故郷・奄美大島を生活の拠点とし、仕事では東京中心に各地を行き来する元ちとせさん

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

第39回のゲストでモデル・タレントのIVANさんからご紹介いただいたのは歌手の元(はじめ)ちとせさん。

02年、デビューシングル『ワダツミの木』の大ヒットで一躍、脚光を浴び、トップシンガーに。出産を経て復帰後も精力的に活動、広島原爆ドームでのライブをはじめ、歌を通じて平和を訴える活動にも力を入れている。

普段は2児の母親として故郷・奄美大島を生活の拠点とし、仕事では東京中心に各地を行き来するようだがーー。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

―今日はなんと、わざわざ奄美からこのために出てきていただいて。

 いやいや。せっかく、あんな素敵な人に声かけてもらって、断る理由もないので。

―その素敵なIVANさんからのご紹介ですが、意外と言ったら意外な繋がりで。

 最近1年ぐらいですかね、知り合いになって。鈴木おさむさん繋がりでパーティーがあって、そこにいらして。そしたら高校時代にすごい歌を聴いてくれてたって話を。そこから何度かお会いするようになって。

―「姉貴! 是非しっぽり語り飲み行きましょう! 大好きです♪」というメッセージが。完全に姉御な扱いですね(笑)。

 もうですか?(笑) 私、すぐそうやって言われるんですよ。でも、ある1回が濃厚だったんで(笑)。

―ははは。当然「元ネエさん」もだいぶお酒は飲むんですね?

 そうですね、好きですね。夏川りみと私がセットでいると皆イヤがります。

―あははは。イメージ通りじゃないですか、奄美と沖縄の…。

 だから奄美の横綱と石垣の横綱って言われてます(笑)。ま、楽しいんですよ。りみといると。それがたぶんイヤがられる理由でしょうね(笑)。

―僕が以前いた少年ジャンプ時代の上司も奥さんが徳之島出身で。えらい飲むし、強い女性で。

 徳之島はすごいですよ。やっぱり諸島というか、海がひとつずつ離れてるので気質がそれぞれの島で違いますから。徳之島はやっぱり闘牛の…。

―島でそんなランクの違いみたいなのが(笑)。闘牛が盛んなくらい荒いとか?

 本当にそう。徳之島を舞台にした闘牛の唄があるんですけど、あれを歌い出すと「闘牛より怖い」って言われてるぐらい血が騒ぐみたいな(笑)。

ただ、ハングリーっていうか、それで成功してる人も多い島ですね。出て行ってからのアイデンティティとか、そういうのをなくさない絆も強いですし。

―「闘牛より怖い」のは危なすぎですけど(笑)。僕のこれまで会った中ではモンゴル人が一番激しい印象で。旭鷲山っていう「技のデパート・モンゴル支店」って呼ばれて、一番最初に関取になった彼と以前仲良くなって。尋常じゃなく飲むんですが、モンゴルだと冠婚葬祭には必ずお酒がらみで死人が出るっていう話を(笑)。

 あははは。でもそうですよね。私も横綱の白鵬さんと友達で。相撲がすごい好きなんで千秋楽とかそういうパーティーにもよく行くんですけど、モンゴルの人たちは飲み方がもうスゴい、ちょっと違いますね。

怪しすぎて「そんな話はない」って断って…

―馬乳酒とか飲みながら「これ飲んでれば大丈夫だよ」って(笑)。でもそうなんですか、相撲女子だったんですね、実は。

 いや、「相撲女子」って言われるのはイヤなんですけど(笑)、相撲はすごく好きです。白鵬が一番大好きで応援に行くんですけど。奄美出身の相撲取りも多いので。

―奄美出身だとやっぱり気になるでしょうね。そういえば、ちょうど今、NHKの『ブラタモリ』で奄美を舞台にやってて。観ちゃいました。

 そうなんですよね! びっくりしました。皆さんが思ってるより大きい、1日じゃ回りきれない島なんで。割とパッと1周廻れると思ってチャリンコで来ちゃったりする人たちが大後悔するんですけど(笑)。

―ははは。でも、こうやってお話しするタイミングでOAされるのも巡り合わせかなと思いましたが。そういう縁でいうと、デビュー時の一番最初の頃に担当ディレクターだったエピックソニーのHって覚えてらっしゃいます?

 はい。

―それが実は僕の就活時代からの友達で。つきあいも長いんですけど。

 そうなんですか! 私、TさんともうひとりHさんっていうセットでお世話になって。面白かったですよ、ちょっと不思議な方たちで(笑)。「永遠の2分の1」って呼んでたんです。Hさんはだいぶお会いしてないですけど。渡米してからはなかなか…。

―僕も年に1回、帰国した時に会うくらいですが…。そういうのもあって、最初の『ワダツミの木』から注目させていただいて。一ファンとしてカラオケでも歌わせてもらってます(笑)。

 ふふふ(笑)、ありがとうございます。

―今日も、2006年だから10年以上前になるのかな…新宿・初台のオペラシティでやったじゃないですか、デビュー5周年でひと区切りみたいな。あれ、観に行ってるんですけど…。

 あ、そうなんですね! まだ上田現ちゃん(※)が生きてた頃で…。 ※元レピッシュ。プロデューサーとして楽曲の作詞・作曲も務めた

―そうですよね。そのコンサートをDVDで持ってるんで。朝に聴いてアゲてきました(笑)。

 ありがとうございます(笑)。結構、すごく鮮明に残ってるので。そんなに遠い昔な感じはしないですけどね。

―ちょうど出産されて復帰したくらいで。そこらへんの時代ってやはり激動でした?

 う~ん…。て言ってもマイペースなほうなので、あんまり自分の中でそういう感じはなかったですけど。周りにしてみたら激動だったのかな。私はこう、至って呑気というか(笑)。だから、周りに恵まれてたって感じですかね。

―本人にそんなあくせくしたものはなく(笑)。そもそも、アーティストを目指したのもそこまで貪欲ではなかったとか? すごく昔から島では有名で、その道をまっしぐらかと思いきや…。

 まぁ地元の民謡をずっとやってて、その当時は珍しかったんですよね、若いコが三味線を弾きながら民謡をやるっていうのが。そういう意味でいろんなところに呼ばれてたっていうのはありますけど。それをお金に変えようとか、プロにそれでなろうと思ったこともないですし。

それは逆に失礼なことだって思ってやってきたので。島から離れて自分に何か身につけて、また恩返しに帰るっていう風には当たり前に思ってきたんですけど。

「何かひとつ自分の人生、勝負かけてみよう」

―それで高校卒業後はまず美容師をめざしたという。自分の中で是が非でも歌を生業(なりわい)にしていくとか、そういうのでもなかったんですね。

 全然です。高校3年生の時に(奄美民謡)大賞獲ってTVに出て、レコード会社の人たちがたくさん来てスカウトされたんですけど、どう考えてもドラマとかで観るような怪しい感じしか受けなかったですし。

―ははは、イメージ通りの胡散(うさん)臭いノリで(笑)。

 はい。で、他のレコード会社はこういうアーティストがいるっていうCDとパソコンで書かれた手紙だけだったりしたんですけど…。それがエピックの元社長で当時はディレクターだった人は、当時私が住んでた所まで、もう本当に不便で今でもスゴいんですけど、たぶん8時間以上かけて来てくれたんです。

でも怪しすぎて「そんな話はない」って断って、30分くらいで帰られたんですけど。その貰ってた名刺がたまたま2年後に、その美容師の仕事でアレルギー起こして、大阪から帰らなきゃってなった時に落ちてきて。単純にこの人が本当にその会社に存在するのか調べたくて電話しただけだったんですけど。

―メジャーなエピックソニーにもかかわらず(笑)。

 全然知らなかったんです、そういう音楽の世界を。民謡しか…高校も中学時代も本当にどっぷりだったんで。だから(現所属の)オフォス・オーガスタに入った時も山崎まさよしさんのこともずっと佐野元春さんとどっちなのかわからなかったくらいで(笑)。

―え~っ、確かに見た目の系統が似てるっちゃ似てますけど(笑)。しかし名刺が落ちてきたっていうのもドラマみたいですが。思い切りよく電話したのが運の分かれ道で…。

 そう。で、その時に是非東京に出てこいって言われて。美容師にもきちんとなれなかったし、失敗して帰ってきたみたいに思われるよりは、何かひとつ自分の人生、勝負かけてみようと思って。

―それが98年くらいですよね。それからメジャーデビューとなった『ワダツミの木』(2002年)でいきなりメガヒットを飛ばして。そこは戸惑いもあった?

 いや、本当に人に恵まれてきただけで。1位になったこととかもよくわからなかったし、それがなんなのか…。なので、天狗になるということもなく。会社にも先輩方にもすごく守られて、マイペースに15年歩いてこれたのかなって。

―僕の中でその時代のデビュー曲での3大衝撃といえば、MISIAに宇多田ヒカルに元さんと。パッと出てきちゃうくらいですけど。自分がこれを歌うんだっていう、曲を貰った時の印象はどうだったんですか?

 インディーズの時代からもう上田現の曲は知ってましたから違和感はなかったんですけど。『ワダツミの木』でデビューさせたいって言ってたのを絶対譲らなかったんですね、うちの社長が。当時はプロデューサーだったんですけど。それで、私もこれを背負いますってことで。

―自分のイメージ作りみたいなところで、最初は求められるものを出していくしかないみたいな?

 いや、だから何を求められているかもわからなかったんです。ただ、歌うってことが楽しくて。PV作る作業も夢のようでしたから。スタッフと触れてるっていうだけで楽しかった。喧嘩したこともないですし、とにかく楽しい現場っていうことばっかりで。今もそうですけど。

●続編⇒語っていいとも! 第39回ゲスト・元ちとせ「『ワダツミの木』だけじゃない、自分の存在をもっと残していきたい」

●元ちとせ1979年1月5日生まれ、鹿児島県出身。小学生の時に自ら島唄を習い始め、高校3年生で「奄美民謡大賞」を史上最年少で受賞。2002年、メジャーデビューシングル『ワダツミの木』が大ヒット。同年7月リリースの1stアルバム『ハイヌミカゼ』は2週連続1位を獲得しロングセラーに。04年より結婚・出産のため約1年半の休養期間に入り、05年に活動を再開。原爆ドーム前で反戦歌『死んだ女の子』を坂本龍一氏とパフォーマンスし話題となる。現在は地元・奄美大島を拠点に活動中。

(撮影/塔下智士)