パン・アキモトの秋元義彦社長。今も被災地で焼きたてパンを提供するボランティア活動を継続している

東日本大震災から6年――。栃木県・那須高原のふもとに店を構える小さなパン屋の被災地支援の取り組みが注目されている。

1947年に創業したパン・アキモト。その名を世間に知らしめたのは、同社が阪神淡路大震災を機に“発明”した『パンの缶詰』である。最長37ヵ月の保存が効き、NASAに宇宙食として採用された実績を持つこの缶詰は、タイの洪水被災地(2011年・6400缶)やフィリピンの豪雨被災地(13年・5385缶)、熊本地震被災地(2016年・7050缶)など、これまで国内外の多くの災害被災地に届けられてきた。

食糧不足に陥った被災地へ、迅速に『パンの缶詰』を届けることを可能にしているのは同社の秋元義彦社長が考案した「救缶鳥プロジェクト」。ひとたびどこかで大規模災害が起きれば、災害備蓄品として『パンの缶詰』を保管している企業や自治体からこれを回収し、被災地に送り届ける。“パンを缶詰にする”発想とともに、この支援のネットワークを構築している点が、同社が注目される理由である(前編記事『「パンの缶詰」で被災地支援を続ける町の小さなパン屋さん参照)。

そんなパン・アキモトに“試練”が訪れたのは6年前のことーー。

2011年3月11日。東日本大震災で那須塩原市は震度6の揺れに襲われた。パン・アキモトでも棚が倒れ、6トンもあるオーブンなどが大きくズレた。

この数日前、地元の警察署から「最近、このあたりは空き巣が多いから気を付けて」と注意喚起をされていたというが、地震で停電となりセキュリティシステムが作動しなくなり、誰かが寝ずの番で残らねばならない。社員は社員で自分たちの自宅の後片付けがある。寝ずの番に立ったのは、2007年に東京の大手旅行代理店を辞めてパン・アキモトに参入した秋元社長の長男、信彦さん(37歳)だった。

現在は営業本部部長に就く信彦さんは今でもその夜のことを覚えている。

「夜になっても、緊張して眠れないわけです。すると、午前2時頃、ヒタヒタとオフィスに近づく足音が聞こえてくる。誰かの話し声も…。泥棒か?とドキドキしましたね。でも、製造部の社員だったんです。それもひとりやふたりじゃない。午前9時頃には東京に出張中だった社員を除いて、全員が出勤してきました。携帯電話が繋がらず、互いに連絡のしようがなかったから全員が自主的に出社したんですね」

会社に集まった社員たちの思いはひとつだったーー「社長、パンを焼きましょう!

食料が不足している被災地にパンを送ろうとの思いは信彦部長も同じだった。営業・事務方の社員は社内の片づけを行い、製造部の職人は電気を使わない製造作業を開始。電気が通電し始めると、オーブンでパンを焼き始める。震災当日の夜から防衛省と連絡を取り、会社にある缶詰を自衛隊に被災地まで送ってもらうことにした。

町のパン屋に義援金や救援物資が殺到したワケ

震災後、メッセージ入りの『パンの缶詰』を被災地に送り届けた

同時に、缶詰を所有する組織はもとより、連絡先のわかる個人客にも缶詰を被災地のために回収させてもらえないかと要請。食事も皆で持ち寄り一緒に食べた。「冷や飯でも暖かかった」と信彦部長は振り返る。

この様子がTV放映されたところ、翌日から会社の電話が鳴りっぱなしになる。

「アキモト、がんばれ」「応援しているぞ」。一番多かったのが「義援金を送りたいから口座番号教えて」との要望だった。日本国内だけではない。タイ、香港、イタリア、台湾からもだ。

お金のためにやっているのではない、と初めはこの要望を断っていたが、電話が途切れないことから、急きょ社員で話し合い、最終的には秋元社長が「この人たちの意思を背負おう。ただし、義援金としてではなく支援金として受け取り、パンを作る材料費にしよう。そのパンを被災地に送ろう」と決断した。

それからの3月と4月は怒涛の日々だった。全社員が一丸で、1日16時間働いた。

そんなある日、店にやってきた人が缶詰4千個分の注文として200万円をポンと置いて、そのまま立ち去ろうとしたという。さすがに信彦部長が呼び止めたところ、横浜から来た僧侶で「赤十字への義援金はいつ誰に活用されるのかわからないが、パン・アキモトなら、確実にすぐ被災者のために役立ててくれると思った」と言って、店を後にした。

アメリカから20フィートコンテナいっぱいの支援物資(靴下、水、食料)が横浜港に届いたのにも驚いた。宇都宮市の市民と知り合いのサンフランシスコの日本人グループが「アキモトだったら、アメリカからの善意も受け止めてくれる」と物資を集めてくれたのだ。パン・アキモトはこれら物資を引き取り、被災地で配布した。

届けるのはモノだけにしたくない。信彦部長がこう思ったのは、回収した缶詰には半分くらいに「被災地の復興を応援しています!」などのメッセージが書かれていたが、残り半分には何も書かれていなかった。ここに気持ちを添えたい、と。

だが、何千缶すべてにそうする余裕は社員にない。信彦部長は恩師が勤務している地元の高校を訪ね、元担任に「先生、お願いがあります。生徒にボランティアの手伝いをお願いできませんか。缶詰に被災地へのメッセージを書いてほしいんです」と伝えた。元担任はその場で「よし、校長室行くぞ」と校長室に入り、「これをうちの生徒が手伝ってもいいか」と直談判。校長の快諾も得て、生徒たちも快くメッセージを書いてくれた。

この後、メッセージを受け取った被災地の高校生と文通を始めた生徒もいる。そして、家も家族もなくした被災地からも逆に、パン・アキモトに頑張ってもらおうと、サンマ、米、ビール1ケースなどを届けてくれる人もいた。

「このボランティア活動に終わりはない」

大変な状況にありながら、被災地とパン・アキモトの信頼感が交差する濃密な日々――。

信彦部長は「僕たちはあの頃、1日16時間を働きました。近頃、長時間労働は批判の的にされがちですが、僕は社員自らが目標をもって一丸となり、一時期間の長時間労働なら否定はしません。むしろ、社員にも会社にもプラスになると信じています」と振り返る。

東日本大震災を機に、パン・アキモトは「中途半端には関われない」と毎月のように被災地を訪問している。

今年1月21日に向かったのは福島県郡山市。パン・アキモトと懇意にしているNPO法人「FUKUSHIMAいのちの水」は、毎週火曜日と土曜日に放射能汚染されていない水を求める家庭のために水ペットボトルなどを無償配布しているのだが、この日、パン・アキモトはその軒先を借りて、住民にパンを配布した。

これは全くのボランティア活動。会社の休日にしかできないので、参加するしないは社員の自由だが、必ず参加希望者が出てくるので途切れたことはない。社長と部長はほぼ毎回の参加だ。

現場に着いた社員たちはタープを組み立て、机をセットし、皿を並べ、フライヤーに油を入れ、燃料のガスに火をつける。頃合いを見て、油から揚げパンやドーナツ、メンチカツを取り出し、皿に次々と並べていくのは秋元社長の役目だ。

社員が、水を受け取りにやってくる母親や子供たちに「どうぞ、温かいうちに」と声をかける。ここでは配布だったが、各地の仮設住宅では住民と一緒にパンを揚げる「応援活動」も続けていて、パン・アキモトが来るのを楽しみに待っている人たちがいるという。だからーー。

「このボランティア活動に区切りはありません。止める理由がないから、やれる限り続けていくだけです」(秋元社長)

そんなパン・アキモトの社内でもっとも「しごかれて」成長したのは信彦部長である。

ホワイト企業の“二代目社長”の育て方

“救缶鳥”の缶(通常の倍の200グラム)を持つ秋元信彦部長

前述の通り、救缶鳥プロジェクトはパン・アキモトの名を広めた。だが、それは同時に国内外の被災地支援を無期限にやり続けると世間に約束したことを意味する。

パン作りではない仕事の負担も増えるが、当時、会社にパン職人はいても、経営は社長のリーダーシップだけが頼り。しかも20代の社員はふたりだけで、平均年齢は50代後半だったという。今後の会社運営に必要なのは若い力に他ならなかった。

社長は「2011年には新卒を迎える会社にしよう」との目標を持ち、救缶鳥プロジェクトの構想を練っていた2007年、会社の新体制の舵取りを東京の大手旅行代理店で働いていた長男の信彦さんに打診した。

「パン・アキモトは新しいパイオニアの時代に入る。だから、おまえが一番苦労する。その一番苦労する時に汗水流して、涙流して、一番辛い思いをしなければ、あとあと楽になった時に戻ってきても人がついてこない。帰ってこないか?」

この年、28歳になった信彦さんは結婚したばかりだったが、チャレンジ精神をくすぐられたのか、「帰る」ことを決めた。大手旅行代理店では6年間、有能な社員たちに囲まれながら、いろいろな仕事を経験し、パン屋の仕事もこなしてみせるとのひそかな自信もあった。

だが出社初日、信彦さんの自信とプライドは一瞬で崩れる。教育係としてついたAさん(仮)はその1年前の2006年に入社、かつて零細企業を上場させたほどの手腕を持っていた人だが、入社を間近に控えた信彦さんに「キミは僕をすぐに嫌いになるから」と宣言。

果たして出社初日、信彦さんが「おはようございます」と挨拶をして事務所に入ると、すぐさまAさんが机をひっぱたき、「何様だ? 帰れ!」と一喝された。信彦さんは、つい、お客様用の正面玄関から入ってきてしまったのだ。

社長の息子だからと特別扱いはしない。むしろ、他の社員よりも厳しく扱われ、「人より1時間早く出勤して、1時間遅く退勤する」ことが今も続いている。

入社から3ヵ月間は朝3時に出勤してパン製造を経験し、缶詰加工を見て、夜10時まで店番。帰宅後は疲れた体に鞭打ち、レポート作成に身を削った。そのレポートを皆の前でA氏に呼びつけられ、「使いものにならない!」と破り捨てられた。仕事の失敗には始末書を書いた。

いつしか、始末書や反省文は数冊分の厚さになった。泣いたこともある。だが、今の信彦部長は「得難い経験をした」と振り返る。●後編⇒「ありがとうカード」で社員が価値を認め合う、小さなベーカリーが世界の“お困りごと”を解決する!

(取材・文/樫田秀樹)