「事務所(オフィスオーガスタ)内で仲がいいので。あんまり他で友達ができない(笑)」という元ちとせさんだが~

あの国民的バラエティ番組のスピリットを引き継ぎ“友達の輪”を!とスタートした『語っていいとも!』

前回、モデル・タレントのIVANさんからご紹介いただいた第39回のゲストは歌手の元(はじめ)ちとせさん。

デビューシングル『ワダツミの木』の大ヒットで脚光を浴びたのが2002年。一躍、トップシンガーとなり、出産を経て復帰後も精力的に活動、広島原爆ドームでのライブをはじめ、歌を通じて平和を訴える活動にも力を入れている。

普段は2児の母親として故郷・奄美大島を生活の拠点とする彼女に、前回はそのデビュー前後のエピソードまでを伺ったがーー。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)

―ただ、その頃まだ23歳とかですよね。20代前半でこんな重い曲を背負って、もっと明るい感じで若さを出したいという欲求もなく…?

 なかったですね。なんでしょう…歌わせてくれるってことだけがとにかく嬉しかったので。あんまり自分がどう見られてっていうことも考えず。ま、でも100%スタッフを信用してるっていうところが大きかったかなって思います。

―そこで信じられるピュアさというか、島育ちで何も知らない自分みたいなところも逆に素直になれた部分でしょうか。

 う~ん。仕事しててもだし、場所場所で苦手だなって人ももちろんいますよ。でも私の身近な人間にはそれが本当に運良くいなかったんですね。自分でもたぶん、こういう人が好きだっていうのがハッキリしてるんだと思いますけど。

―それも持って生まれた巡り合わせですかね。ずっと楽しくやれてきたとはいえ、周りのプレッシャーとか期待も当然あったと思いますけど。

 プレッシャーっていうのはないですけど…。出産して休業して、その間に事務所の後輩たちがヒットしていったり、表舞台に出ていく姿がカッコよくも見えましたし、羨ましくもありましたし。 でもライバルっていうことよりは、休業明けを待ってくれていたスタッフにどうしても恩返ししたいっていう気持ちのほうが…。

なので、プレッシャーになんか思ったこともないですし。自分の声を一番よくわかってる人たちと新しい自分を発見しながらやっていきたいっていう。

―では出産や子育てのタイミング含めて、それ自体も自然なことで。そこで音楽活動をこれからどうしようとか、先々を悩んだりも特になく?

 うん。なので、そこらへんがダメなんですよね…行き当たりばったりっていう感じはとにかく多いので(笑)。ただ、なった時に考えるっていう根本があるので。「こうなったらどうしよう」みたいなことはあんまりないですね。

―沖縄的に言えば「なんくるないさー(なんとかなるよ)」というか、自分の中に潜在的にあるんですかね。

 そうでしょうね。子供育てるのにも、私がひとりで「うわ!」ってならなきゃいけないって思ったことないですし。そういう島で生まれ育ったからでしょうけど、みんなが育ててくれるっていうのはどこかしらにあるんで。

子育てで心配することは?って言われるんですけど、ひとつの命ですから。その子の運命、宿命は何が起きても受け入れるしかないので余計なことは考えないっていう。怪我するのも自分の責任だっていう風に思ってますし。本人たちも。

―運命というか流れに身を委ねる、来たものを受け入れるという。

 うん、そうですね。無理くりかもしれないですけど、私、本当に波の音を聞いて育ってるので。待ってたら寄ってきますし、引いていきますし。怒ってたら波の音も大きくなりますし。それがたぶんリズムの中にあるんだろうなっていう風に思いますね。

昔から「女が元気な島は絶対生きていく」

―そういう宿命に身を任せると、奄美に帰るのも自然のことだったんですね。

 だから、ずっと当たり前に「いつかは島に帰る」っていうのがあって。子育てのためによく考えてとかもないんですよ。東京で育てることも可能だったでしょうし、別に怖いなって思ったことないし。ただ、結婚相手も全然わからない時から、いつか島に帰る自分がもうあったので。なぜって言われるのが一番わからないですねっていう感じです(笑)。

―では特に生活してる中で都会の水が合わないとかいうのでもない?

 ないですね。人にいじめられたっていう記憶もないですし。とにかく大阪でも沖縄、東京行っても、いまだに迎えに来てくれる人たちがいて。寂しいって思ったこともないし、ホームシックみたいなこともなかったですし。

―結構、沖縄とか島の出身でいうと特に男が内弁慶で、都会がダメで戻っちゃうパターンが多いのかなって印象もありますが。

 なんか、私がデビューするまで「奄美出身だ」って言いたくなかったっていうのは、先輩たちもそうだし。恥ずかしかったっていうのと、説明してもわかってもらえなくてイヤだっていう感じがあったらしくて。でも私は1回もそんなこと思ったことないし。

デビューしてから私が奄美って言ってるから、堂々と言えるようになったって。都会に負けて帰ってくる人が少なくなりましたね(笑)。

―(笑)確かに自信というか、誇れる自分のアイデンティティみたいなものに気づきがあると変われますよね。

 沖縄とも元々、民謡を通じて、中学校の頃からミュージシャンの方たちにすごい可愛がってもらって。奄美と仲が悪いって思われがちなんですけど、一切そんなこともなく。

逆に沖縄の人たちのアイデンティティみたいなものの持ち方が今の奄美を作ってくれてるのもあって、私たちも「奄美の魂をちゃんと持とう」みたいな意識が強まってきて。島の人たちは「島出身」っていうだけでみんな友達になりますから、そういう絆は強いですよね。

―特に島の女性は強いイメージがありますけど。女性性というか“母なるもの”という感じで。

 昔からばぁちゃんたちにも「女が元気な島は絶対生きていく」っていう風に教えてもらってきたので。そういう意味でも強いって思われちゃうんでしょうけど。

―ご自分も母親として子育てをやりつつ、バランスよく仕事も島との間で行き来して。オンとオフ、いい感じで?

 そうですね。もう子供も手がかからないので…今まで半分半分にしてきたことをもっと歌に注ぎたいなって思いますし。自分の人生、母親としてだけじゃなく歌い手として、もっと力を注ぎたいっていう風に。この15周年を迎えてすごい思いますね。

やっぱり『ワダツミの木』だけじゃないものも生まれてほしいですし。自分の存在っていうのをもっと太く残していきたいとも思いますし。

―今また、むくむくとそういうタイミングで意欲が満ちて。ちょうどいい出会いとか巡り合わせもあるんでしょうね。

 ただ、うちの事務所の悪いところが、会社内がすごく仲がいいので。あんまり友達ができないんです。よその人たちと(笑)。なので、事務所のみんなの約束事として「もうちょっと友達を作ろう」って(笑)。

―ははは。それでこの「語っていいとも!」も受けてもらったんですかね(笑)。

 いえいえいえ(笑)。

「なんであれ、やめちゃったの?」って…

―おかげで、本当に今回、嬉しい機会で。パーソナリティを藤井フミヤさんと務められていたNHKの『Amazing Voice』も僕が大好きで、欠かさず観てたんですよ。

 あっ、すごいそれ言ってもらうこと多いんですけど。フミヤさんとの感じもすごい気に入ってもらって、音楽がすごく好きな人たちに観てもらえて。ライブとかで御一緒する大御所のミュージシャンの人とかも「なんであれ、やめちゃったの?」ってよく…。

―ほんと、なんで終わったんだ~!みたいな。

 予算不足でって話もありますけど(笑)。

―どんだけ放蕩したんだっていう(苦笑)。でも北欧からキューバまで世界中の知る人ぞ知るすごい民族音楽、ミュージシャンを紹介して。ハワイのIZ(イズー)とか。ZAZ(ザーズ)なんか日本でもあれから火がついたような…。

 あぁフランスの…。そうですね、結構あれで日本でもヒットして。私、ポルトガルのファドとか全然知らなかったので自分に近いものがあるなと思って興味を持ちましたし。モンゴルの“ホーミー”の話でまた白鵬関とも近くなったり。

―そういう意味では、お仕事ってことでもなく、自分にも刺激になったでしょうし。

 面白かったですね、本当に。なんかすごく楽しかったんですよ、フミヤさんのあのゆるい感じとかも。またフミヤさんっていうのがものすごく頭のいい方で。政治的なことに対してもすごくいろいろ知識がある人なんです。 そこで、私が世の中をあんまり知らない感じのバランスが…。

「今日はキューバですよ」って言われて「あ、チェ・ゲバラだな」ってフミヤさんが言って「それ、美味しいんですか?」とか(笑)。「おまえ、それシュラスコじゃねーから!」とか言われて、またひとつ勉強になりました、みたいな。

―あははは。ゆるふわで天然な掛け合いも心地いいみたいな(笑)。繋ぎで切り込んでくる林隆三さんのナレーションもすごくよかったですし。ほんと続けてほしい番組でした。

 続けたかったんです。もっと知りたかったし、もっとあるでしょうし。

―まだまだ世界中のね。署名とか集めて嘆願したいぐらいですよ。

 是非してください(笑)。本当にいい番組だって言ってもらえてよかったんで。

―では、ここでまずアピールして。奄美の島民から全国のファンまで声を上げて、徳之島でも闘牛の唄を歌って暴れるぞって(笑)。

 ねっ(笑)。

―そんな可愛い感じで元ネエさんに「ねっ!」って言われたら、ほんと押し寄せちゃうかも(笑)。

●続編⇒語っていいとも! 第39回ゲスト・元ちとせ「言葉のお守りっていうのは残していきたい」

 ●元ちとせ 1979年1月5日生まれ、鹿児島県出身。小学生の時に自ら島唄を習い始め、高校3年生で「奄美民謡大賞」を史上最年少で受賞。2002年、メジャーデビューシングル『ワダツミの木』が大ヒット。同年7月リリースの1stアルバム『ハイヌミカゼ』は2週連続1位を獲得しロングセラーに。04年より結婚・出産のため約1年半の休養期間に入り、05年に活動を再開。原爆ドーム前で反戦歌『死んだ女の子』を坂本龍一氏とパフォーマンスし話題となる。現在は地元・奄美大島を拠点に活動中。

(撮影/塔下智士)