「日韓合意の見直しに関しては、日本で誤解されているように思う」と語る金惠京氏。その真意は?

5月10日、韓国の新大統領に文在寅(ムン・ジェイン)氏が就任した。北朝鮮の核・ミサイル問題は対話による解決を重視する一方で、従軍慰安婦問題では2015年の日韓合意の「見直し」を公約として掲げている。

文大統領の誕生で韓国はどう変わり、日韓関係にどんな影響を及ぼすのか? 「週プレ外国人記者クラブ」第76回は、ソウル出身の国際法学者として様々なメディアで活躍する金惠京(キム・ヘギョン)氏に話を聞いた――。

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─金さんは5月3日から8日まで韓国に滞在し、今回の選挙戦を取材されてきたそうですね。まずは、肌で感じた選挙戦期間中の盛り上がりを教えてください。

 私が驚いたのは期日前投票に約1時間待ちの長蛇の列ができていた点です。今回の大統領選は最終的に投票率が77%を超え、有権者たちの関心の高さが示されましたが、これだけの行列ができている光景には本当に驚かされました。

期日前投票に行った有権者は若い世代が多く、彼らは投票日当日まで誰に投票するのかを全く迷わずに「早く文在寅候補に投票したい!」という思いだったと考えられます。

韓国の大統領選はこれまで候補者の出身地などを背景として地域間で票が割れる傾向がありましたが、今回は「世代間」で票が割れたと言っていいでしょう。5年前の大統領選挙でも高齢者が支持する朴槿恵(パク・クネ)氏と、若者が支持する文在寅氏に投票行動が分かれましたが、今回の選挙でそれは一層明確なものとなりました。

─2016年の米大統領選、そして韓国の2日前に行なわれた仏大統領選でも「国家の分断」が指摘されました。その分断は新大統領が決まった後も反対派のデモが行なわれるなど深刻化しています。世代間で票が割れたというのは、韓国も国家の分断の危機に曝(さら)されていると言えるのではありませんか?

 確かに、選挙戦期間中は世代間で分断が表面化し「米国の人種問題と同じように深刻」とまで言われていました。多くの家庭で若い世代が文在寅候補を支持し、親世代は保守系の洪準杓(ホン・ジュンピョ)候補を支持するといった構図が生まれたのです。

しかし、勝利後に文在寅氏が「私を支持しなかった人々にも仕える統合大統領になります」と宣言したように、大統領選後は分断が大幅に緩和され、韓国国民がひとつになって新大統領に希望を託す状況に変わっています。

会ったこともない人物を要職に任命

─なぜ、そんなに早く分断を緩和できたのですか?

 最大の要因は新政権の人事です。選挙戦を通じて文在寅候補を支えてきた側近は、新政権でも重要なポストに就くものと多くの人が予想していました。過去の大統領を振り返っても、そういった論功行賞的な人事は慣習化していました。

しかし今回、まず選挙期間中に重要な役割を担ってきた側近たちは新たな政権に入ることを辞退し、彼らに代わって新大統領が政策の実現のために起用したのは「公正さ」「実力」「強い意志」という観点で厳選された大学教授、かつての学生運動のリーダー、実直な元国会議員や官僚といった人たちでした。

この人事を見て、選挙期間中に対立候補を支持していた層も「この大統領なら、韓国の未来を託せる」と納得し、国民がひとつにまとまることができたのです。

新政権の核となるのは、韓国で「386世代」と呼ばれる、現在50代を中心とした人たち(1961~71年生まれ)です。この世代は1980年代後半の民主化運動に当時は大学生として参加し、21世紀に入ってからは盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の支持基盤となる等、韓国の政治シーンで重要な役割を果たしてきました。

韓国の民主化を常に最前線に立って主導してきた層が、ついに国家の舵取りに直接関わるようになったのです。ある意味、民主化運動がひとつの完成形を得たと言ってもいいでしょう。これが、韓国国民がひとつにまとまって国家の分断を回避し、新政権に希望を見出すに至った最大の要因です。

危惧されていた世代間の分断を統合し、新政権は今後、経済面でいえば格差をなくしていくことも目標に掲げています。そして、表立って明言してはいませんが、最終的には南北の統合も視野に入れているのではないでしょうか。つまり、「統合」は新政権を象徴する重要なキーワードなのです。

─しかし、前回の大統領選で朴槿恵氏が選ばれた時も、韓国の国民は「家族と縁を切った」という彼女の言葉にファミリー・ビジネスへの利益誘導で汚職にまみれた過去の大統領とは異なる新しい未来を見出していたはずです。そして、その期待は見事に裏切られたわけですが…。

 確かに、朴槿恵前大統領は家族・親族を要職に就かせることはしませんでしたが、自分の友人や深い関係を持つ側近たちで周辺を固めていました。人事について言えば、いわゆる“オトモダチ人事”だったと言えます。

そして、崔順実(チェ・スンシル)のような長年の親友が発端となったスキャンダルで大統領の座を追われたわけです。それに対して今回、新大統領が行なった人事は「国民の統合」あるいは「韓国社会の改革」を実行するためのものでした。

その象徴とも言えるのが、青瓦台(大統領府)の総務秘書官に企画財政部(財務官僚)の李正道(イ・ジョンド)氏を起用した点でしょう。この役職は青瓦台の財政を担当するポジションで、歴代の大統領は全員、自分の側近を起用して、それが汚職の温床にもなってきました。

しかし、李正道氏は新大統領にとって会ったこともない人物です。新大統領が彼に電話をして就任を要請する様子が韓国では報道されていますが、それは「突然で申し訳ありませんが、やっていただけませんか?」という、これまでにないものでした。

ブラックボックス化していた日韓合意の交渉過程

また、同じく青瓦台の人事で言えば、民政主席秘書官にソウル大学法学専門大学院のチョ・グク教授を任命したことも国民の期待を高めました。新大統領は、これまでの大統領による汚職の背景となってきた検察の改革を大きなテーマとして掲げており、民政主席秘書官はその改革の中心を担う重要なポストです。

チョ教授はソウル大学に16歳で飛び級入学を果たし、26歳当時、最年少で蔚山(ウルサン)大学の教員職に就いたエリートとして知られている一方で、同大学に就職した翌年に社会主義を信奉する団体を助けたとして国家保安法で拘束された経験を持つ社会参加型の刑法学者でもあります。彼と新大統領を結びつけているのは「検察改革」という共通の志だけなのです。

─日本だと、そういう学者肌のクリーンな人物を権力機構のトップに据えてもうまくいかないことが多い。官僚たちの反発に遭い、組織が機能不全に陥るからですが、大統領制の韓国では新人事の後ろ盾となる力が大きい分、日本とは違う結果になるかもしれませんね。ところで、日本人として気になるのは、新大統領が公約として日韓合意の「見直し」を掲げている点です。

 この「見直し」に関しては、日本で誤解されているように思います。これは、2015年の末に安倍首相と朴前大統領との間で交わされた慰安婦問題に関する合意を白紙に戻すという意味ではありません。

韓国国内では朴前大統領に対する不信感が非常に強く、実際に彼女が交わした日韓合意に関しても、その交渉の経緯も含めて不透明な部分が多く指摘されています。そういったブラックボックス化していた交渉過程を一度すべてオープンにして、そこから新たな国民の合意を得ようというのが「見直し」の真意です。

両国のトップ同士が交わした合意はもちろん非常に重い約束ですが、朴大統領時代への不信から韓国国民の多くが納得できないままでいるよりも「見直し」によって韓国国民から真の理解を得たほうが、両国の未来に貢献できると見方を変えることも有効な一手です。

また、やはり人事の話ですが、新大統領は韓国で「知日派」といわれる人たちを多く政権に入れています。首相に指名された李洛淵(イ・ナギョン)全羅南道前知事は、かつて新聞社の特派員として日本で5年間を過ごし、流暢(りゅうちょう)な日本語を話すことでも知られた日韓議員連盟の元副会長です。

これも慰安婦合意の「見直し」が日韓両国の未来につながっていくことを意図した新大統領なりのバランス感覚だと私は見ています。この「見直し」の真意については、その背景を含めて日本の国民に理解していただきたいと思いますし、韓国としても誠意のある説明を重ねていく必要があると考えています。

(取材・文/田中茂朗)

●金惠京(キム・ヘギョン)国際法学者。韓国・ソウル出身。高校卒業後、日本に留学。明治大学卒業後、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科で博士号を取得。ジョージ・ワシントン大学総合科学部専任講師、ハワイ大学韓国研究センター客員教授、明治大学法学部助教を経て、2015年から日本大学総合科学研究所准教授。著書に『涙と花札-韓流と日流のあいだで』(新潮社)『柔らかな海峡 日本・韓国 和解への道』(集英社インターナショナル)、『無差別テロ 国際社会はどう対処すればよいか』(岩波現代全書)などがある