楽天から6位指名された帝京大の準硬式出身左腕・鶴田圭祐

MAX156㎞右腕・田中正義(創価大)、甲子園を湧かせた150㎞左腕・寺島成輝(なるき・履正社)を筆頭に「投手豊作」と言われた今年のプロ野球ドラフト会議。

上位に居並ぶスター選手を尻目に、下位指名を見ると、各球団の「隠し球」らしき無名選手の名前がチラホラと見られる。そのひとりが楽天6位指名の鶴田圭祐。帝京大の準硬式野球部に所属し、MAX149㎞を誇る快速球が武器の大型左腕だ。

そもそも準硬式野球ってどういうものなのか? まず、そこから説明が必要だろう。

いわゆる「軟式野球」とも違う。中身は硬式球と同じコルクで、表面だけが軟式球のように天然ゴムで覆われた「準硬式球(軟式H号)」が用いられる。硬式球に比べて空気抵抗が大きく、球速が5kmほど遅くなると言われているが、鶴田のストレートを単純に硬式に換算したら、150km前半ということになるわけだ。

そんな逸材が、なぜ硬式野球の第一線にいなかったのか? 驚くべきことに、鶴田は高校(香川・寒川高校)時代、投手をしていなかった。投手として入学したものの、制球難で投手失格の烙印を押され、そのまま卒業まで外野手としてプレーしていたという。チームは鶴田が2年生の秋に四国大会まで勝ち進んだが、甲子園には出場することができずに終わった。

卒業後、スポーツ推薦で強豪大学に進むことを望んだが、実績不足からどこの大学にもセレクションでふるい落とされることに。一度は野球を諦め、一般の受験生と同じように指定校推薦で帝京大に入学した鶴田は、高校の一期上の先輩に誘われ準硬式野球部に入部する。準硬式に関する知識があったわけでもなく、「これからは野球を楽しもう」と、最初はサークル活動のような感覚だったという。そして、左投手が少ないというチーム事情から「ピッチャーやったらどうや」と勧められ、投手人生を再スタートさせることになった。

大学の準硬式野球部は基本的にどこも授業優先。強豪校の硬式野球部のように、一日中練習ができるような環境ではない。帝京大も専用のグラウンドはなく、アメリカンフットボール部の練習場を借りて、授業開始前の早朝2時間が毎日の練習。当然、傾斜のあるブルペンなどはなく、鶴田はずっと平地でピッチング練習を続けてきた。

また、選手寮もないのでアパートを借りての自給自足。親からの仕送りだけでは足りず、深夜まで近所のスーパー銭湯でアルバイトをして用具代などをまかなってきた。それでも「それがハンデだったとは思わない。そういう環境が自分には合っていた」と鶴田は言う。

皮肉にも不利な環境だったからこそ…

帝京大もそうだが、準硬式の場合、ほとんどのチームは硬式野球部のような常勤の指導者もいない。日常の練習メニューなどは部員が主体になって考え、取り組んでいるチームが多い。

そこでレベルアップをしていくためには強い自制心と思考力が必要になる。選手達の中には、高校時代の厳しかった環境から解放され、タガが外れたかのように練習しなくなる者もいるというが、それも仕方ないだろう。甲子園のような目標があるわけでもなく、子供の頃から夢見ていたプロ野球は、もはや届かない世界になってしまったのだから。

では、そんな環境の中で、鶴田はなぜ台頭してきたのか?

「よく周りから真面目すぎると言われるのですが、こと練習に関しては、常に真面目に取り組んできたつもりです」

と本人も言う通り、元々、考えすぎたり、要領の悪いところがあった。だから高校時代は、試合や練習でちょっとしたミスをして監督に怒鳴られたりすると、それだけでテンパってしまい、力を出せなくなることが多かったというのだ。それが「大学に来て、準硬式の環境の中で、何かあった時に自分でちょっと考える余裕ができたんです」と振り返る。

技術的にいえば、硬式よりもやや軽い準硬式球が鶴田には合っていたようだ。テークバックがスムーズに取れるようになり、リリースポイントが安定してきた。当然、コントロールも落ち着いてくる。本来、鶴田の投げるボールには角度があり、左打者はもとより、右打者も「内角に食い込んでくるから怖さがある」という。それに磨きがかかった。

また、何よりも実戦を数多く経験できたことが大きかったのだろう。硬式の強豪校であれば、登板機会を得るまでが大変だ。特に鶴田のような無名の選手は、甲子園で実績を残したり、プロから注目されたようなような投手が何人もいたら、見向きもされなかったはず。皮肉なもので、硬式の表舞台から一度は外れたことで、今の鶴田が生まれたという考え方もできる。

高いポテンシャルは次第に開花し始めた。入学当時、まだ所属リーグの二部にいた帝京大だが、3年春のリーグ戦、鶴田は青学大戦でノーヒットノーランを達成。チームも優勝を果たすと、入れ替え戦も制し、実に25年ぶりとなる一部復帰を成し遂げる。

そして秋、一部の強豪・日大戦で、現時点でのMAXとなる149kmを記録。好調時、ストレートはコンスタントに140kmを越えるまでに。この頃から「準硬式に速い球を投げる左投手がいる」という情報が広がり、リーグ戦でもプロのスカウトが球場に視察に来ることが多くなっていった。

準硬式でもプロでやれるんだと証明したい

もっとも、本人はそうした周囲の喧騒に対して半信半疑だった。

「プロを現実的に考え始めたのは今年の5月くらいですかね。まだ最近のことです。取材とか取り上げられる機会が増えて、注目されているという実感があったので」

それでも「自分がどれくらい(プロから)評価されているのか?」という不安はドラフトの当日まであった。準硬式の場合、卒業への単位取得や就職活動に集中するため、3年生いっぱい、あるいは4年春のリーグ戦までで区切りを付け、引退する部員が多い。そんな仲間達の中で、卒業後も野球を続けることを決意した鶴田は秋まで現役を続けてきた。

そして迎えたドラフト当日。大学キャンパス内に用意された記者会見場で、自らの名前が読み上げられると、横に座った浅野修平監督と握手を交わし、ほっとしたような表情を浮かべながら「正直、自分では(指名が)あっても育成だと思っていたので、嬉しい限りです」と思わず本音を口にした。

現実問題として、過去にも準硬式野球出身の投手がドラフト指名を受けてプロ入りした例はある(直近では、群馬大の神田直輝投手=09年巨人育成)。しかし、なかなかプロで活躍するまでには至っていない。やはり、準硬式での実績をそのまま硬式に置き換えるわけにはいかないのだろう。

直前に手を引いた球団がある中で、最後まで指名の可能性を伝えてきた球団がいくつかあった。その中でも熱心だったのが楽天だったという。育成での獲得も可能だった状況で、あえて支配下での指名に踏み切ったのは、この〝未完の大器〟に対する期待の表れともいえる。

鶴田は楽天について、東北の震災や2013年の優勝の印象が強く「地域の人に勇気づけられたチーム。僕も早く一軍に上がって活躍し、地域の人を勇気づけられる存在になりたい」と語る。また、同郷(滋賀県)の先輩にあたるエース則本昴大(たかひろ)に対し「尊敬している人。力のあるストレートを投げられるので、一緒にやらせてもらって教わりたい」と対面を心待ちにする。

今年、大学を卒業する学年は、このドラフトでも田中正義や佐々木千隼(ちはや・桜美林大)が1位指名を受け、いまやプロ野球を席捲する勢いがある〝大谷翔平世代〟。その中に、鶴田は異色の存在として割り込んでいく。大谷とも同じパ・リーグだけに、いつか対戦する機会に向け「楽しみしかないです」と目を輝かせる。

そして、一度は野球を諦めた自分をこうして夢の舞台に導いてくれた準硬式野球に対し、特別な思いを語る。

「今は、準硬式からプロは難しいと思われている。でも僕が頑張ることで、準硬式でもプロでやれるんだと証明したい。そうやって、お世話になった人に恩返ししていきたい」

子供の頃からプロ野球を夢見ながら、高校3年間では開花しきれず野球の表舞台から消えていく選手はたくさんいる。鶴田の「準硬式ドリーム」は、そうした選手達にも新しい可能性を示すことになるはずだ。

(取材・文/矢崎良一)