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最初は名前も「そば清」だった!? 創業50周年の「富士そば」会長が語る“秒殺の土地選び”とは

[2016年11月14日]

創業50周年を迎えた「富士そば」の会長・丹道夫氏

首都圏で働くサラリーマンであれば、一度はお世話になっているであろう立ち食いそばチェーン「富士そば」(現在は東中野店を除く全店にイスがある)。

実は『週刊プレイボーイ』と同い年の1966年創業で、今年が50周年。今では1都3県に100店以上を展開する富士そばを築き上げた丹 道夫(たん・みちお)会長は、四国の田舎町から上京しては失敗を繰り返し、4度目の上京でようやく成功を手に入れた苦労人だ。

80歳を迎えた今でも現役バリバリで、店回りを欠かさない丹氏に波乱万丈の人生を振り返ってもらいつつ、客にも従業員にもやさしい超ホワイトな経営哲学を語ってもらった。

* * *

―50年前に富士そばを作られた頃は、どんな世の中だったんですか?

 社会の景気はものすごいよかったね。戦争で縛られていた反動で娯楽がたくさんあった。当時、池袋店が映画館の軒下を借りて営業していたんだけど、『性の氾濫』なんて映画をやっていたのを覚えてるなー。

―すごいタイトルですね(笑)。週プレもそんな時代に創刊しました。

 『週刊プレイボーイ』もすごいタイトルだよね。僕も最初は飛びついたもんですよ(笑)。

―会長は富士そばを始められる前から、かなり波乱万丈な人生を送ってきたそうですね。

 僕は四国の生まれなんだけど、上京しては夢破れてを繰り返してね。1回目は面接で不採用になって帰郷、2回目は電車を間違えて福島の炭鉱で働いたり、東京の印刷所で働いたりしたけど、住み込み先で南京虫に襲われて倒れちゃった。3回目は栄養学校を卒業して、病院で栄養士になったけど、父が病気になって帰らざるをえなかった。4回目の上京でやっと定住することができたんだよね。

―それは何歳くらいの時だったんですか?

 25歳くらいだったかな。その頃から電化製品が普及して、大手の会社が下請けに発注するんだけど、仕事が増えすぎて、下請けがついてこられないくらいだった。地方から人がどんどん東京に出てきて、その人たちにネジとかを作らせるでしょ。最初はその人たちに食事を作るおばさんたちがいたんだけど、そのうちおばさんたちまでネジを作るようになった。それで弁当屋が流行ったの。

僕はその頃、味噌汁の素を売る食品会社に就職したんだけど、その会社は弁当屋もやっていて、いつの間にか毎朝4時に起きて弁当を作るハメになったわけ。それから自分で弁当屋をやることになって、それなりに稼げるようになったところで、知人と一緒に那須の別荘地で土地を売る仕事を始めたんだけど、最初は全然売れなくてね。倒産寸前までいったところで売れ始めて、そこからV字回復して飛ぶように売れたの。


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