『在日二世の記憶』発売記念トークショーで今回の新刊について語った歴史社会学者の小熊英二氏(慶応義塾大学教授)

“戦後と解放後”を生き抜いた52人の在日一世の証言集『在日一世の記憶』の刊行から9年、その続編として、在日一世の子に生まれ、その後の時代を生き抜いた在日二世たち50人の生き様を描いた『在日二世の記憶』が発売された。

前作にも劣らない768ページという、一般的な新書なら3、4冊分に相当する圧巻のボリュームで描かれているのは、プロ野球で3千本以上のヒットを量産した安打製造機、哲学者、社会運動家、実業家、医師、ミュージシャン、僧侶、伝統工芸家、劇団員、マジシャン、映画人etc…といった「在日二世」たちの逞しい生き様である。 その刊行イベントで足掛け13年のプロジェクトに携わる3氏――歴史社会学者の小熊英二氏、ノンフィクション作家の木村元彦氏、在日朝鮮人の記録を残す仕事に携わるライター・編集者の高秀美氏による記念トークショーがジュンク堂書店池袋本店で催された。

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最初に『在日二世の記憶』、『在日一世の記憶』で編者をつとめる小熊がプロジェクトを発足させた経緯から話し始めた。

「最初のきっかけは、姜尚中さん(政治学者・東京大学名誉教授・『在日一世の記憶』の編者)との対談でした。ふたりで何か企画を作れないだろうかとなって、そこから在日一世への聞き取りができないかと。在日の歴史というのは意外ときちんとしたのがないんです。個人の回想記や組織の立場から多少書かれた簡単なものはあっても、日本の在日社会全体のものは少ない。しかも、在日一世の方々は高齢なので、聞き取りを急いだほうがいいということで動き出しました」

こうして2003年にプロジェクトはスタートを切ったが、次世代の育成にもなると考え、一世の方々への聞き取り作業を任せた若い在日三世や四世たちが、不慣れな作業から取材を重ねるにつれて辞めていった。早々にプロジェクトが立ち行かなくなった時に相談したのが、今回の『在日二世の記憶』で小熊氏とともに編者を務める高秀美氏と髙賛侑氏だった。心強い協力者を得たことで取材活動は再スタートを切る。

『在日一世の記憶』、『在日二世の記憶』では、主人公はあくまでも語り手の在日一世や二世の方々である。だが、彼らの記憶を呼び起こすための伴走者として、在日の歴史と文化についてよく理解し、粘り強く聞き取り作業を重ねたライターの功績も大きい。その多くは在日の方が中心であったが、日本人のライターも何人か戦力になった。そのひとりである木村は言う。

「ちょうど2003年、僕は『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』という、旧ユーゴスラビアのコソボにおける3千人以上が迫害され、弾圧されて殺されている新書を書いていた。だけど、日本国内の足元を自分はまだちゃんと見ていないという気持ちがあった。当事者としてのマイノリティのことをやりたい。日本国内において何かとなったら、それは当然、在日コリアンのことだろうと。自分なりに調査したり、取材したりしている時に声をかけていただいきました」

一世と二世にはどんな違いがあるのか?

こうして2008年に『在日一世の記憶』が刊行され、その2年後の2010年後半から『在日二世の記憶』の取材活動は始まった。髙賛侑氏の強い勧めがあったことからだと高秀美は明かす。

「髙賛侑さんが『二世というのは在日のパイオニアだから、絶対に記録する必要がある』と強く声をかけてきた。ちょうどその頃、在日一世で取材した方々が相次いで亡くなられた。二世というのは年齢層が幅広いこともあって、手をこまねいていたら記録を取れなくなるという不安が背中を押したのだと思います」

在日一世の多くは、戦前に渡航してきた人たちである。一方、在日二世とは1930年代生まれの人もいるが、その多くは第2次世界大戦直後の1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)に誕生した団塊の世代と、ほぼ時を同じくして生を受けた人たち。

そもそも在日とは何か? 親子関係に位置する世代にありながらも、一世と二世にはどんな違いがあるのか? こうした問いに小熊は答える。

「在日というものが、単に日本国領域内にいる朝鮮半島にルーツを持つ人たちという意味合いでは必ずしもないんです。共通経験なり、共通の歴史を背景にしていることが挙げられる。在日一世は朝鮮人なんです。たまたま日本に来て、日本に居ざるを得なくなったけれど、基本的には朝鮮での生き方というものを忘れずに日本で生きている。

でも、在日二世になると朝鮮人としての文化や言語を核として持っているけれど、日本社会に置ける立ち位置をずっと考えながら生き、アイデンティティなり、法律的な存在意義なり、社会的な存在意義なりを考えてきた。だから、自分たちを『在日朝鮮人』、『在日朝鮮人』、『在日コリアン』と言い切るには戸惑いがある。けれども、日本人じゃないし外国人でもない。そうなった時に消去的に残ったのが、『在日』という言葉であり概念だったのだと思います」

在日という言葉は「日本に(住んで)いる」という意であり、朝鮮半島以外からの移民にも「在日ブラジル人」、「在日フィリピン人」などのように使われる。しかし、他の国から入ってきた人との間には大きなギャップがあると木村は指摘する。

「やはり歴史的な背景が大きく横たわっているからではないか、と。一世の時代は皇民化教育、創氏改名によって名前と言葉を奪われ、戦後になると今度はいきなり『お前たちは外国人だ』と言われて、あらゆる権利をはく奪された。植民地支配と戦争の歴史と、それから差別の歴史、そこまでが重なってきますよね。当然ながら、後から日本に移民として来る人たちとは、まったく異なる経緯です。

そうした中にあっても、なお日本でどう生き、権利を獲得していくのか。そのため、二世の歴史は、いわば権利獲得の運動の歴史だと感じました。直接的な運動だけではなく芸能やアート、スポーツなど様々な分野で、好むと好まざるとに関わらず、そうしないと生きていけなかった時代だったのだと」

◆後編⇒歴史社会学者・小熊英二が語る“在日”とは? 「日本の周辺に位置した彼らの歴史は『日本社会の鏡』」

(構成/津金一郎 撮影/江木俊彦)

■『在日二世の記憶』(集英社新書) 定価:本体1600円+税「一世」以上に劇的な運命とアイデンティティをめぐる困難な問いに翻弄された「二世」たちは「戦後/解放後」の時空を各分野のパイオニアとして逞しく生き抜いてきた。3千本以上のヒットを量産した天才打者、哲学者、実業家、医師、社会運動家、ミュージシャン、僧侶、伝統工芸職人、格闘家、劇団員、マジシャン、映画人ーー「在日コリアンの声を記録する会」がまとめ上げた50人のライフ・ヒストリーは、いずれも深い感動を呼び起こす。足掛け13年にわたって完成した、近現代史の第一級史料。