愛されキャラの人気者が「昔は自分勝手でイヤなヤツだった」と明かすラグビー日本代表・畠山選手

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

第34回のゲストで女優・タレントの倉持明日香さんからご紹介いただいたのはラグビー日本代表でサントリーサンゴリアス所属の畠山健介さん。

W杯イングランド大会では強豪南アフリカを初戦で破る大番狂わせなどでラグビーブームが再燃した昨年。自身も代表の中心選手として定着、その愛らしいキャラも相まってメディアに登場することが増えた。

その追い風の中、次回2019年の本大会は日本で開催。期待も大きいが、現状を見据えて明かしてくれた本音とはーー。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

―倉持さんからのご紹介ということで、まさか畠山さんとお話させていただけるとは。

畠山 とんでもない。こちらこそ、今までのリストを見せてもらったんですけど、そうそうたるメンバーで。僕でいいのかなって、すごい恐縮で。すいません。

―いやいや(笑)。彼女からのご指名は意外でした?

畠山 何回か食事とかお茶したりはしたんですけど…紹介してくれるほどとは思ってなかったというか。むしろ友達と思ってくれてたんだなって(笑)。

―ガチムチ好きというか(笑)。男らしいタイプが好みで。

畠山 そう言ってもらえると嬉しいっす(笑)。

―でも畠山さんはもう妻子持ちですもんね。いくら惚れた目をしてこられても…。

畠山 いや、そういう目はされてないんで、全然(笑)。すごい素敵な女性だと思いますけど、はい。ほんと普通に会話してっていう…。まぁ、彼女も変わってるというか、僕も最近の若い女性、そんな知らないっすけど…とはちょっと感覚が違うなって。

―倉持家も特殊というか、お父さんが元プロ野球選手で。だいぶ子供の頃から体育会系な育て方をされて。純粋に真っ直ぐ、熱い感じですよね。…ところで、畠山さんは宮城県の気仙沼(けせんぬま)ご出身で。僕が仙台なんですけど。

畠山 あ、そうなんですか。もう都会っ子じゃないですか。僕からしたら大都会(笑)。

―いやいや(笑)。震災の後、地元に僕も帰って、やっぱりそういう場所を結構回ったりして。実際に自分の目に焼き付けるというか、体感しなきゃいけないって気持ちもあり、気仙沼も行ったんですよ。そういうのもあって何か同郷のシンパシーを覚えるというか。

畠山 ありがとうございます。

―畠山さんとひと回り以上違う今49歳なんですけど、中学からバレーボールをやっていて。当時、気仙沼の唐桑中っていうのが強かったんですよ。県大会の決勝リーグでうちが負けたんですけど、スポーツが盛んな地域ってイメージがありますよね。

畠山 自分のとこは特に有名人を輩出してというのはないんで。そんなにめちゃくちゃ盛んというわけでもないですね。勉強のほうも特にできる中学ではなかったですし…って、僕が言うのもなんですけど(笑)。

「母が大学ラグビー、特に早稲田のファンだった」

―(笑)今では御自分が一番有名人でしょうけど。そもそも地元のラグビー少年団に所属されたのがきっかけとか。

畠山 たまたまひとつだけ、日大ラグビー部のOBの方々がスクールを立ち上げたのがありまして。で、母がすごいラグビーのファンで、大学ラグビー、特に早稲田のファンだったんですけど。

―そうなんですか。お母さんはおいくつくらいですか? 世代的に誰に憧れたんだろう。

畠山 今年還暦になったばかり、60ですね。宿沢(広朗[ひろあき])さんの時の早明戦を観て、負けちゃったらしいんですけど、その早稲田の姿にすごく感銘を受けたっていうことで。

―結構、伝説とされてる試合ですね。3連覇を目指した大学選手権決勝で敗れて…。

畠山 ですかね。僕もそこまで追いかけてないんで(笑)。いや、母から昔、そういう話を聞いたんですね。で、兄がいるんですけど、最初スクールに通い始めて、送り迎えに付いていってたら、同世代の中では僕もまぁかなり大きい肥満児な感じだったんで。コーチとかがやらせたいっていうか、自然と入っていく流れで…それが小学2年とかですね。

―たまたまお母さんが好きになって、しかもその地域に珍しくラグビー団があってという。すごい巡り合わせですね。

畠山 そうですね。なんか逆に大阪とか九州って盛んなので、たぶんいくつもクラブチームとかスクールがあると思うんですけど、僕の地域とか宮城はそんなに強くもないんで。

―まぁ大都市だと他に野球でもサッカーでもなんでもあるし、ラグビーが特に突出してる競技ではないですからね。

畠山 僕は野球も別に得意ではなかったし、サッカーも下手くそで。水泳とかも、上の姉や兄は上手でしたけど、僕は全然…。ラグビーが唯一、身体がでかかったんで。

同世代の8歳の子にしたら、たぶん嫌な相手だったと思うんですけど、それが気持ちよかったっていうのがあるかもしれないですね。自分の居場所って言ったらカッコいいんですけど、なんか得意になれるというか。

―それで目を付けられて、認められたらその気になりますよね。

畠山 そうです。コーチにすごい褒められて、おだてられて。そういう感覚ってあんまりなかったんですね。で、勢いでそのままやるって。

―青森とか場所が場所だったら相撲にいってたかも(笑)。

畠山 (笑)。完全にそう。まぁ相撲もすごい厳しい世界なんで、ラグビーでよかったなって思いますけど(笑)。

「当時『スラムダンク』が流行ってたんで…」

ははは。でも中学の時には、バスケットにもいってるんですよね?

畠山 はい。土日はそのスクールでラグビーやって、普段の中学の部活では何か選ばなくちゃいけないって時に、当時『スラムダンク』が流行ってたんで。やるようになって

―ありましたね、『スラムダンク』人気で。ちょっと女子ウケもするし、洒落っ気なことやってみようかなみたいな(笑)。

畠山 いや、そんな女のコは特に意識はしてないですけど(笑)。やっぱバスケットってすごくカッコいいなと思って。みんながいくような王道の野球部に入るか、兄が通っていたサッカー部に入るか、流行ってるバスケかみたいな感じで迷って、まぁバスケにしましたね。

―その頃はラグビーやって、だいぶ身体も絞れてたんですか?

畠山 いや、全然です。もう食べ盛りで、食べたいものばっかり食べてたんで。ずっとぶくぶく大きい状態でした。

―じゃあそんなに中学では強くもなく、有名な選手だったとかでもなく…。

畠山 全然です。最後の大会なんて1日2試合とか土日かけてやるんですけど、その4試合で毎試合5ファールもらって退場してたんで。2日間で20ファール(笑)。

―どんだけラフなんですか!(笑)

畠山 いやいや! 僕としてはそんなにいってるつもりはないんですけど、やっぱバスケの競技特性上…吹かれちゃうんですよね。

―やっぱり競技特性ではラグビー向きだったと(笑)。で、俺にはラグビーだみたいな?

畠山 いや、まぁそういうのは…ありましたね。バスケットはすごい好きなんですけど、どうやらバスケには好かれなかった(笑)。逆にラグビーは東北大会で東北選抜に選ばれたりしたので目を付けてもらって。それで高校は仙台育英入るんですけど、推薦のお話をいただいたりしたので。

―ラグビーの少年団も中学まで続けて。ずっと実績を積み重ねてたんですね。

畠山 まぁそうですね。土日やって大会に出て、毎年正月、大阪の花園に行って中学の大会に出て。実績というか、東北自体はラグビー後進地なので、やっぱ経験者だったり、ラグビー携わっているコは早く声をかけて囲いたいんですよね。

―特に宮城はね。僕の頃も東北では秋田工業とか黒沢尻(岩手)とか強かったですけど、宮城はやっぱりどこってことなくて。

畠山 そうですね。昔だったら石巻(いしのまき)とか。

―石工(せきこう・石巻工業)とか。

石高 そうです。その呼び名が地元っすね(笑)。

―ローカルな話で(笑)。

畠山 で、僕が高校上がる時は、もう仙台育英が強化してたんで群を抜いて強かった。正直、勉強が別に得意なわけではなかったので、もしそれで入れるならラッキーくらいな。

「僕はそんなに性格いい人間じゃないんで(苦笑)」

―育英って、僕の頃も野球は強かったですけど、東北高校とずっとライバル関係でね。

畠山 はい。僕が入ったくらいなんかは、駅伝とかもめちゃくちゃ強くなりましたね。ケニア人の留学生を連れてきたりとか。あと、卓球も結構力入れて、それこそ(福原)愛ちゃんの青森山田か育英かみたいな。

―そうそう。愛ちゃんは仙台出身なのに当時最強の青森山田に卓球留学して。マラソンはケニア人留学生で育英が高校駅伝を制するまでになりましたけど。一方の東北はゴルフとかフュギュアも有名で、宮里藍ちゃん、荒川静香さんとかね。

畠山 仙台育英も頑張ってはいたんですけど。当時、東北は野球部でダルビッシュ(有)くんが1コ下でいたりとか。

―でも育英は進学クラスとか作って、勉強のほうにも力入れ始めたりしてね。僕は仙台一高に通ってたんですけど、東北の学ラン着たパンチパーマの集団と出くわすと避けてましたもん。当時はリアル“ビーバップハイスクール”でしたから(笑)。

畠山 そうなんですか。一高めちゃめちゃ頭いいですね。

―いやいや(笑)。学区制を越境入学してたんで、毎朝チャリで逆方向から通学して、育英の横も全速力で駆け抜けてたんですよ。遅刻との戦いもあって(笑)。

畠山 (笑)。東北のラグビー部とは接点なかったんで、正直あんまりイメージないんですけど…でも育英もガラ悪くなかったですか?

―まぁその頃はどこも『金八先生』みたいな世界で。中学から不良とかツッパリっていわれる悪いのはゴロゴロいましたし(苦笑)。でも育英って制服がブレザーになりましたよね? 男女共学でイメージも爽やかになって。

畠山 そうです、ブレザーです。女子は緑のブレザー。その前の時代を知らなくてよかったです(笑)。

―ははは。でも“ビーバップ”な頃なら一目置かれてブイブイいわせてたでしょう。

畠山 いやいやいや! 僕もう、そんなオラオラな感じじゃないんで。金づるにされておしまいですよ、本当に。焼きそばパン買ってこいとか(笑)。

―どっちかっていうとパシリに?(笑) でもラグビー部だって、ガチな体育会系でオラオラじゃなかったんですか?

畠山 僕らが入学する前にそういう感じだったらしいんですけど。そういうあからさまな上下関係みたいなものはもうやめようってことで。何々先輩って呼んでたのを、さん付けにしてみようとか。まぁもちろん、入ったら入ったで上下はありましたけどね。

―それで雰囲気がよくなって。畠山さんの世代でさらに自分のキャラクターもあって、明るい和気あいあいな感じが浸透したとか?

畠山 いや、でも僕はそんなに性格いい人間じゃないんで(苦笑)。

―ええっ、そうなんですか?(笑)

畠山 いや、特に高校の時とか、すごいワガママでしたし。自分勝手な部分もかなり多かったので。

「有頂天になったら清宮さんに怒られたり…」

―気仙沼から出てきたお山の大将みたいな?

畠山 いや、まぁ…親分肌だったらいいんですけど、そうじゃないイヤな奴いるじゃないですか。映画でも、なんであいつあんなことすんだよっていうキャラクター…みたいな感じだったと思うんですよ。同期にもあんまり好かれてるほうじゃなかったんで(苦笑)。

―今のキャラ的には意外な…。謙遜と受け取っておきますが。

畠山 いやいや、謙遜とかじゃなくて、本当にそうだったんですよ。かなりワガママですし自分勝手…今もそうですけど(笑)。いい人間関係はあまり作れなくて、大学入ってもそうですけど、自分が後輩で先輩と付き合ってるほうが、どっちかっていうと得意なんで。

―先輩にいじられたりとかして可愛がられるタイプ?

畠山 そうですね。そういうほうがよくしてもらえるタイプで。自分もすごいしっくりくるんです。要は下っ端気質なんで、立場が変に上になるとどう振る舞っていいかわからない…それで傲慢になっちゃったり。だから永遠の3番手くらいが僕はすごい性に合ってるんですよね。

―3番手ですか(笑)。でも特待生で入って花園に3年連続で導いて。そのマイナーだった宮城県ではやっぱり注目されるわけで、そこで鼻が高くなるようなところも?

畠山 たぶん、なくはなかったですね。宮城ではダントツで当時は強かったので、3年連続、全国大会出れましたし。で、大学もずっと行きたかった早稲田に、初めて仙台育英から行けるってなって。すごい嬉しかったですし、親も喜んでたと思うんですけど。

当時入った時に、今、ヤマハの監督されてる清宮(克幸)さんが監督で。本当に威圧感っていうか…体育会系じゃない威圧感持ってるんですよね、プレッシャーというか。口調も冷淡…って言ったら怒られるかな。すごい物静かなんですけど、迫力があるというか。

―当時、若くして監督に就任しましたが。ビシビシ感じますよね、重みをね。

畠山 そうです。だから、有頂天になったら清宮さんに怒られたりっていうのがあったので。要所要所で伸びすぎると、切られてましたね、伸びきった鼻を。

―なるほど。では大学行って早稲田で変わったというか。鼻っ柱を折られた的な。

畠山 でも清宮さんが2年間でいなくなって、そこからちょっとまたオラオラが出て(苦笑)。社会人でも清宮さんがいる今のサントリーに入るんですけど、そこでまたちょっと生意気な1年目みたいな感じでこう…。だから何年目ですかね? 5、6年目くらいだと思うんですよ、ここつい最近ようやくですね、まともになれたのは。

●続編⇒語っていいとも! 第34回ゲスト・畠山健介「リーダーが今、ラグビー界にいるのか…かなり危機感漂ってる」

●畠山健介1985年8月2日生まれ、宮城県出身。小学生から地元少年団でラグビーを始め、仙台育英高校に進学、3年連続で花園出場。早稲田大学に進学し、全国大学選手権優勝などに貢献。卒業後はサントリーに所属、2011年、ラグビーW杯の日本代表メンバーに選出。2015年のW杯でも24年ぶりの勝利に貢献し活躍。

(撮影/塔下智士)