社員を大切にする労務管理が高く評価されている協和の実質的な経営者・若松秀夫専務と今春に産休から復帰した営業職の神田仁愛(いね)さん

ニッポンには人を大切にする“ホワイト企業”がまだまだ残っている…。連載『こんな会社で働きたい!』の第10回は、東京・千代田区に本社を構える鞄メーカー・協和だ。

7月某日、取材予定の少し前に協和の本社に到着すると、専務室の皆川京子さんが出迎えてくれた。だがこの数分後、専務の若松秀夫さん(66)へのインタビューが始まると皆川さんは退社した。

聞けば、数年前から家族の看護のため、毎日この時刻には会社を後にするという。

皆川さんは当初、会社を辞めることも考えた。だが若松さんから「辞めずに済む方法があるのなら言ってみて」と促され、「午後に休めれば…」と回答したところ、それが了承された。

取材には1年3ヵ月の産休から今春復職したばかりの課長代理(営業職)・神田仁愛(いね)さんも同席したが、毎日、保育園に子どもを迎えに行くため、退社時間は定時の17時20分より少し早い17時。

他にも、体調不良により10時出社の社員もいる(定時は8時50分)。体に障がいがあり、杖を使う社員はラッシュアワーを避けるため、やはり10時に出社し16時半に退社する。

「一般的に考えれば、秘書が14時にいなくなったり、営業担当者が17時にいなくなるのは会社にはマイナスかもしれません。だがそれを補い合うことで、逆にプラスの側面も生まれると私は思うんです。何よりも大切な人材を失わずに済む。どんなに早く退社しようとも社員には辞めないでほしいんです」(若松専務)

協和は鞄メーカー。特にランドセルは「ふわりぃ」のブランドで知られ、日本では生産第2位のシェアを占めている。若松さんは若松種夫社長の長男であるが、社長の高齢化もあって実質的な会社経営者である。

その若松体制では、家庭的な事情があればその都度考慮し、その社員に合った勤務体系を考える。女性の産休や育児休暇の取得期間は本人次第。離職率はほぼゼロ。リストラもゼロ。残業時間も営業職を除けば月5時間以内。取引先への支払いはすべて現金決済。赤字経営に陥ったこともない。労働時間が短い社員でも正社員の身分は保たれる。

こういった実績が評価され、「社員や顧客や地域を幸せにする」経営に努める企業を表彰する『日本でいちばん大切にしたい会社大賞』で2013年、審査員特別賞を受賞した。

ところが、協和がこうして評価される会社になったのは「ここ10年から15年くらいのこと」(若松専務)。昔は、社員思いの会社ではあったが、サービス残業もあれば、女性の産休や育休取得も数少なかった。

実際、18年前に入社した神田さんも「入社当時、専務は私たちには雲の上の存在で、話し合うなんて考えたこともなかったです。実際はこんなに親しみやすい人だなんて考えてもいなかった(笑)。そして確かに、当時は現在と比べると残業も土日勤務も多くありました。当時、産休と育休を取っていたのは皆川さんだけだったと記憶しています」

ボーナス以外に社員に100万円を支給!?

ランドセルやスーツケースなどを製造する協和・千葉工場の作業現場

日本の民間企業の場合、正社員の女性は育児休暇後も正社員として復帰できる。だが、その育休期間は大抵の場合、半年程度だ。それ以上の休暇となると退職するか、非正規社員として再雇用されるかのどちらかの場合が多い。そうなると、同じ仕事を続けても賃金はそれまでの半分程度。だが、協和では1年休んでも2年休んでも正社員の地位が約束されている。理由は明快だ。

「優秀な人にはいつまでも働いてほしい」(若松専務)

協和では今、毎年のように女性社員数人が産休と育休とを取得するが、職場への復帰率は100%。2回、3回と取得を繰り返す人もいる。

それでも、神田さんが育休を取るにあたり気になったのが、自身が中堅社員で課長代理という役職を持っているだけに1年以上も会社を空けることへの不安だった。つまり、誰かに負担がかからないのかと。

しかし杞憂(きゆう)だったようだ。神田さんは「産休明けに復職しても、育児のための変則勤務にイヤな顔をする人はひとりもいません。だからこそ、ここで働き続けようと思います」と決めている。

2014年6月からは「子育て100万円プラン」も実施している。協和グループに3年以上在籍する従業員の子ども(健康保険の被扶養者)に「誕生祝い30万円」「小学校入学祝い30万円とランドセル」「中学校同20万円」「高校同20万円」の計100万円を支給する制度だ。若松さんは断言する。

「余計な出費ではありません。安心して育児をすることで社員力も高まり、堅調な会社経営に結びつくと信じています」

1951年、若松種夫社長が設立した当時の社名は「協和縫製工業」だった。1950年生まれの若松秀夫さんは「跡取りに」と期待されていたが、跡を継ぐ気はなかったという。フランス文学が好きで、東大に入って学問を究めたいと考えていた。

ところが、受験をするはずの1969年、学園紛争のあおりを受け、東大は入試を中止。一浪しようにも「東大が廃校する」との情報も飛び交い、若松さんは東北大学に入学する。フランス語の勉強に没頭し、卒業後に就職したのが自宅から歩いて5分で通えるとの気楽な気持ちで選んだファスナー製造に強いY社だった。すると、英語とフランス語に堪能なこの新入社員はすぐにフランス支社に赴任することになり、フランス語ができない現地支店長の懐刀として働いた。

販路拡大のため中近東諸国やアフリカへ足を伸ばしたことも貴重な体験だったが、それ以上に力を注いだのはフランス国内だった。

当時は日本企業がどんどん世界に進出している時代だった。各国での日本企業への風当たりは強く、フランスでのY社も随分と不利な条件を強いられていた。たとえば、外貨獲得のためのフランスからの輸出を禁止されていた。それら難題をクリアするために若松さんは支店長とともに通産省や銀行、裁判所などに足繁く通った。

だが、若松さんはこの毎日に面白みを覚えていた。

「20代の若者がですよ、国のトップと会えるわけです。例えば、ミッテラン大統領の経済ブレーンを務めた有名な弁護士にも当時、毎月のように会っていましたから」

そして10年も経つと、あらかたの裁判も片付き、Y社は世界に超高級ブランドからも「御社のジッパーを使いたい」と依頼されるほどに製品の評価が上がった。だが、仕事が楽になったということは面白みも薄れたことにもなる。また、闘い続けた10年間はさすがに疲れた。1982年、若松さんは辞職し帰国した――。

★続編⇒「そんな働き方では人間のクズになる」ーーランドセルメーカー・協和が『日本でいちばん大切にしたい会社』である理由

(取材・文・撮影/樫田秀樹)