人生とゴルフの真髄を語る日本最高齢100歳のプロゴルファー・内田 棟氏

100歳以上の国内人口は年々増加し、昨年6万人を超えたそうだが、そのなかに飛び切りダンディーな人物がいる。内田 棟(うちだ・むなぎ)さん。今年101歳を迎える、現役のプロゴルファーである。

人生の大半をゴルフひと筋に歩み、人生の奥義をゴルフに教わった。今も連日、ゴルフクラブを握り、若きゴルファーからも貪欲に学びながら研鑽を怠らない。プロゴルファーになるまで、ゴルフ場のキャディーやインストラクターとして多くの人と交流を重ねた人間観察のプロでもある。

ゴルフを軸に築き上げた内田流哲学や著名人とのエピソードを綴った『淡々と生きる 100歳プロゴルファーの人生哲学』には、時代を超越する生き方の極意が詰まっている。

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―内田さんのゴルフ人生は10歳から。それも名門・軽井沢ゴルフ倶楽部からスタートしたのですね。

内田 今の人がそれだけ聞いたら、「お坊ちゃん」とか「英才教育」といった言葉を連想するでしょうね。しかし実情はその正反対。家計を助けるために、たまたま近所にあった軽井沢ゴルフ倶楽部でキャディーのアルバイトを始めたのです。私の父は木(こ)挽(び)きでしたが、家計を助けるためにゴルフ場の支配人に直接頼み込んで働かせてもらいました。今思うと、そこで一生の仕事に巡り合えたのです。

私のほかにも少年キャディーは10人ぐらいいました。キャディーにもAからCまでランクがありましたが、仕事に慣れてAクラスになると、ひと夏の働きで米が1俵買えた。子供にとっては最良部類のアルバイト先でした。

(1920年代)当時の軽井沢は別荘がようやく増え始めた頃で、ゴルフをするのは外国人宣教師や皇族、華族、政財界のトップクラス、ごく限られた名士たちだけです。ゴルフなど全く知らないまま飛び込んだのですが、初日からお客さんのキャディバッグを担がされ、何もかも即座に実践で覚えなければなりませんでした。

―ゴルフに関する知識だけでなく、名士たちに接する際のマナー、言葉遣いなども10歳にして学ばれた。ゴルフ場はもうひとつの学校だった、とも言えそうですね。

内田 ああ、確かにそうかもしれません。尋常小学校では居眠りばかりして成績はペケでしたが、ゴルフ場では生活がかかっているので必死で勉強しました。といっても誰も教えてくれませんから、すべてが「学ぶ」ではなく「まねぶ」でした。

外国人の会員がたくさんいたので、片言の英語も覚えました。中にはゴルフの初心者もいましたので、尋ねられたらゴルフのアドバイスもしなければならない。お客さんのゴルフスイングをよく観察して、どう打てばどんな弾道でどこへ飛んで行くかを頭に叩き込み、仕事の後でクラブ代わりに箒(ほうき)や熊手を振っていました。ゴルフクラブは到底、手に入らない値段だったので、山で伐ってきた木でクラブを手作りしたこともあります。

仕事には好きも嫌いも関係ありません。目の前にある「なすべきこと」をひたすらこなしていけば道は拓け、やっていることが面白くなる。その結果、好きになるのです。私もいつの間にかゴルフに熱中し、小学校を出た後、正式にキャディーとして働き始めましたが、20歳になって間もなく、ゴルフを中断しなければならなくなりました。

角栄さんのような素直さがゴルフ上達のコツ

―日中戦争が勃発し、陸軍の歩兵として戦地に赴かれたとか。

内田 はい。21歳で満州に行き、25歳で復員しましたが、半年後にまた招集され、今度は釜山や台湾へ従軍。暑さで方向感覚を失った戦友、被弾してひと晩中、呻(うめ)きながら死んでいった部下を目の当たりにし、私自身マラリアに苦しみながら10年も戦地で過ごしました。戦場は人を変えてしまいます。一番元気な20代のほぼすべてをそんな場所で費やしてしまった。戦争は二度といやですね。

昭和21年に帰国すると、軽井沢ゴルフ倶楽部はアメリカ軍に接収され、会員もがらりと変わっていました。理事長に就任していたのは白洲次郎さん。戦後、総理大臣を務めた吉田茂さんの懐刀として知られる白洲さんですが、ゴルフ場では名物カミナリ親父でした。従業員には優しく接してくれましたが、ルールやマナーに反した行為を目にすると、相手がどんな名士であれ、面子が潰れるほど徹底的に罵倒する。

しかも四六時中ジープでコース内を巡回し、クラブハウスのテラスから双眼鏡で監視していたので、プレーヤーにはさぞ煙たい存在だったでしょう。汗かきだった田中角栄さんが洗面所専用のタオルを拝借したのを白洲さんが見つけ、「『持ち出し禁止』の文字が見えないのか!」と、怒鳴りつけたこともありました。

―キャディー時代、その白洲さんと角栄さんにずいぶん可愛がられたようですね。

内田 可愛がられたかどうかわかりませんが、おふたりとはよくご一緒しました。毎朝、白洲さんをジープに乗せてコースを回るのは私の役目でしたし、何かにつけて「おい、内田はどこだ!」と呼ばれるので、白洲さんがいる間はトイレにもゆっくり入れませんでした。

角栄さんのプレーにもよくおつき合いしましたし、レッスンもさせていただきました。偉ぶることは一度もなく、打ち方をアドバイスすると「おお、そうか、そうか」と素直に受け入れ、「これでいいか?」とすぐ試して自分のものにしていく。角栄さんのような素直さがゴルフ上達のコツです。

白洲さんも角栄さんもせっかちで、構えたらすぐ打ち、プレー中もどんどん歩いていくところはよく似ていましたが、他の面では対照的でした。英国帰りのスマートさを身につけ、厳格に筋を通していく白洲さん。片や角栄さんには、いい意味で田舎育ちの大らかさがあった。前の組にプレーが遅い人がいても「おっ、えらい遅いな」と言うぐらいで決して怒らない。何事もさばさば、さっぱりとした人でした。

―ゴルフには性格、人柄がそのまま出ると言われますが、内田さんもそう思われますか?

内田 プレー中のマナー、思考法、周囲の人との接し方…ゴルフを見れば、その人がよくわかります。政治家も財界人もその世界で一流と呼ばれる人は、やはり人間的な魅力を備えていました。ゴルフ場に仕事は一切持ち込まず、「プレーをする今」を最大限に楽しんでおられた。

中には些細なことでキャディーを怒鳴りつけたり、見下した態度をとる政治家もいましたが、佐藤栄作さん、宮澤喜一さんなどは、まことに優しい紳士でした。「無駄口をきかない」「言い訳しない」「切り替えが早い」、これが一流の皆さんの共通点でしょうか。

技術だけでなく人間としての総合的な力も必要

―プロゴルファーになられてから、アマチュア時代とはゴルフに対する考え方や取り組み方が変わりましたか?

内田 いや、何も変わりません。そもそもプロ入りは周囲に勧められてのことで、私自身はプロになりたいという強い気持ちはありませんでした。ですからプロテストを受けたのも55歳、一発合格でいきなりシニアツアーに参戦した遅咲きのプロです。

ただ、気持ちは変わらないにしても、プロゴルファーになったからには結果を残さなければなりません。それにはゴルフのプロであると同時に「人生のプロにもなる」ことが大事だと思いました。

ゴルフの成績を上げるためには技術だけでなく、人間としての総合的な力も必要です。体力が要るのはもちろん、自分を律する精神力や状況を読んでとっさに下す判断力、そして知力も問われます。

そもそもゴルフは18ホールを回る2時間のうち、ボールを打つ時間はトータルで3分ほど。あとの大半は考えているだけです。といって、考えすぎるとろくなことにならない。90年やっていても、まだゴルフの神髄がつかめません。だからこそ、やめられないのですね。

―最後に内田さんのお好きな言葉を読者に贈ってください。

内田 「失意泰然 得意淡然」。悪い時は落ち込まず悠然と時期を待ち、良い時は奢(おご)らず淡々と過ごす、といった意味です、これもゴルフから学びました。天候や風など自分にはどうにもできない運、不運がゴルフにはついて回りますが、人生も全く同じ。山も谷もありますが、どんな時も心を平常に保って動じないことが大切ではないでしょうか。もっともこれは100歳の今だから言えることであって、若い時の私はよくカッとしていましたけれどね。

(取材・文/浅野恵子)

●内田 棟(うちだ・むなぎ)1916年(大正5年)長野県軽井沢生まれ。日本最高齢のプロゴルファー。名門・軽井沢ゴルフ倶楽部で10歳からアルバイト・キャディーを勤め、独学で身につけた技術で田中角栄、佐藤栄作、竹田宮など各界の著名人にゴルフレッスンをしてきた。55歳でプロゴルファーとなり、日本プロゴルフ選手権3位。95歳で日本プロゴルフゴールドシニア選手権大会出場を果たす。ゴルフ以外の趣味はショッピングと車。

「淡々と生きる 100歳プロゴルファーの人生哲学」集英社新書刊 700円+税日本のゴルフ文化の礎を作ったと言われる白洲次郎、小西酉二に薫陶を受け、名門・軽井沢ゴルフ倶楽部に勤務した著者は、日本最高齢100歳のプロゴルファー。10歳でキャディーのアルバイトを始め、独学で身につけたゴルフ技術が評判となり、各界の著名人にゴルフレッスンしてきた。55歳でプロテストに一発合格した遅咲きのプロゴルファーは、今でも毎日150球のパター練習を欠かさない。「仕事ができる人間はゴルフでムダ口をたたかない」「基本こそすべて」など、人生とゴルフの真髄をあますことなく語る。