教育の重要さと怖さを感じたと語る直木賞作家・森絵都

直木賞作家森 絵都の5年ぶりとなる長編『みかづき』が刊行された。

これまで、友達関係に悩む中学2年生の女の子の揺れる心を繊細に描いた『つきのふね』、水泳の飛び込み競技に打ち込む少年たちを題材にした青春スポ根小説『DIVE!!』等、10代の子供たちを描いてきた彼女が今回、題材としたのは学習塾を舞台とした“教育”。

物語は、まだ“塾”という言葉が世間に浸透していなかった昭和36年から始まる。小学校の用務員をしていた大島吾郎は、仕事の傍ら、授業についていけない子供たちに課外で勉強を教えていた。そこへ、教え子の保護者である赤坂千明から一緒に塾を開かないかという意外な誘いが…。

ある密告から千秋の家に居候することとなった吾郎。ふたりは夫婦となり、学校教育の変化に翻弄(ほんろう)されながらも、塾の地位向上のため奮闘する。吾郎と千明、その3人の娘たち、さらに孫の一郎までの親子3代を通して、激動の昭和から平成にかけた教育の変遷とリンクしながら描かれる壮大なストーリー。

なぜ今“教育”だったのか? そして“家族”なのか? 渾身の大長編に込めた想いを伺った。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)。

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―『みかづき』は、ご自身でも初となる雑誌での長編連載をまとめたものですが、とても大きなテーマに手をつけられたなと。最初のきっかけはなんだったんでしょう?

 常に「今までやったことのないものを」と思っていて。今回はこれまで書いたことがなかった何代にも渡る長い家族の物語、“横の繋がり”ではなく“縦の繋がり”を書きたいというのが初めにありました。

―今回のテーマである学校教育と塾の裏面史であり、長編への挑戦に至ったのは「今だから書ける」という思いが?

 そうですね。やっぱり年齢によって「今だからこそ書けるもの」ってあると思うんですよ。それが私にとって“教育の変遷を背景にした家族の物語”だったんです。これまでの積み重ねの中で、資料の集め方や取材の方法等、ある程度、仕事のやり方が見えてきた時でもあったので、結構ややこしい試みではあったのですが、今だったら挑戦できるのではないかという思いはありましたね。

―約2年に渡る連載の中で、塾の関係者の方への取材や参考資料の読み込み等もかなりされたということで。途中で「とんでもないものに手を付けてしまった…」という怖さはなかった?

 怖さは常にずっとありましたね。最初からゴールを決めて書いていたわけではないですし、教育関連の資料は読んでも果てしなくて、調べれば調べるほど新しい何かが出てくるのでキリがないなと。もう、“教育地獄”に陥ったみたいになっていて…。ただ、とにかく書き始めたからには最後までいくしかないという気持ちでしたね。

―作品の章立ては、昭和30年代、40年代と、時代ごとになっていますが、そのプロット作りも苦労されたのでは?

 塾業界や公教育における大きな転換期や事件が起こった年を描いていきたかったので、そのポイントに章を設定していきました。ただ、そこで登場人物たちの家族のドラマが動いていなければ、ただ「こんなことがありました」で終わってしまうので、教育の背景にどう家族のドラマを食い込ませていくかっていう部分の壁が一番大きかったですね。

まず、何年に何が起こったかがわからなければ物語が作れないので、年表を作るところから始めました。この年に「塾や学校教育では何が起こっていたのか」ということはもちろん、石油ショック等の歴史的な出来事や、総理大臣が誰だったのか、世間では何が流行っていたのか、ということも細かくまとめていきました。

日本の教育制度は大丈夫なのだろうか

―まさに労作というにふさわしいですが、そこまでの情熱を傾けられたのは相当な思い入れがあったのかと。

 “学校”“教育”というものが、私の中でずっと引っかかっていたんですよね。私は長く10代の子供たちの話を書いてきたんですけど、そうすると学校が舞台になることが多いですよね。学校って、時代時代で教え方も変わるし、総合学習の授業が入ってきたり、いろいろな変化があって。

私が学生だった頃も「詰め込み教育」「受験戦争」と言われていたかと思ったら、いきなりゆとり教育が始まって、それもあっという間に終わって…。その裏にどんな流れがあったんだろうっていうのは、ずっと気になっていたんですよ。それをちゃんとわかった上で、子供の話も書きたいというか。

そもそも、教育の背景を把握したいというのがあって、「それを小説にしたい」のとはまた別の願望だったので、自分の個人的な調べ事としていつかやろうかなと思っていたんです。でも、今回こういうテーマを思いついた時に「あ、これは小説でやってもいいかも」って。

―ご自身の興味で入り込んだものが、上手く小説の題材として昇華できたと。作中では、戦時中の国民学校で偏った軍国教育を受けた千明が、学校教育と対立して塾経営に奔走するように、登場人物のバックボーンにも“国家と教育”が関わっていますよね。

 「昭和九年生まれの悲劇」と千明も言っていますけど、彼女と同じ年に生まれた人達って、小学校が「国民学校」と名前を変えた年に義務教育がスタートしているので「小学生」と呼ばれたことがない世代なんですよね。その人達の存在を知った時に何か象徴的な感じがして…。

今回、親、子、孫と3世代の家族を描いていますが、それぞれ受けた教育が違うわけですよ。人間って、親や周りの人間からも影響を受けますけど、やっぱり学校で受けた教育にも影響されているんじゃないかと。3世代を描くことで、それが描ければいいなというのがありました。

―それぞれの登場人物が時代を背負っているような…。「受験戦争」「ゆとり教育」など様々な問題が背景となりますが、描かれていく中で問題の根の深さも痛感されたのではと。

 そうですね。書いていく中で、教育の重要さとともに怖さは常に感じましたね。また時代が変われば、戦時中のように教育が国策として利用される世の中が来るかもしれない、と。私自身は受験戦争を体験した世代ですけど、今考えれば、国の施策に結構踊らされていたんだなと思いますし。

教育全体を考えると、本当に文科省だけの問題ではなくて、財界や政界、アメリカとかいろんな人が口を出して、ぐちゃぐちゃになってるわけですよね。調べていくうちにそれが見えれば見えるほど無力感というか、「日本の教育制度は大丈夫なのだろうか」という不安ももちろんあって。お先真っ暗というか…。

なんでこんなに一貫性がないんだろうという気持ちに何度もなりました。それは教育に限ったことではなく、すべてがそうで。長期的な柱を立てなければ何もよくならないですよね。

◆後編⇒『学校がキラいだった直木賞作家・森 絵都が描く“もうひとつの教育” 「挫折をしても、人生がそこで終わるわけではない」』

●森 絵都(もり・えと)1968年、東京都生まれ。早稲田大学卒業。90年、『リズム』で講談社児童文学新人賞を受賞しデビュー。『つきのふね』(野間児童文芸賞)『カラフル』(産経児童出版文化賞)『DIVE』(小学館児童出版文化賞)など代表作多数で、06年には『風に舞いあがるビニールシート』で直木賞受賞

(構成/岡本温子[short cut] 撮影/高橋定敬)