常に「人間」を描き続けてきた石井光太さんは、3つの虐待死事件の取材を通して何を感じたのか?

極限状態に置かれた人間が垣間見せる、むき出しの人間らしさ――作家・石井光太が一貫して持ち続けているコンセプトである。

それは、わが子を虐待し、ネグレクトし、死に到らせ、社会から「鬼畜」と呼ばれることになった人間を描いても同じだ。

今年、最も衝撃的だったノンフィクション『「鬼畜の家」 わが子を殺す親たち』で、石井さんは次の3つの事件を追っている。

「厚木市幼児餓死白骨化事件」2014年5月、神奈川県厚木市のアパートから幼児の白骨遺体が見つかった。遺体は齋藤幸裕の長男のものだった。04年に妻が家出をして以来、幸裕は電気、ガス、水道が止められたゴミまみれの部屋で長男を育てていたが、やがて外に恋人を作りアパートに帰らなくなった。放置された長男は07年冬、オムツと一枚のTシャツだけを身につけて絶命。幸裕は事件の発覚を恐れ、その後7年間も家賃を払い続けていた。

「下田市嬰児連続殺害事件」2014年10月、静岡県下田市の民家で、ふたりの嬰児(えいじ)の遺体が発見された。母親の高野愛(いつみ)は、高校2年生の時から10年あまりで8人もの子供を妊娠する奔放な性生活を送っていた。愛は自らが殺(あや)めた嬰児を天井裏と押入れに隠していた。殺害の動機は「中絶費用を用意できなかった」ことだった。

「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」皆川忍と妻の朋美は次男に虐待を繰り返し、ウサギ用ケージに監禁した挙句、2013年3月に死亡させた。遺体を遺棄した後も、マネキンを使用するなどして次男が生きているように見せかけ、児童手当や生活保護費を不正受給。遺体はまだ見つかっていない。

これらの事件の取材を通して、著者は何を感じたのか――。

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―本作は、物心もつかないような子供が犠牲になった事件のルポルタージュです。取材していて辛(つら)くなったりはしなかったんですか?

石井 正直、犠牲になった子供のことを考えて眠れなくなったことも多々ありました。目を背けたい事実もあった。しかし一方で、マスメディアが報じる「中絶費用がないから殺した」とか「ウサギ用ケージに閉じ込めた」とか、僕には全然理解できなかったんです。しかし、理解できないことにこそ何かがあり、それがノンフィクションを書く動機になる。そこに何があるのか、調べてみようと思ったのが出発点でした。

もうひとつのきっかけとしては、『浮浪児1945―戦争が生んだ子供たち』という本を書いた時、74年間、児童養護施設で働いていたおばあさんから聞いた言葉がありました。彼女は、昔の浮浪児には人間としての「芯」があったけれど、今の子供にはないと言った。昔の浮浪児は空襲で親を失うまでは普通の家庭に育っていたから、極貧生活が何年続いても普通の大人になっていった。

しかし今、児童養護施設で暮らす子供のほとんどは虐待を受けていたので、環境がいくら恵まれていてもうまくいかない。それは生まれた瞬間から親に存在を否定されてきたことで「人間としての芯」がないためだというわけです。それを聞いた時に、どうやって芯のない人間が生まれていくのか知りたいと思ったんです。

負の連鎖をどこかで断たねば…

―本書で取り上げた3つの事件の親たちも、まさに「芯のない人間」と言えます。彼らにはどんな共通点がありますか?

石井 何か困難に直面した瞬間に思考停止してしまうことです。普通はそれを乗り越えるために考えるものですが、彼らは困難をそのまま受け入れてしまう。非常に受動的なんです。自分ではどうすることもできないのに周囲に助けも求めず、悪循環が続いて結果として子供を死なせてしまう…。この本のテーマとなっているのは、そんな芯のない人間を生み出した家庭環境です。

例えば、下田市嬰児連続殺害事件の高野愛は母親の支配下に置かれていた。母親は未婚のまま3人の子供を生みましたが、子供たちには威圧的で意思を尊重することはなく、特に長女の愛には厳しく当たっていた。そして愛自身も多くの子供を抱えるシングルマザーとなり、生活が困窮し母親の家に転がり込むと、母親は必要以上の生活費を愛からむしりとっていました。

このように、これらの事件を起こした者たちは親に何を言っても聞き入れてもらえなかったため、すべてを受け入れ、聞き流すことしかできない人間になっていったんです。親から愛されたことも信頼されたこともないから、他者の気持ちを考えることができない。親にカネをむしりとられたら、自分も親になったら子供からむしりとっていい、あるいは子供が言うことを聞かないからウサギ用のケージに閉じ込めたっていい…おそらく経験上、そういう考え方しかできなくなっていたのだと思います。

―そういう育てられ方をした彼らが自らの子供を虐待する。普通の親は、子供は泣くのが当たり前だと知っていますが、これらの事件の親たちは泣き止まない子供に激高し、虐待を繰り返す…。

石井 幼児を育てている母親の大半は精神的に追い詰められた経験を持っていると思います。ただ、僕はそれ自体はあり得ることだと思うんです。たとえ、子供に手を出してしまったとしても「ごめんね」と謝る。そして、叩いてしまったことを旦那さんに相談する。それを見た子供は、「ママは自分のことを考えてくれているんだ」と理解する。結果的に、叩いたことで生まれる家族の信頼関係もあるでしょう。

しかし、これらの事件の親たちはそうではなかった。理由もなく子供を殴り、「産まなければよかった」などと罵(ののし)り、「おまえなど死んでしまえ」と家から放り出す。こういう子供は親の気持ちを想像する余裕もなく、生きていくために思考を停止して暴力を受け入れるしかなくなる。何を言っても意味不明の理由で暴力を振るわれ続ければ、その場をしのぐためにそうするしかないんです。その結果、その子は他人の気持ちを考えられず、親と同じように感情に任せて暴力を振るう大人に成長するんです。

足立区の事件の皆川夫妻は、メディアでは「生活保護を受けるために子供をいっぱい産んだ」などと書かれていましたが、元々はそんな計算もしていなかったと思います。すでに5人も6人も子供がいて、一家の収入は派遣社員である夫のわずかな給料だけなのに、もうひとりつくったら家計がどうなるのか想像できなかった。他人への共感どころか、自分のことすら考えられないんです。

皆川朋美の母親もまた、粗暴な性格で若い頃からトラブルを起こす人でした。朋美もこの母親に大きな影響を受けたのでしょう。困難な生い立ちを経験しても普通に育っていく人はたくさんいますが、やはり根っこの部分が歪(ゆが)んでしまうと、まともな大人へと成長するのは難しいのだと思います。

―先ほど戦後の浮浪児との比較をしましたが、昨今の虐待事件は現代社会が抱えた病とは言えますか?

石井 いや、現代に限ったことではないでしょう。先述の高野愛のケースでは祖母の代からシングルマザーで悪循環は始まっていました。このように、上の世代から続いてきた負の連鎖の終着点がこれらの事件だったのだと思います。親が家庭を崩壊させて、その中で育った子供がこういう事件を起こす…家系の中で爆弾が引き継がれていて、その爆弾がどんどん大きくなっていったのです。

仮に、彼らが事件を起こさなかったとしても、次の代が起こすことになったかもしれない。いわば、時限爆弾を世代から世代へ回しているだけの話。どの世代で爆発するかは誰もわからないんです。だから、これは現代社会に特有の問題ではなく、総合的な家系の問題と考えるべきで、どこかで負の連鎖を断たなければいけないのだと思います。

「愛したかったけど、愛し方がわからなかった」

―もう一点、彼らに共通していることは、子供が生まれた時点では、普通の家庭があったということです。皆川一家の手紙や写真を石井さんは見ていますね。そこには本当に幸せそうな家族の姿があった、と。

石井 それは偽りのない姿だったと思います。絶望の中に唯一の救いがあるとすれば、彼らが「それでも愛しています」と言っていることです。「いや、殺してるじゃん。そんなの愛じゃない」という反論もあるでしょうが、彼らからすると「それでも愛している」というのは「うまく愛せなかった」という絶望の裏返しなのです。誰だって、殺したくて殺したわけではない。でも彼らは愛し方がわからなった。

―それは高野愛が、自宅に隠した嬰児の遺体を「押入れの子」「屋根裏の子」と呼んでいたことにも表れていますね。

石井 「外に捨てて犬に食べられたらかわいそうだから、ずっと押入れや天井裏に置いておきました」と裁判で彼女は泣きながら言っていました。押入れや屋根裏に閉じ込めた遺体であっても、やはり自分の子供だと思って愛しているからです。もちろん、歪んだ愛情ですけどね。

厚木の齋藤幸裕はゴミにまみれた暗い部屋に長男を監禁していましたが、「ちゃんと育児していた」という彼の裁判での証言は本心からのものだったと思います。幸裕が帰宅すると、幼い長男はいつも「パパ、パパ」と喜んで近づいてきた。幸裕がポルノ雑誌を細かく千切って紙ふぶきのように宙に散らすと、それを見た長男は喜んでいたそうです。異常な暮らしの中で、少なくともその瞬間にはふたりだけの幸せがあったのでしょう。いや、あったつもりなのでしょう。

しかし、幸裕を含め、これらの事件の親たちは育児に対する常識的なイメージを持っていなかった。そして、彼らの周囲にはお手本となる家庭も、助けてくれるコミュニティもなかった。例えば、出産や子育てで困難を抱えている人のための無料電話相談がありますが、いきなりかけてみるのは抵抗があっても、周囲にこれを利用したことのある人がいれば、じゃあ私も電話してみようかなとなるじゃないですか。ところが、彼らは自らコミュニティを狭め、どんどん孤立していきました。

―難しい問題ですが、児童相談所などの公的機関だけではなく、地域社会とのコミットが大事なのですね。

石井 こういった事件が明るみに出るたびに、インターネットには彼らを罵(ののし)る言葉が溢(あふ)れます。しかし、そうやって断罪することは彼らをコミュニティから切り捨てていく行為にほかならない。そして、数週間もすれば事件そのものが忘れられていく。だからこそ、僕はこの本を書きたいと思いました。彼らは子供を愛したかったけど、できなかった人たちです。それは絶望ではあるけれど、かすかな希望でもある。こういった人たちを弾かずに、いかにしてコミュニティに入れていくかという観点が必要なのではないでしょうか。

●石井光太(いしい・こうた)1977年生まれ、東京都出身。国内外を舞台としたノンフィクションを中心に、児童書、小説など幅広く執筆活動を行なっている。主な著書に、『物乞う仏陀』『神の棄てた裸体』『絶対貧困―世界リアル貧困学講義』『レンタルチャイルド―神に弄ばれる貧しき子供たち』『地を這う祈り』『遺体―震災、津波の果てに』『浮浪児1945―戦争が生んだ子供たち』など。最新刊は、イラクの日本人人質事件を題材にした小説『砂漠の影絵』

●『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』(新潮社 1500円+税)

(取材・文/中込勇気)