音楽と映画、小説の3つを死ぬまで捨てないと語る辻 仁成

芥川賞作家、ミュージシャン、映画監督、演出家…など様々な顔を持つ辻 仁成――。その新作小説『父 Mon Pere』(集英社)はフランス・パリに住む日本人の父子の物語を息子視点で描いた作品だ。

パリで生まれた「ぼく」は、「パパ」の男手ひとつで育てられた。大人になり語学学校の教師として働いているが、70歳を過ぎたパパに健忘症の症状が出はじめ、街で迷子になった場所から「すまないが迎えに来てくれないか?」と電話が入る日々…。

異国で暮らし続ける老いた父と、その面倒を見る息子の間には複雑な過去のドラマがある。ぼくの中国系の彼女とその家族、やはり移民のメイド一家までを運命は巻き込み…。

「パリで息子とふたり暮らし」という自身の境遇とも重なり、必然的に紡がれた大切な一作。5月20日には原作小説を監督として映画化した『TOKYOデシベル』も公開されるが、前編に続き、創作者・辻 仁成の“今”と生き様にロングインタビューで迫った。(聞き手/週プレNEWS編集長・貝山弘一)。

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―今回の『父 Mon Pere』は私小説的に材を得ながらも息子さんとパリで生活されている自身の20年後を想定して描かれたということで。実際、息子さんと未来のお話をされることはあるんですか?

 ずっとパリで暮らすか、いつか日本に帰るかという話はたびたび日常の話題に上ることがあって。実は3年前、真剣に「日本に帰ろうか」っていう話になって、ふたりでずっと話し合ったんです。その中で僕は「まあ、ここで生まれたのも何かの縁だし、神様が『おまえ、ここで生きろ』って言ったんだよ。せっかくだから、パパもここにいるから」って。それで最近は、墓の話もするんですよ。「おまえが望むなら、俺、ここで死んでもいいからさ」みたいな。

―日本で生まれて、パリに移住されて、現在はご自身が主宰のウェブマガジン『デザインストーリーズ』の取材でも世界中を飛び回ったり。そういう意味では、ずっと旅行者というか。

 デザインストーリーズでは毎月世界中へ旅して、記事を書いています。すでに創刊から半年で20ヵ国ほど旅をして、毎回、息子が一緒なんです。僕は小説家ですけど、映画とか音楽とかいろんなことをやって、いろんなところに行って、生きていることを楽しみたいんですよ。

そもそも最初から映画と音楽と小説を全部やるつもりだったから、そこにジャンルの垣根を持ったことがない。60歳近くになっても未だにこれらを全て平等に続けている。よく仲間たちに「ひとつだけ選んで真剣にやってたら、もっと成功したのにね」って、からかわれるんだけど(笑)。

これまでにものすごく批判もされましたよ。20代の頃、ミュージシャンのくせに芥川賞かよって、文壇の人たちからボロクソ言われて。又吉(直樹)さんはどうしてそんなにいじめられないんだろう?(笑) それで映画撮ったら、映画界から「なんでこっちにくるんだよ」みたいなことを露骨に言われることもあって。

逆風を浴びると、愉快でしょうがない

―どの業界からも異端児扱いされてしまうというか…。

 でも、映画は今回の『TOKYOデシベル』で9本目だし、この作品で書籍も88冊目、CDもプロデュースしたものも含め結構出してる。よく「音楽をやめてから長いですね」なんて言われるけど、未だにコンサートも毎年やってて、7月に全国ツアーもやるし、やめてないよ!(笑)

人って、批判されるとすぐ諦めちゃうけど、やめるのは簡単で、大切なのは“続けていく”ということ。息子にも「やろうと思ったことを全部最後までやれ」って言うんですけど、僕は音楽と映画、小説の3つを死ぬまで捨てないと思うんです。

中でも映画は、小説と違ってひとりでは作れないから一番大変なんですけど、今回の『TOKYOデシベル』も仲間たち、辻組の熱きスタッフに支えられて撮り切りました。映画は団体戦ですよ(笑)。

―映画を撮られるのは、2年ぶりですよね。

 はい。前作は『醒めながら見る夢』で。僕の映画は低予算、インディーズで2~3週間という短期間で撮るものが多いんですけど、始める時は今喋ってるみたいな勢いでひとりひとりのスタッフを説得するんですよ。

―確かに、今日も息つく間もなくお話されていて(笑)。

 (笑)ずっとそうやって、9本撮ってきて。僕は映画学校にも行ってないし、映画の助監督をやった経験もないでしょ? 音楽学校にも行ってないけど、アレンジも作曲もレコーディングも大体はできる。小説だって文学部出身じゃないけど(笑)、ひとつひとつ全部、独学。自分で掴んで…。

だから、文壇で権力を持っている人からはウザがられたのかもしれない。何も学んできてない人間が偉そうにって。でも、そんなふうに最初から逆風を浴びる仕事をしてると、愉快でしょうがないですよ。芸術の世界でも結構な縦割り社会ですからね。

だから、又吉さんみたいに新しい人がどんどん出てくると嬉しいんです。「異端児たれ」ってね。『火花』も読んだけど面白いし、とにかく作品が本物であればいい。今回の『TOKYOデシベル』も低予算の映画だけど、映画の本質は譲らないんで。

―「東京の音の地図を作る」という夢を持って、TVで実際に使われているようなガンマイクを片手に街の音を集めている大学教授が主人公で。“音”にスポットを当てた作品ですね。

 映画館で音を聞く映画を目指したんです。僕はミュージシャンだから、思いついた瞬間に「これは面白い」と思って。映画を製作する上では、実際に録音担当のスタッフさんにガンマイクで東京中の音を普通の映画の何倍も録ってもらったんですよ。映画館で観てもらうとわかるけど、溢(あふ)れる音世界です。そうすると“生きてる東京”の心音が聞こえてくる。

僕が一番好きなのは、最後の東京の街を撮っているシーンなんですけど、微速度で撮ってるから、道路を流れていく車が血管を流れるヘモグロビンみたいで、そこに東京の音を集めて作ったドクドクッっていう心音を入れてね。ひとつひとつの作りがカッコいいんですよ。

最近は息子が「小説書いてみようかな」って

―この原作も96年に自身が書かれた同名小説ですが、それを改めて映画として作る意味があったというか。編集もご自身でやられているんですよね。

 自分の家に楽器や機材が全部あるスタジオみたいな部屋があるんだけど、そこで編集をしていると、息子が隣でずっと作業を見てるんですよ。それで「パパ、これはさっきのほうがいいんじゃない?」って(笑)。「前の編集のほうが気持ちがグッとくるけどな」とか言われて、もう1回見ると「確かにそうだね」ってなる。彼は小ちゃい時から映画の現場もコンサート会場も見てるし、最近は「小説書いてみようかな」って言い出したりもして。

―息子さんも小説を!? やはり、そこは親子というか。

 そんな姿を見ると「なるほど、“たったひとり”の人間かもしれないけれど、我が子に影響を与えてるってすごいことじゃないかな」って。もちろん、たくさんのファンが応援してくれているのも素晴らしいことだけど、このひとりの子が父の背中を見て、そう思ってくれたということに感動がありますね。

―創作をしている父親の姿はもちろん、日々面倒を見てくれている姿もきっと影響を与えているんでしょうね。

辻 弁当を作ることをひとつの“会話”にしようと思って。言葉で「パパはおまえのことを愛してるよ」って説明しても、そんなのタダの言葉じゃないですか? だから、見せるしかない、示すしかないと思って、毎日、朝メシを一生懸命作った。そうすりゃ、パパは大丈夫、と思うだろうとね。でも、3年それをやってると、最近は「もうウザいから弁当いらない。僕はトーストでいいんだよ」って言い出して。「そっか、それはそれでいいか」みたいな(笑)。

―やはり、「欠かさずおまえのためにやってきたことがあるよ」っていうのを示したいというか。

 そんな偉そうなことでもない(笑)。ただ、僕は働かなきゃいけないから。働くのが好きだし、やっぱり創作がすべてだとは思うんです。お金になるかならないかは別としてね。モノづくりをしてる親父を見ているからか、友達と一緒に短編映画を作り始めたり、すごいですよ、早くて。最近は「小説書きたい」って言い出してるわけでしょ(笑)。もうこれは僕の出る幕じゃない。でも息子との戦いというか、いいライバルが生まれたんじゃないですかね。

―恐るべき息子さんですね…!

 いつの間にか、彼は「自分が表現することで人が集まってくる」っていうことを自然に学んでたんだよね。うちにもユーチューバー好きの友達を連れてきて「あのユーチューバーがどうだ」とか議論してるから「おまえら、外に遊びに行けよ」って言うんだけど、「パパの時代は野原に行ってたかもしれない。でも、僕らにとっての野原はYouTubeなんだよ」って返してくるんだよ。

―それは、セリフとしてそのまま使えちゃいますね(笑)。

 (笑)本当にそのぐらい世界はどんどん変わってきてるんで、僕は息子からすごくヒントを得ているんですよ。

大家ヅラしてのさばることもできるけど…

―いろいろなところから貪欲に情報を吸収して、創作に繋げられているというか。しかも今は、ウェブマガジンの取材・執筆もされて、そのエネルギッシュさに驚かされます。

 デザインストーリーズは命がけで、毎日記事をアップし世界中旅して頑張ってるんです。僕の日常生活は朝起きて子供にご飯を作ったら、ずっと創作ですから。時々、外で走って体を鍛えて、また戻ってきたら創作。夏はライブやったり、冬は舞台の演出をやったり、時間を無駄にはしない(笑)。でも息子の協力があってこそ、これができています。

別に何かを残したいとか評価されたい、お金持ちになりたいとか、そういうことに興味はない。映画だって、大手の映画会社で作るんじゃなくてインディーズの映画が撮りたいわけだし。目指しているものは独特なんだけど、そこはずっとブレてないんです。小説、音楽、映画ってやってることは全然違うけど、どのジャンルでも目指していることは一緒。同じことをやり続けているという。

―ある意味、ずっとブレずにやれるのも、雑音のないパリを拠点にしているからこそというのも?

辻 あとは時間の使い方だと思います。時間の使い方、うまいねってよく言われるんですけど、僕は時間というのは、使う側が本気で向き合えば、湯水のように溢れるものだと思ってるから。みんな「時間がない」って言葉を使うのは、本当にやめたほうがいい。それはマジ、よくない言葉だから。

いろいろな表現を続けられるのは、自分で時間を作ってるからなんです。ウェブマガジンもロシアの「赤の広場に行こう!」って思い立ったら、すぐ取材に行くし。「時間がない」って言ってたら、そこまでは行けないですよ。

―すべてが自分の血肉になって、創作に繋がっていく。しかも、それを楽しんで活き活きとやられているのは羨ましいです。

 実は簡単なことで、“新人”であればいいんですよ。僕はずーっと新人でいようって決めたんです。歳も歳だし、なんか偉そうな感じで大家ヅラしてのさばることもできるんだけど、そういうことをダサいって思い恥じるというか。「あ、なんか大人に近づいちゃったな。これは失敗に向かってるのかな」って思うようにするんですよ。…でも、世の中の見方は違って「辻って気難しそうだな」って思われるけど、全然気難しそうじゃないでしょ?

―こうしてお話ししてると、全然(笑)。

 (笑)嘘がない人生が大事で。本当に行動しなきゃダメだし、世の中、やっぱりこういう変なオヤジがいたほうが面白いんじゃない? 僕みたいなのを「叩いてなんぼ」みたいに思ってる連中は本質で弱いよね(笑)。

まあ、ずっと新人でいて、いつも新しいことに向かって行くっていうのがすごく大事なんじゃないかなって。そういうことを伝えていけるアーティストであり続ければ、もうそれが自分の本望なんです。少なくともひとりはなんとなく俺の背中を見て育ってるのが身内にいるから。それだけで僕にとっては心強いし。

子供の頃から死ぬことはすごく楽しみ

―小説の中では健忘症の父親の姿が描かれていたので、ご自身も“老い”を感じているのかと思いきや、お話を聞いていると、考え方にしても行動にしてもかなりエネルギッシュですね。

 いや、老いを感じることもありますよ! やっぱりジジイになったなぁって。40歳までは「ミュージシャンで映画撮りやがって」とか言われたら「きっと彼らは俺に恐れをなしてるんだな」くらいに思ってたけど。そういうかつてのエネルギーはもうほとんど残ってないですから。

でも、全部やり続けているし、自分の目指すところは何ひとつブレてないと思ってるんで。あとは、息子に追いかけられていることだけが唯一の危機感なんだけど(笑)。

―では、理想の老い方みたいなものはあるんですか?

 僕は昔からすごくカッコイイおじいちゃんになりたいと思って生きてきたんだよね。いつになっても何者かわからないような、宇宙人のような「今までの概念にない人間になってやるぞ」って気持ちがあって。そんなふうになるためには、作品がきちんと中央を突破していることこそがまず大事なんです。映画の『TOKYOデシベル』であろうが、この小説『父 Mon Pere』だろうが、自分に対して嘘がないことが大事。それがある人たちに届けば…それがひとりでもいいんですよ。

―作品の話から人生観まで、かなり濃い振り返りをしていただきましたが、最後にこれからの未来のことについてお話いただければと。

 20年後、自分がこの小説の「パパ」の歳になった時、77になるまでに、あと何本の作品が残せているのかなって。…自分の残りの時間との戦いっていうかね。確かに昔ほどのエネルギーはないけど、最後まで挑戦者としてやっていきたいですね。子供の頃にやりたかったものは全部制覇して死んでやるぞって。

実は、子供の頃から死ぬことはすごく楽しみで。死っていうのが自分の大団円、最後の一番の舞台だと思ってるんです。小ちゃい時に「今、生きることを頑張れば、その死は最高のものになるはずだよな」って思ったの。それをずっと続けているんですよ。

だから、自分への波風はあるし、敵もいるでしょうけど、最後は自分がやってきたこと全部に感謝して。「こんだけのものを作ったぜ」っていうのを何か見せられたら…。その共犯者というか、一番の伴走者が息子なんです。こんな話をすると彼はイヤがるし、反抗するんだろうなあ。父親は難しいですね(笑)。

(構成/岡本温子[short cut] 撮影/五十嵐和博)

●辻 仁成東京都生まれ。1989年、「ピアニシモ」で第13回すばる文学賞を受賞。以後、作家・詩人・ミュージシャン・映画監督と幅広いジャンルで活躍している。1977年、「海峡の光」で第116回芥川賞、1999年、『白仏』の仏訳版Le Bouddba blancでフランスの代表的な文学賞であるフェミナ賞の外国小説賞を受賞。『日付変更線』『まちがい』『右岸』ほか著書多数