冨士見幼稚園の玉川弘園長。「僕の宝物は教員です」

神奈川県横浜市にある、学校法人・池谷学園『冨士見幼稚園』。ユニークな園児教育を実践し、入園料は21万円、保育料は月3万7千円と、費用は他園と比べてやや高いにも関わらず、幼児を持つ保護者からの入園希望は後を絶たない。

同園の子供たちはよく遊ぶ。園庭では年少、年中、年長の園児が一緒くたに駆け回り、ピアノ合唱でもやはり異年齢の園児がひと固まりになって歌っている。学年の枠を超え、遊びたい子は遊び、歌いたい子は歌い、絵本の読み聞かせを聞きたい子は床に座って聞いている。

昨今、多くの幼稚園で体操や英語教育など成果が見えるものを取り入れ、それに魅かれる母親も少なくない。だが冨士見幼稚園では、遊びを通して社会性を身に着けることを主眼とする保育を貫いている。

冨士見幼稚園には1学年2クラスがあり、現在125人が在籍するが、基本的に上記のようにクラス単位だけの保育はしない。そうなると、大変なのはクラス担任だ。自身のクラスに登録されている20人前後の児童だけではなく、その日その日でやってくる他クラスや他学年の児童のことも個人記録に残さねばならないからだ。

だが、教員同士の連携がそれを可能にする。ここでは、全教員が全児童の行動記録を共有しているのだ。だから、児童のちょっとした行動の変化も見逃さない。しかも、このごちゃまぜに遊ぶ集団の中には、今年はひとりだけだが、例年、数人の障がいをもった子供がいる。

玉川弘園長(80歳)は「僕の宝物は教員です」と明言した。そして、その教員に質のいい保育を維持してもらうため、十分な給与を支払っている。

待遇の低さから離職率の高い保育の世界にあって、冨士見幼稚園では結婚、出産、家族の転勤等で一度は退職した教員が、後に職場復帰することも少なくない。卒園した小学生や中学生がボランティアで保育に来ることもしばしばあるように、その保育ポリシーと職場の雰囲気が何にも代え難いからだ。

冨士見幼稚園はいかに、保護者からも教員からも“選ばれる幼稚園”になったのか?

同園は1953年、玉川園長の父、池谷肇さんが設立した。

「終戦後の復興は人づくりだ。それを担うのは、人間形成の第一歩である保育だ」との思いからのスタートだった。

その池谷さんは1965年、ガンで亡くなる。当時、息子の弘さんはサラリーマンで、それまでは園の運動会の雑務や行事の飾りつけを手伝ったりする程度の関わりしかなかったが、父の死を受けて、初めてまじめに保育の在り方を考えたという。

「当時の会社の仕事仲間を見ていますとね、仕事のできる人とできない人っているんです。できない人の共通点は生活力が弱いということもありますが、仕事外での遊びも一流じゃない。やはり、僕らが子供の頃に山を駆け回っていたように、子供には遊びが大切だし、それをもっと保育に取り入れるべきだと思っていたんです」

“跳び箱の跳び方を教えない”という逆転の教育法

年少、年中、年長の園児がごちゃまぜになって園庭を駆け回る。学年の枠を超えた独自の教育方針で社会性を育む

父の死後、弘さんは園を継ぐ。35歳の時だった。

「赤ん坊として生まれた人間が行き着くのは、社会人になること、家族をもつことです。では、社会性を持たせるために子供たちに何をさせるのか。他園で見られるように、ひとりひとりに楽器を持たせて整然と演奏させることなのか、文字を書けるようになることなのかと問うた時、僕はやはり『遊び』だと思いました。でも、幼児の遊びほど難しいものはない。要は遊びを通して何を会得(えとく)するかです」

そう話す玉川園長が実践する園児教育は他園とはひと味違う。

例えば、目の前に跳び箱がある。そこに、跳べない子がやってくる。そのとき、冨士見幼稚園ではどうやったら跳べるようになるかを教えない。できるかできないかの狭間にいる子供たちは自発的に頑張るからだ。“跳べない”を繰り返すうち、自分でああだこうだと工夫して、突然跳べるようになる。それまでの間、教員は「やってごらん」と見守るだけだ。

「教えて跳んだのと、自分で考えて跳んだのとでは価値が全く違います。多少遅れても『自分でできた!』と思えるようになることが大切。この感覚を私たちは育てたいんです」

砂場でも、子供が幼稚園に慣れた頃、あえて遊び道具を減らす。そうすることで子供同士、「貸して」「いやだ」「貸してあげる」「ありがとう」といったやりとりが始まる。教員は手を出さない。そのやりとりのあと、「先生、何々を出して」と子供から言われて初めて教員は動く。

冨士見幼稚園の見学は基本的にいつでも自由。園児が元気にたくましく遊ぶ姿に保護者は安堵し、それが口コミとなって園の評価を高めている。

これに加え、障がいを持つ子供と健常児を一緒に保育する統合教育を1960年代から続けている点も同園の大きな特徴だ。

きっかけは1960年代後半、日本初の障がい児と家族のための療育相談機関「小児医療相談センター」(1961年設立)から「自閉症児を預かってくれませんか」と依頼されたことだ。その子は園のすぐ近くに住んでいた。

当時は今と違って、障がいをもつ子を受け入れる保育園や幼稚園はほとんどなかった。特に肢体不自由児よりも精神障がい児や知的障がい児に行き場がなく、多くが自宅にいた。

例外があるとすれば、兄や姉が幼稚園や保育園に在籍していると、その弟や妹が障がいを持っていて入園を希望した場合、さすがに断りきれずに入園させるケースだ。ただし、軽度の障がいに限られていた。

園長が考える障がい児との正しい向き合い方

障がい児を支える公的な制度も整っていなかった時代、障がい児を受け入れてくれる幼稚園や保育園に関する情報交換は病院のロビーで行なわれることが多かった。母親たちはそこで得た情報を頼りに“園巡り”をしていたのだ。それでも断られる子供は少なくなかった。

そのひとりに多動と自閉を理由に入園を断られていたA君がいた。小児医療相談センターからの依頼を受け、玉川園長はA君の受け入れを決断する。

入園当初、冨士見幼稚園ではA君の扱いに多大な労力を割いた。ひとつのことが長く続かないA君はあっという間に園を脱走することを繰り返した。外に出ては近くの店に入り、商品のお菓子等をポイと口に放り込む。園の教員たちはお金を持ってA君を探したという。

見つけると、店の人は対応がわからずにオロオロしている。だが店主や店員の中には冨士見幼稚園の卒園児もいて、A君の行動は許してもらえた。だが、このまま追いかけ回し続ければ、他の園児の保育に支障が出る。

「誰かを専任でつけるか?」

こう玉川園長が考えた時、「私たちが交代で見ます」と名乗り出てくれたのが、7、8人の在園児の母親有志だった。彼女たちは曜日や午前、午後の担当者を決め、A君と行動を共にした。

担当者は教員から「A君は、現時点では粘土遊びなら30分は持続します。粘土をこねるのをやめたら、そろそろ次は絵本に移ります」といった情報を伝えてもらい、自らもその日の行動を記録した。例えば、『お友達の手足を伸ばすのを真似する。持続時間は5分だけ』といった具合だ。

協力する母親もいつしか30人を数えた。A君の毎日が書き漏らすことなく記録されると、行動傾向が把握できるようになり、保育は軌道に乗った。そこで、玉川園長が確信したことがある。

「30人のクラスに少数の障がい児がいると『変わったやつ』と見られそうですが、受け入れ側さえしっかりしていれば、健常児は差別しない。普通のクラスの一員になれるんです。例えば、ある児童に『この子はじっと座れないけど、キミが見ていてね』とお願いしておきます。すると、一緒に遊ぶことで障がいをもったその子は仲間として受け入れられていることを感じて、一緒に座れるようになるんです」

そして、教員も母親たちも感動したのが卒園式だった。多動なA君が動くことなく、しっかりと修了証書を受け取ったのだ。玉川園長は今でもその感動を忘れられないという。

★続編⇒【こんな会社で働きたい!】“健常児と障がい児が共に笑って育つ”--冨士見幼稚園の型破りな職場環境

(取材・文/樫田秀樹)