現在、約30社の産業医を務める大室正志氏

現役の産業医が上梓した『産業医が見る 過労自殺企業の内側』(集英社新書)が話題を集めている。著者の大室正志(おおむろ・まさし)氏は、大手ヘルスケアメーカーのジョンソン・エンド・ジョンソンで統括産業医を勤めた後、現在は大手企業からベンチャー企業まで約30社の産業医を担当している人物。

メンタル疾患にかかる社員や自殺にまで至る社員とはどんなタイプか? そうならないための自己防衛策は? 産業医の現場でのべ3万人の社員を診てきた大室氏に話を聞いた。

―まず、産業医は普段、どのような仕事をされているのでしょうか。

大室 私の場合はある特定の企業に常駐する専属産業医ではなく、顧問先を多数抱える嘱託産業医を日常業務としています。例えば、ある日のスケジュールはこんな感じでした。

午前中は某企業の物流センターに行き、職場巡視。すると、あるフロアで腰痛を訴える従業員が多いとの相談を受けました。ヒアリングを進めると、その原因が10kg以上の重量物を垂直移動で持ちあげる作業が日常化していた点にあることが判明し、担当者と荷物を水平移動できるように机を置くなどの対応策を検討。その後、長時間残業者への過重労働の面談をしました。

午後はオフィス系の会社で復職を考えているうつ病休職者を面談した後、抗がん剤を使いながら勤務している社員を面談。白血球値が落ち込んでいたため、休職か勤務継続かを話し合いましたが、抗がん剤をストップすると改善が見込める可能性が高いということで就業許可。ただ、満員電車などの人混みの中では風邪などの感染リスクが高いので人事と上司に掛け合い、しばらくの間は時差通勤を認めてもらうことになりました。

産業医の仕事は、単に社員の悩みを傾聴するだけではなく、『じゃあどうするか?』を一緒に考え、時には人事や上司に掛け合い、対策を打つ。現在は30社を担当していますが、最近は特にメンタル不調者のカウンセリング的要素だけではなく、職場の労務上の問題を指摘し、解決へと導くコンサルティング的な要素が増えているように感じています。

―その産業医の目から、“職場でメンタル不調に陥りやすい人”はどういうタイプの人だと感じていますか?

大室 私の元になんらかのメンタル不調を抱えて面談に来る人の8割ほどは『自分ひとりで抱え込みすぎた』と言う。その中でよく見られる傾向は“感情を言語化”するのが苦手だということ。例えば、職場で上司や先輩に「大丈夫?」と聞かれて、反射的に「大丈夫です」と答えてしまうような人がそう。特に年配の男性にこの傾向が強いと感じます。

同じ状況で嫌々ながらに「あぁ…はい」と答えるケースも一緒で、本人からすると言葉のニュアンスと表情で気づいてくれよと期待している部分があるのですが、現代の職場ではそうした“言外のメッセージ”が非常に伝わりづらい環境になっています。

社員を苦しめる職場の“ライオン”の正体

―つまり、部下の“SOS”が上司に届きづらくなっていると…。それはなぜでしょう?

大室 上司が“プレイングマネージャー化”していることがひとつ。人手不足など様々な事情で最近は自分もプレイヤーとして働かなきゃいけないという上司が増えている。つまりオーバーワークの状態で部下のマネジメントに割くだけの余裕がなくなっていると。

もうひとつ、ビジネスの形態が大きく変容しIT化も急速に進む中で、上司が部下の仕事を理解しづらくなっていることも影響しています。2000年以降、デジタル事業部のような部署が新設された会社は数多いと思いますが、その管理職に就くベテラン社員からすると、現場経験がない仕事を担当するだけに「部下が何に苦しんでいるのか?」「今、どれくらいの疲労がたまっているのか?」が理解できないという問題に陥る。

上司も「やったことのない仕事」を想像するのは難しい。そうして上司と部下の間で共感というものを媒介にしたコミュニケーションが取りづらくなっていることも職場でメンタル不調者が増加する遠因になっていると思います。

―では、メンタル不調に陥ると人はどうなるか? これは私個人の話ですが、以前、編プロに勤めていた時、提出書類に微細なゴミが付いているだけで激怒するキツイ上司がいて、とにかく、その人が怖かった。ある時から上司が言葉を発するたびに体がビクッと反応するようになり、食欲も減退して、上司の顔を思い出すだけで胸が苦しくなって…

大室 人間って緊張時には交感神経が優位になり、リラックスした時には副交感神経が優位になります。そこで、例えば目の前にライオンが現れたら、反射的に瞳孔がパッと開き、襲われても出血が少なくて済むように体中の血管がキュッと締まる。すると体中の血液が体の中心に集まり心臓がドキドキして、消化の働きが後回しになって食事が喉に通らなくなる。これが交感神経が優位になる“緊張”という状態ですね。

ただ、例えば原始時代にいたとしてもライオンに出くわすなんてことは頻繁(ひんぱん)にあるわけじゃないし、現れたとしても必死に逃げて、安全な場所に辿(たど)りついたところでリラックスし、ようやくまた胃腸が動き出す。すると、“そういえばお腹がすいたなぁ”と気づいて、食事を採るわけです。

何が言いたいかというと、身体の症状で見れば、過度な緊張を強いられる職場で働き続けるというのは“ライオンがずっと隣にいる”状態に近いということ。本来、自分に危害を加える外敵が現れた場合、その対象から遠ざかるというのが動物や人間の自然な行動であって、そこに“わざわざ行かなきゃいけない”というのは非常に矛盾した行動なんですね。

そんなことを繰り返していると、体に不具合が起きるのは当然の話で。夜になっても交感神経優位が続いて、なかなか寝付けなかったり、全く緊張すべき場面じゃないところで動悸が激しくなって胸が苦しくなったり…。これはいわゆる自律神経失調症の典型的な症状ですね。おそらく、記者さんもその状態に陥っていたと思われます。

職場うつを未然に防ぐ“感情の言語化”とは?

―私の場合は自殺を考えることはありませんでしたが、一方では同じような境遇にいて、死を選んでしまうケースもあるかと。

大室 抑うつ状態になると最悪、自殺に追い込まれる場合もあります。抑うつ状態、特に睡眠不足による過労が重なった際には冷静な判断力が失われますので「死ぬくらいなら辞めればいい」というメッセージは無力です。その際、遺書を残すなどの“準備をして死に至る”ケースもあれば、自分の葛藤をリセットするためにリストカットや大量服薬を行なうケースもあります。この場合も切りどころが悪く、“結果的に自殺に至ってしまう”こともありますが「本気で自殺したかったのか」という判断は難しい。ただ、これも自殺におけるひとつのケースです。

周囲の人は「○○さん、最近、ちょっとおかしい」と思っていることが多く、その兆候としては「電話に出ない」「メールの返信が遅れる」「やっと返信が届いたけど文章がおかしかったり、誤字脱字が増えている」といった傾向が見られ、シャツの襟が汚いまま…など、服装の乱れに表れることもあります。ただ、本人だけがそういう変化に気づく様子がなく、自分がうつ状態にあることにも自覚がないケースが多い。

―危機的な状況に陥っている自分に気づくためにはどうすれば?

大室 そこを自分で見分けるポイントとして考えなければならないのは、例えば会社の人間関係や長時間労働に苦しんではいるんだけど、休日には友達と飲みに行く、趣味のサーフィンをしに行く、彼女とデートする…この状態を保っているなら、まだ少しは余裕があるとみていいでしょう。逆に、好きなことに対してさえも気力が起きなくなっている状態であるなら、危険水位に達していると自覚するべき。すべての対策は今の自分の状況を認識するところからスタートします。

―できることなら、自分が危機的な状況に陥る前に普段から対策を講じておきたいものです。職場で過度なストレスを抱え込まないようにするには…?

大室 まず前提として、人間も動物ですから、脳の集中力が保てる時間には限度があり、一定以上の睡眠と休息は必要です。ただ、近年はパソコンやモバイル機器が発達し、情報量だけは莫大に入ってくるようになりました。これはバッテリーの容量は変わらないのに“アプリだけが増え続けているスマホ”のような状態。脳が慢性疲労に陥りやすい時代に生きているということをまずは認識することが大切です。

その上で、先にも述べましたが多くの職場が“言外のメッセージ”が伝わりづらい環境になっているので、本当にツライ状況で仕事を振られた時にはしっかりと言葉で伝えることが自分自身を守ることにもつながる。産業医の現場で感じるのは、上司の目を気にして「はい…大丈夫っす」と抱え込む人より、「正直、キツイです!」などと適度に感情を言語化できる人のほうが職場では“強い”ということ。もちろんあまりに「キツイ」を連発すると職場でやりにくくなるなど、その塩梅(あんばい)は難しいですが…。

ただし、どんな仕事でも体調より優先すべき課題はありません。やはり「キツイ」と言えることは身を守るために“大事なスキル”だと思います。

心身の健康を保つ上で必要なのは感情を押さえることではなく、感情の存在を肯定し、その表出の仕方をコントロールすること。そこが苦手だという人は、まずは自分の感情に耳を傾けることから始めてみるといいと思います。

大室正志(おおむろ・まさし)1978年、山梨県生まれ。医療法人社団同友会・産業医室勤務。産業医科大学医学部医学科卒業後、都内の研修病院勤務を経て、産業医科大学産業医実務研修センター、ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社統括産業医を経験し、現職。現在、日系大手企業、外資系企業、ベンチャー企業、独立行政法人など約30社の産業医を担当する。

『産業医が見る過労自殺企業の内側』集英社新書 720円+税

(取材・文/興山英雄 撮影/五十嵐和博)