日本サッカーの発展は木之本興三氏の存在なくしてありえなかったと語るセルジオ越後氏

当たり前のようにプロリーグが存在し、W杯には5大会連続で出場中。そんな日本サッカーの発展は彼の存在なくしてありえなかった。今は胸にポッカリと大きな穴があいた気持ちだ。

1980年代に日本サッカーのプロ化に奔走し、93年に始まったJリーグの創設に大きな貢献をされた木之本興三(きのもと・こうぞう)元Jリーグ専務理事が亡くなられた(享年68歳)。木之本さんは古河電工在籍時の26歳で難病にかかり、腎臓を摘出。以降、週3回の人工透析が必要な体となり、選手としての道を絶たれたわけだけど、そこからが彼の本領発揮だった。

80年代、日本サッカーはW杯にまだ出たことがなく、五輪の舞台からも遠ざかっていた。一方、お隣の韓国は83年にプロリーグが誕生し、86年には8大会ぶりのW杯出場を決めていた。そこで「代表チームを強くするには日本もプロ化しないとダメだ」と立ち上がったのが木之本さんだ。

当時の日本サッカー協会には「まだ早い」「失敗したらどうする」という反対の声が多かった。川淵(三郎)さん(Jリーグ初代チェアマン)も当初は乗り気じゃなかったそうだ。それでも木之本さんは粘り強く説得を続け、プロ化にこぎ着けた。

その後はJリーグ幹部や関連会社の社長を歴任。2002年日韓W杯では日本代表の団長を務めた。他の協会関係者が手に負えないと近寄らなかったトルシエ監督(当時)とは、時に怒鳴り合いになりながらもコミュニケーションを取り、信頼を得た。泥くさい仕事も厭(いと)わない人だった。

そんな木之本さんと僕の出会いはJリーグが開幕して間もない頃。当時から僕は“辛口”と言われていて、木之本さんもあまりいい印象を持っていなかったようだ。知人を介して初めて食事をした際には、いきなり「うるさいヤツだと評判ですよ」と言われた。でも、そこでゆっくりと話をしたら「そこまで日本のサッカーのことを考えてくれているんですか」とホメてくれた。あれは嬉しかったね。

あれほど日本代表のことを心配する人はいない

02年の日韓W杯後には新たな難病を発症し、08年には両脚を切断。また、その間には追われるようにJリーグや日本サッカー協会を後にした。周りの人間の裏切りもあったのだろうけど、木之本さんは不平や不満を一切コボさなかった。

この10年以上、日本代表の試合があった翌日には必ずといっていいほど電話がかかってきた。「セルジオさん、コラムを読んだよ。あなたの言う通りですね」って。試合内容が悪いと「あれじゃダメだ」「もっとこうしないと」って、いつまでも電話を切らないんだ。あれほど日本代表のことを心配する人はいないよ。

最後に話をしたのは、今年1月初めのこと。それまで何度も何度も電話をかけていて、やっと通じたんだ。「今、入院しているけど、近いうちに退院できると思う」と話していた。

難病による車椅子生活で体は相当しんどそうだったけど、サッカーの話をする時は生き生きとしていた。まさに体を張って日本サッカーのために頑張ってきた人だと思う。その功績はもっと讃えられるべきだ。

そして、サッカーに関わるすべての人が「日本代表を強くするためのプロリーグ」というJリーグ創設の理念を、いま一度嚙(か)み締めることが彼への最高の手向けになるだろう。

(構成/渡辺達也)