冨士見幼稚園の玉川弘園長。父親の幼稚園を引き継ぐために35歳で脱サラ、園長に転進した

遊びを通して社会性を育てる保育を貫き、注目を集めている学校法人・池谷学園『冨士見幼稚園』(横浜市港北区)。

現在、125人の園児が在籍するが、各教室に壁はなく、年少、年中、年長の異年齢の園児が室内で一緒くたにピアノ合唱をし、絵本を読み、園庭で遊び回る風景は他の幼稚園と一線を画すところだ。

障がいを持つ子供を一緒に保育する統合教育も実践。前編記事では、多動と自閉を理由に多くの幼稚園から入園を断られ続けていたA君を受け入れ、卒園するまでの話を紹介したが、そこには「受け入れ側さえしっかりしていれば、健常児は障がい児を差別しない」との玉川弘園長(80歳)の強い信念があった。

“健常児と障がい児が共に笑い、共に育つ幼稚園”。この環境はいかにして作り上げられたのだろうか。

多動児のB君も冨士見幼稚園に通っていたが、卒園を待たず、家族の都合で東京の代官山に引っ越した。そこの幼稚園は障がい児を受け入れていなかったが、B君は気づかれずに入園。だが、当の本人が「この幼稚園は嫌だ!」と当園拒否。家族は購入したマンションを売り払って横浜に戻り、再び冨士見幼稚園に通園した。

多動の子の受け入れは簡単なことではない。園を脱走してそのまま新幹線で沼津に行って、バスに乗って、祖母の家に行ったという事例もある。だが、冨士見幼稚園では教員が多動の子をテーマにした勉強会に参加したり、母親からも行動のどこを抑え、どこで叱るかを学び、保育の質を上げた。

「そうやって我々も経験を重ねていったんです」

冨士見幼稚園では障がい児を受け入れている--この情報が広がると、障がい児をもつ家族からの入園希望が一気に増えた。園としても「1クラスにひとりくらいなら」と受け入れ体制を拡充(現在は不文律で全体の10%まで受け入れ可)。1970年頃の話だ。

だが同時に逆の動きも起こった。

ある保護者から「先生、園でこんないいことしているのならPTAで伝えたほうがいい」と言われたことに同意し、会合で玉川園長が「幼稚園は情緒を育てるところ。うちには障がいを持った子どももいる。健常児も障がい児もともに育つ中で優しさが芽生え、障がい児が普通に人の輪の中に入っているのを教員全員が嬉しく思っています」と伝えた。

ところが、受け入れが一時的なものではなく、毎年行なわれるものとの情報が広がると、すでに通園させている園児を持つ母親たちの一部は「弟や妹を入れるのをよそう」と判断、新規入園を希望していた母親たちも「ウチの子は障がい児のいない園に入れる」と反発した。

その会合後の11月1日、来年度の入園募集をかけたところ、申し込みはわずか15人。例年の3分の1だった。このままでは来年度、教員の給与も出せない。経営危機に直面した冨士見幼稚園だが、「障がい児を受け入れない」という選択肢はなかった。それは自らの信念を裏切ることになる。

玉川園長はここで「在園児のお父さんたちに頼ろう」と思いつく。自らも会社員時代、会社には様々な能力や個性を持つ人間が集まることは経験済みで、障がいをもつ人も一緒に働いていた。今、まさに会社という社会で生きている父親たちなら理解してくれるのではと直感したのだ。

経営危機を救った“お父さんPTA”

11月のある土曜日。冨士見幼稚園は「お父さんPTA」を開催した。

「お父さんたちも知っての通り、冨士見は障がい児を受け入れています。ご存知ですね」

「知っています」

「今年は例年の3分の1しか入園希望者がいません。一部の母親から障がい児を入れていることを伝えてというから、伝えたら3分の1になった。どういうことでしょう? この園だから、どの園児も健やかに育っているのです。お父さんたち、元の人数を確保できるよう協力してもらえないでしょうか」

この玉川園長の問いかけに父親たちから意見が飛んだ。

「俺たちの社会には健常者も障がい者もいる。そんな社会に役立つ幼児教育ならいいじゃないか」

父親たちはその日のうちに妻たちの説得に努めた。すると、はたして、いつも通りの入園希望者が集まったのだ。

以後、入園募集で困ったことはない。赤字経営に陥ったこともない。冨士見幼稚園は全盲、肢体不自由、知的障がい、重複障がい等々、障がいの種類に関わらず障がい児を受け入れている。

こんなエピソードもある。ある小学校の運動会で、障がいをもった子が転んだ。すぐに起き上がれない。この時、誰よりも真っ先に駆け寄り、助けようとしたのが冨士見幼稚園の卒園児だった。その子はこう言った――「幼稚園ではいつもやっていたから」。

玉川園長が腐心するのは質のいい保育の維持だ。そのためには教員にそれなりの給与を支払うことを怠らない。

前編記事で書いたように、年少入園の場合、入園料は21万円、保育料は月3万7千円と、他園と比べたら諸経費がやや高いのもそのためだ。

では、どういう基準で教員を採用しているのか。ポイントがいくつかある。

「他園ではピアノが上手なら採用との向きもありますが、ウチではそれは二の次。まず、なんといっても子供と連携できるかどうかです。そういう視点で教員内で採用選考しますが、ウチは障がい児が在籍しているだけに、やはり現場を経験してほしい。つまり、就職希望の学生さんには4週間の総合保育実習に来てもらうよう、大学や専門学校の担当者には伝えてあります」

とはいえ、冨士見幼稚園は1学年2クラスの全体では6クラス。いわゆるクラス担任は6人だけで、誰かが辞めない限り、空きはない。

だがある時、教育実習でとても有能な学生がいた。本人も冨士見幼稚園での就職を望んでいたが、空きがない以上雇うことができない。しかし今を逃せばもう採用できなくなる。この時、教員たちが「是非雇って。私たちのサラリーを削ってもいいから」と園長に訴えたという。

それに応えた玉川園長はサラリー削減もせず、企業努力でなんとか人件費を捻出、その学生を採用したのだ。

教員が語る「冨士見幼稚園で働く魅力」

冨士見幼稚園の教員、松浦絹代さん(左)と、高橋恵子さん。どちらも出産のために一度は退職するも、後に復職。離職中に子どもを同園に通わさせていた点も共通する。ふたりを引きつけたその魅力とは…?

では、冨士見幼稚園のどこにそれほどの魅力があるのだろうか。あらためて教員の松浦絹代さん(42歳)に話を聞いた。

松浦さんは大学時代に玉川園長の存在を知り、その保育ポリシーに共感、手紙のやり取りをしていた。そこで「一度来てみませんか?」と誘われ、園を訪問。さらにその人柄と園の雰囲気に惚れ込んで、そのまま手伝いをすることに。そして、自分も教員になろうと決め、資格がないため、働きながら通信教育やスクーリングで保育の勉強をし、保育実習は他園で行なったという。

つまり、同時期に他園と両方の保育を経験したわけだが、当時のことをこう振り返る。

「冨士見が素晴らしいのはチームティーチングが徹底していることです。他園では、先生はそのクラスやその学年だけを見ていればいい。だから異学年の先生同士の横のつながりはありません。ここでの先生たちのやり取りを見ていると、『どうして他では教員同士で話し合いがないの?』っていつも思っていました」

1997年9月、松浦さんは念願叶って冨士見幼稚園に就職する。

そしてもうひとり。この年の4月、やはり新人教員として就職したのが高橋恵子さん(40歳)だ。高橋さんは他園で教育実習を受けたが、大学の担任教員が玉川園長の知人だったことから「いい幼稚園があるよ」と勧められ、面接を受けて採用されたのだ。

このふたりの新人教員が驚いたのが、全教員が園の全児童の個人記録を共有していることだった。

冨士見ではクラスに机はあっても、あえて椅子がない。執務をするのは全教員が揃う職員室に限られる。そこで、その日の全児童の様子が記録されるのだ。

「新人の頃は本当に混乱しました。保育時間では、自分のクラスの園児だけじゃなく、他のクラスからも他の学年からも園児が入れ代わり立ち代わり現れるので、そのすべてに目配せするのが大変で。職員室で『今日のあの子の様子どうだった?』と発言を求められても、最初はまともに答えられませんでした。

でも、自分のクラスの子が他の学年に遊びに行っても、そのクラスの先生はその子の行動をちゃんと把握している。私たちがそこで痛感したのは『こんなにいろいろな教員に見てもらっている子供は幸せだ』ということでした」(高橋さん)

また、自分の意見が表明できないからといって陰険な雰囲気になることもない。園児がそうであるように、教員もまた育つというのだ。

「ウチではね、職員室は『食飲室』なんです。飲み食いしながら和気あいあいと会議やっていますよ(笑)」(玉川園長)

子供が笑う幼稚園と萎縮する幼稚園の差

冨士見幼稚園の“食飲室(職員室)”。飲食しながら進めるミーティングの雰囲気は明るい

高橋さんは、3年目くらいから仕事が楽しくなってきたという。

「そうなると、自分の仕事が終わったからといってすぐに帰らない。かつて自分がそうされたように、自発的に自然と他の教員をサポートするようになるんですね」

2004年、松浦さんは体調を崩したことと、結婚を控えていたことが重なり退職する。結婚して子供を産んでも、園の行事の際には教員から声をかけてもらい、自分の子供を連れて遊びに来た。

その第一子が2歳になるちょっと前に、園から「2歳児クラス(年少)をやってみる気はない?」と声をかけられた。乳飲み子を連れて不安だったが、園長と主任の「大丈夫! フォローするから!」との声に復職を決意。さらに復職後2年で第二子を妊娠、また退職して第一子を冨士見幼稚園に通わせるが、保護者として関わったその3年間、母親の視点から見ても「冨士見の先生たちの子供に対する表情、声のかけ方、雰囲気は他園とは違う」と実感した。

そして、第二子が園に入るタイミングで、改めて「ここで仕事をやりたい」と思っていると、玉川園長から「働きませんか?」との声が再びかかり、昨年春からまた復職した。

一方の高橋さんも2005年、夫の広島転勤のため退職。広島市に8年住み、子供をふたり授かった。2012年、長男が小学校入学を迎え、長女が年中に進級する時に横浜に戻る。長女を冨士見幼稚園に入園させ、保護者として関わっていたが、長女の卒園を機に昨年4月から再就職した。

ふたりが声をそろえるのは「数年ぶりに復職しても、園内の雰囲気が全く変わっていない。教員同士でも、園児との関係でも、誰かを怒鳴りつけるとか暗い表情になるのを見たことがない。互いを尊重しあっている空気がある」ということだ。

ちなみに私事だが、記者の娘が通っていた保育園には、いつも怒鳴っている教員がいた。子供たちは委縮し、それをいさめる教員もいなかった。パート教員は自分の意見も言えず、ただ言われただけの保育をこなすだけだった。

対して、冨士見での徹底したチームティーチング。松浦さんと高橋さんとがいつも心に刻んでいる言葉がある。玉川園長の「職人になるな」との言葉だ。長年同じ仕事をしていると、つい自分の勘を優先させて動いてしまいがちだが、それはやるなと。

「園長は『後輩に理論的に伝える仕事をしなさい』と言います。保育には科学の一面もあるんです。子供がなぜこういう行動をとるのか、それにはちゃんと原因がある以上、勘ではなく、教員全体で分析して行動することを私たちはいつも肝に銘じています」(松浦さん)

冨士見のPTA会合で、玉川園長はいつも「教員が僕の宝です」と話しているという。その思いに応えるべく育っていこう--松浦さんも高橋さんもそう思っている。

(取材・文/樫田秀樹)