創業50周年を迎えた「富士そば」の会長・丹道夫氏

首都圏で働くサラリーマンであれば、一度はお世話になっているであろう立ち食いそばチェーン「富士そば」(現在は東中野店を除く全店にイスがある)。

実は『週刊プレイボーイ』と同い年の1966年創業で、今年が50周年。今では1都3県に100店以上を展開する富士そばを築き上げた丹 道夫(たん・みちお)会長は、四国の田舎町から上京しては失敗を繰り返し、4度目の上京でようやく成功を手に入れた苦労人だ。

80歳を迎えた今でも現役バリバリで、店回りを欠かさない丹氏に波乱万丈の人生を振り返ってもらいつつ、客にも従業員にもやさしい超ホワイトな経営哲学を語ってもらった。

* * *

―50年前に富士そばを作られた頃は、どんな世の中だったんですか?

 社会の景気はものすごいよかったね。戦争で縛られていた反動で娯楽がたくさんあった。当時、池袋店が映画館の軒下を借りて営業していたんだけど、『性の氾濫』なんて映画をやっていたのを覚えてるなー。

―すごいタイトルですね(笑)。週プレもそんな時代に創刊しました。

 『週刊プレイボーイ』もすごいタイトルだよね。僕も最初は飛びついたもんですよ(笑)。

―会長は富士そばを始められる前から、かなり波乱万丈な人生を送ってきたそうですね。

 僕は四国の生まれなんだけど、上京しては夢破れてを繰り返してね。1回目は面接で不採用になって帰郷、2回目は電車を間違えて福島の炭鉱で働いたり、東京の印刷所で働いたりしたけど、住み込み先で南京虫に襲われて倒れちゃった。3回目は栄養学校を卒業して、病院で栄養士になったけど、父が病気になって帰らざるをえなかった。4回目の上京でやっと定住することができたんだよね。

―それは何歳くらいの時だったんですか?

 25歳くらいだったかな。その頃から電化製品が普及して、大手の会社が下請けに発注するんだけど、仕事が増えすぎて、下請けがついてこられないくらいだった。地方から人がどんどん東京に出てきて、その人たちにネジとかを作らせるでしょ。最初はその人たちに食事を作るおばさんたちがいたんだけど、そのうちおばさんたちまでネジを作るようになった。それで弁当屋が流行ったの。

僕はその頃、味噌汁の素を売る食品会社に就職したんだけど、その会社は弁当屋もやっていて、いつの間にか毎朝4時に起きて弁当を作るハメになったわけ。それから自分で弁当屋をやることになって、それなりに稼げるようになったところで、知人と一緒に那須の別荘地で土地を売る仕事を始めたんだけど、最初は全然売れなくてね。倒産寸前までいったところで売れ始めて、そこからV字回復して飛ぶように売れたの。

毎晩のように豪遊してたけど…

―当時は月商7億円を売り上げるほど大成功したと聞きました。

 弁当屋でも利益は出ていたけど、土地は桁が違ったね。田中角栄の列島改造論なんかもあって、土地を持ってれば神様みたいに言われる時代だったから。

―それがなぜ、立ち食いそば屋をやることに?

 僕は田舎から出てきて、やっと不動産で当たったわけだけど、今度はお金が余って、毎晩のようにコパカバーナへ遊びに行ってたの。

―デヴィ夫人も勤めていたという高級クラブですね。

 そう。デヴィ夫人はバラが咲いたような顔して綺麗だったね。そこでステーキを食べたり、肉の刺し身を食べたり、あとはオニオングラタンが大好きで、店員が「今日のオニオングラタンはどうですか?」って訊(き)きに来るくらい通ってた。

―それだけ豪遊してたわけですね。

 当時、1回行くと3万円だったから、今のお金にしたら30万くらいは使ってたと思う。でも、そんな生活も飽きてくるんだよね。それで友達とおにぎりを食べる旅行をしたんだけど、その時に停まった駅の軒下で、そばを売ってるおばあちゃんを見たの。みんな電車が出る前に駆け込んで食べていて、忙しい商売だなと思ったんだけど、東京も忙しいから売れるんじゃないかなと思いついた。

―それで立ち食いそばをやろうと?

丹 不動産が売れてきた時に、これはいつまでも続かないと思ったから、その時に役員が食っていけるようにしておこうと思って、立ち食いそばをやろうと提案したんです。だから最初は不動産の会社で経営していて、名前も「そば清」だった。

簡単なようだけど、ノウハウが…

―そうだったんですね。経営は最初から順調だったんですか?

 珍しさもあってか、最初から飛ぶように売れたね。4.5坪の店で1日900食も出てたから。それからしばらくは、いろんな商売も並行してやっていたけど、立ち食いそばが一番いいと。それで専念して、今に至るわけ。ただね、立ち食いそばは儲かると思って、軽い気持ちで手を出す人がいるんだけど、そんな甘いものじゃない。今日も朝から店回りをしてたんだけど、うちの対面に違うそば屋ができてたから見に行ったんですよ。

―お客さんのフリをして?

 そう。かけそばを食べてきたんだけど、味もうまくないし、お客も入ってないのに7人も8人も店員がいる。あれは3ヵ月も保たないですよ。簡単なようだけど、やっぱりノウハウがあるんだよね。

―ではズバリ、富士そばが50年続いた秘訣はなんですか?

丹 もう一にも二にも場所だね。よく「ここに店を出しませんか?」と言われて、見に行くんだけど、大体1~2秒でダメって言うから、みんな「秒殺された」って言うんだよ。

―理想は駅前のサラリーマンが多い場所ですか?

 そうだね。これがまたないのよ、物件が。だから、今年は何軒新しい店を出すっていう目標を立ててる会社もあるでしょ? うちはそんな目標は立てない。いい物件があれば店を出す。なければ出さない。ただそれだけだね。

◆後編⇒『アルバイトにもボーナスを支給する理由とは? 「富士そば」会長が語る、超ホワイトな経営哲学』

●丹道夫(たん・みちお)ダイタンフード株式会社会長。1935年12月15日生まれ。愛媛県西条市出身。中学卒業後、地元での八百屋、油屋での丁稚奉公に始まり、その後は上京しては失敗して帰郷を繰り返すも、友人と立ち上げた不動産業で成功。1966年に富士そばの前身となる「そば清」を始め、1972年にダイタンフード株式会社を設立して立ち食いそば業に専念。現在はグループ会社8社、国内113店舗、海外8店舗を展開。55歳で演歌の作詞を始め、「丹まさと」の名で作詞家としても活躍している。著書に自身の半生を振り返った『らせん階段一代記』、富士そばの経営学を記した『商いのコツは「儲」という字に隠れている』がある。

(取材・文/田中 宏 撮影/綿谷和智)

■丹道夫『「富士そば」は、なぜアルバイトにボーナスを出すのか』(小社刊)本体740円+税