。全日本プロレスは11月27日(日)に「カーベルpresents 全日本プロレス in 両国国技館」を開催。そのほかの大会など最新情報は公式サイトまで

(取材・文/金沢克彦〈元『週刊ゴング』編集長〉 撮影/保高幸子 試合写真/平工幸雄)