千葉オイレッシュの野村進一社長。2014年に社員を思いやる“ホワイトな経営”が評価され、『日本でいちばん大切にしたい会社大賞』を受賞している

ブラックな話はもうウンザリ…もっと前向きになれる仕事の話、ニッポンが誇れる会社の話をしたい! というワケで、新連載『こんな会社で働きたい!』がスタート。

「日本も捨てたもんじゃない」と思わせてくれる、人を大切にする“ホワイト企業”をピックアップ。どの職場もかくあってくれれば…と切望したくなる素顔のエピソードを毎週リポートします! 第1回は、千葉県の山奥でひっそりとホワイト経営を貫いていた、「千葉オイレッシュ」をご紹介。

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都心部から車で東京湾アクアラインを抜けると千葉県木更津市に入る。首都圏での商売に地の利はいい。だが「千葉オイレッシュ」はそこから1時間ほど内陸に入った山の中にある。

オイレッシュとは『オイル(油)をリフレッシュ(再生)する』という意味の造語だが、工業用廃油を回収し燃料への再生を手掛ける同社は、地の利は悪くても34年間、赤字になったことはない。

従業員数は30人。社員にそれなりの報酬を払うのは当然として、数年に一度、会社を支える社員を支えてくれることに感謝を込めて社員の家族にもボーナスを支給する。創業時、野村進一社長(63歳)は「いわば3K的な仕事と見られがちですが、社員が仕事に誇りを持てるような会社を作りたい」と思い描いていたが、その言葉通り…。

創業から現在に至るまで、離職率はほぼゼロ、リストラの実績もない。加えて、従業員の月平均残業時間はわずか7時間で、平均年収は大企業並みの673万円を誇る。

この僻地にあって、千葉オイレッシュはいかにして創業時から34期連続黒字をキープし、かつ社員が誇りを持つ会社に育ったのか。野村社長にその秘訣を聞いた。

●銀行員時代に起業を決断

千葉オイレッシュがある千葉県君津市笹に野村家は江戸時代から住み続けている。その長男に生まれた野村さんは、若い時から父親に「この土地を守ってほしい」と請われていた。

「私の父はサラリーマンで、週末は先祖代々の田んぼで米作を行なう兼業農家でした。田舎はどこでもそうですが、当然、長男の私にも『ここに残れ』との期待がありました。でも私はここを出たかった。実際、高校卒業後に上京し、銀行に勤務すると、窓口業務、外回り、融資の相談などをこなしました。仕事は性に合っていましたね」

それでも、帰省のたびに父は「いつになったら帰ってくるんだ」と尋ねてきた。実際、高齢者となりつつある姿を見るにつけ、20代後半になると野村さんも帰郷を考え始めた。だが、なんの仕事をしようか。銀行業務以外はなんの蓄積もない。どの仕事に就いてもゼロからのスタートとなれば、当然、高校の同僚たちからは1ランク遅れることになり、“都落ち”と見られるのも嫌だ。野村さんが導き出したのは、「起業できるなら帰ろう」ということだった。

女性社員の“ボヤキ”から社内改革が始まった

「実際、父にとって一番大切なものは、私が先祖代々の土地で週末だけでも農作業すること。仕事の内容は二の次でした(笑)」

そこで、勤務していた銀行関係のシンクタンクに「自分でも始められる仕事はないか」と相談したところ、「1回行ってみる?」と紹介されたのが、神奈川県川崎市の倉庫の一角で油の再生の研究をしている人だった。

油の知識はゼロ。だが関心は湧いた。そこで、再生油で商売できるか、そのシンクタンクに調査を依頼。首都圏に廃油はどれくらいあるのか、クリーンにしたら買い手はいるのか、どういう施設や作業が必要なのか…。調査の結果、「食べられるくらいにはなる」との言葉を受け、決心が固まる。

工業油を扱う以上は、木更津や市川などの京葉工業地帯での創業を考えたが、父が「危険だ。失敗したら借財だけが残る。ここの野村家の土地ならタダだ」と訴えた。確かにそれはメリットだ。だが、デメリットは工業地帯から1時間も奥地に入ること。それだけに、やるなら徹底的にやろう、3年やってだめなら勤め人に戻ろうと決めた。

1980年10月29日に登記。自社の敷地での廃油処理プラント作りに半年をかけ、81年6月に千葉オイレッシュは稼働した。この時、野村社長は29歳。社員は野村さんと妻、友人ふたり、役員となった父を合わせた5人だけ。銀行融資も受けたが、主たる起業資金は心配してくれた父が貸してくれた。その借金を野村社長は今も律儀に返済している。

当時、廃油を個人で集める人はいた。だが主な用途は農家のハウス園芸のボイラー燃料にするくらいで、工業地帯から排出される廃油を大規模に集めて新品同様の燃料に再生する事業は、いわば“ニッチ”だった。

だが、創立当初は惨めさを味わった。世間から見れば廃油の回収はいわば3K仕事のひとつ。廃油の確保のためにガソリンスタンドや修理工場を回っても相手にされない日々が続いた。回収できても、量は微々たるもので営業ベースには程遠かった。

そんな時、かつて勤務していた銀行が、大口貯金者である日本鋼管(現JFEエンジニアリング)への橋渡し役を買って出てくれた。製鉄所から出る大量の廃油の処理に困っていた日本鋼管が処理を依頼。83年、日本鋼管の敷地内に千葉オイリッシュ専用のプラントを完成させた。

この実績を機に周辺の大口工場との取引きが順調に入るようになり、ようやく取引き先と自社とをタンクローリーが往復する日々が始まる。だが無理はしなかった。銀行員時代に融資を担った経験を活かし、決して背伸びをしない“無理なき資金繰り”に徹したという。果たして、売り上げは順調に伸び、社員も増えた。

もうひとつ心掛けたことは、支払いが必要な取引先との決済は必ず現金決済であること。「銀行で学んだことですね。それが信用を生みますから

波に乗ったことで、野村社長は“我ながらいい経営ができている”と思っていた。また、ワンマン経営にならないよう、社員の意見も「提案カード」に書いて提出してもらうことで、風通しのいい社風を目指した。だが、ある日、女性社員に言われたひと言に猛省することとなる。

「カネは社員のために貯めている」

「その女性社員はこう言ったんですね。『提案カード出しても、私のアイデアが採用されたことはなく、これでは意味がありません。だったら、社長は私たちの意見を聞かずに、やることを一生懸命やればいい』って。ショックでした。ああ、俺のやっていたのはお役所と同じだって。実際、提案カードは、いい意見だな、みんな会社を考えてくれているんだなと思うだけで、私の手元で止まっていたんです。カードを書くだけで社員のモチベーションが上がると思っていたのはとんでもないことでした」

同社は2014年、まっとうな経営を行なう企業を表彰する「日本で一番大切にしたい会社大賞」の審査委員会特別賞を受賞するのだが、そのような会社に変革するのは、この一件があってしばらくして、その主催者である坂本光司法政大学大学院教授の講演を聞いてからだった。壇上で坂本教授が発した言葉は今も忘れていない。

社員や取引先を大切にする会社で倒産した事例はない。社員の幸福を願う会社こそが伸びる

「先生の話を聞いて反省しました。うちもそれなりにやっているかと思っていましたが、ああ、そういうことなのかと目から鱗(うろこ)が落ちた思いでした」

千葉オイレッシュの敷地にある廃油処理プラントの前にて、野村進一社長

講演後、野村社長は改革を断行する。

たとえば、提案カードは社員から社長に一方的に提出するのではなく、社員数人で組織した業務改善委員会が受け取り、ひとつひとつのアイデアに「革新的」「採用」「再検討」「現状維持」と評価し、毎年、創立記念日の6月1日にいいアイデアを公表する制度に変えた。実際にアイデアが採用され、業務に生かされると社員のやる気は上がる。

一例として、従来、朝礼では朝礼担当者からその日の業務内容のみを発表していたが、数年前、こんな提案があった。

「朝礼ではさらに各担当者から業務内容の“KYポイント”を発表して、安全管理に取り組んでみるべきではないか」

KYポイントとは、その日の作業内容と併せて確認する、各作業に潜む「危険予知」ポイントのこと。大型車両の敷地通過時に誘導員がいない、フォークリフトの停止時に積み荷が揺れる、廃油からの揮発成分に有毒性がある…など職場によって様々な危険ポイントがある。

そこで、作業を勘や経験だけに頼るのではなく、日々のKYポイントの洗い出しと、それを防ぐために何をすべきかを記した「危険予知活動表」を各チームが事前に作成することで、危険を極力除去しようというのがこの提案の狙いだ。

中央労働災害防止協会の安全衛生規定を参考にこの制度をすぐに導入。果たして、安全で安心できる業務体制が構築できたことと(すなわち事故ゼロ)、全社員が関わることで「モチベーションアップに繋がった」(野村社長)

さらに、千葉オイレッシュが他社と一線を画するのは、社員への「決算書の情報公開」だ。

廃油は世の好不況を映すバロメーターである。不況になれば、企業は潤滑油などを取り換える回数を減らすため、回収量も減り、収益に直結する。特にバブル崩壊後の90年代にはその不安定さが顕著になった。

こんな時、大抵の企業では、社員は収益減の責任は会社にありとし、賃下げに同意しない。会社も低収益を隠そうとする。だが野村社長は、好況の時も不況の時も決算書を公開しようと決めた。現況を理解してもらうことで、社員にも一緒に経営を考えてほしかったからだ。

とはいえ、さすがに決算書を見せることは当初怖かったという。

「儲かっていることがわかると『サラリーを上げろ』と言われ、儲かっていないことがわかると『サラリーを下げるなら辞めようか』と考える社員が出てくるかもしれないと思ったからです」

だからこそ、いざ公開する時は社員にこう語りかけた。

「決算書を公開したいと思います。だけど、ひとつだけ話したい。皆さんはサラリーをもらっても、それを全部レジャーには使いませんよね。まず、生活費や教育費、そして残ったお金で遊びやローン等々に使うはず。会社もまったく同じです。全部使ってしまったら潰れます。金は社員のために貯めています。なぜ儲かったのか、なぜ儲からなかったのかをみんなが考えてくれるなら公開したい

決算書は月次決算を社内ネットで開示し、半期ごとには社員向け決算説明会も開いている。すべてを“見せる”ことで社員それぞれが経営者目線で考え、バブル崩壊時はボーナスが厳しくなるとの認識も共有してくれた。そこで、また野村社長はこう訴える。

「こんな時だから、利益を出る仕組みをみんなで作ろうよ」

その結果、製品化にこぎつけたのが「ブレンド燃料」である。それは同業者も驚く発明的なアイデアでもあった――。

★こんな会社で働きたい! 大企業並みの平均月収に家族にもボーナス! “リストラゼロ経営”を貫く千葉オイレッシュ【後編】

(取材・文/樫田秀樹)